第15話 場越しとパレード

 旅を初めて3日後、サーカス列車は夜霧に覆われた線路を通ってパラグアイのアスンシオンの駅に到着した。


 ここから場越しと呼ばれる怒涛の引越し作業に移行する。


 まず、滑車を使ってゾウ、クマ、ライオンなど重い動物から順に列車から降ろし、次に長物車14台分の機材や装備、道具類、サーカスワゴンなどをコンテナごと運び出す。やがてボランティアで募った500名ほどの設営スタッフとともに、会場であるアスンシオンの遊園地までで檻に入れられた動物や、客席用の椅子や機材などの入ったコンテナを大型トラックで運ぶ。設営スタッフのほとんどは屈強な男たちだが、中には女性もいる。


 運搬、会場設営、観客の誘導や売店での接客や飲食物の販売など多くのことを団員自らの手でやらなければいけないこのサーカスでは、ボランティアの力は非常に大きい。


 私とケニーはホクの運転するレンタカーのマイクロバスでシンディやジャン、ヤスミーナと一緒に遊園地に向かった。ホクが運転できたことに驚いた。


「君、運転できるの?」と助手席から尋ねると、ホクは前を向いたまま無言で親指を立てた。結構いいキャラしてるのかも。


 街にはスペイン植民地時代のコロニアル様式の建築が多く見られる。頂上に国旗のはためく巨大な政府宮殿や、巨大なパラグアイ川が視界を横切って行く。


 シンディの横に座ったケニーは真っ赤な顔で俯いている。ケニーの後ろのジャンが窓から通行人に大声で「おーいみんな、サーカスが来たぞ! 観にこいよ!」と叫んだ後、大きな声で出鱈目な歌を歌い出した。




ブランコ 玉乗り ジャグリング

楽しいサーカスがやってきた

みんなこいこい パレードだ

テントで始まる夢の世界

            ♬



 音程もリズムも壊滅的な即興の歌にシンディとヤスミーナは笑い転げていた。ケニーも吹き出し遠慮がちに肩を震わせた。ホクは無表情だった。ジャンは笑われても意に介す様子もない。「俺様の歌声に聴き惚れちまったか!」と得意げだ。


「歌は上手い下手じゃないよ、歌詞と曲はなかなかイカしてる」とコメントしておいた。


 公演の準備から運営、撤去まで全て団員たちがメインになって行うこのサーカスでは、公演前は事務員も一緒に設営作業をする。


 遊園地に着くと停車された車のライトやわずかな街灯の灯りを頼りに、激しい風雨にも耐えられる丈夫な大テントを設営するための作業に移行する。


 人目につく心配のない夜にテントを張ってしまうのは、観客の夢を壊さないための配慮だとルーファスが教えてくれた。


 葉巻をくわえたピアジェは大声で汚い言葉を浴びせながら、スタッフや団員たちに次々に指示をしている。


 危険と隣り合わせの力仕事と丹念な釘打ち作業によって太い支柱が8本建てられたら、重さ1トンの耐火テントがトラックから降ろされ、梱包を解いて地面いっぱいに広げられる。その後皆で縮まった皺だらけのテントの生地を手で伸ばして広げる。


 やがて帆布でできたクラーケンのように巨大な高さ20メートル、幅50メートルのテントが、夜空に向かってゆっくりと背伸びをするみたいに広げられる。


 黄色や赤、青の屋根と壁に囲まれたカラフルなテントだ。尖ったテントの先には、赤、白、青の三角フラッグがはためいている。


 しかし設営はここで終わりではない。演技に失敗して落ちた時用の落下用ネットの設置や、空中ブランコ用のバーが緩んでいないか、テントを支える柱が脆くなっていないかの点検もしなくてはならない。これは主にピアジェとルーファスが中心になってやる。命を守る装置だから、少しの綻びも許されない。


 私はシンディたちと一緒に、子どもたちが目を輝かせるキャンディやポップコーン、アイスクリームなどを売る売店用のワゴンをテントの前に設置する作業をした。オーロラとサーカスを観に行った日のことを思い出して懐かしい気持ちになった。夢を与えるサーカス。テントや売店を見るだけで、子ども時代に帰ったみたいに胸が高鳴り、期待と興奮が身体中に漲るようだった。


 遊園地のあちこちにロープに吊り下げられた世界各国の国旗や三角フラッグを貼りめぐらすなど、作業員たちは休む暇もなく動き続けた。


 8時間かけてテント設営が終わると、空中芸をするパフォーマーが参加してブランコやリボンなど空中に設置された機材の動作チェックが行われる。少しの綻びが命に関わるからである。


 テントの中、直径14. 5Mの円形のサーカスリングの中央からは、360° 10階まで階段のように連なる客席を見渡すことができる。暖房設備もついているこのテントには2000人の観客を収容することができる。こんな場所で演技したらどれほどエキサイティングだろう。考えるだけで胸が躍った。


 これから3日間、この地で昼と夜の2回公演が行われる。終わればまた別の街に移動する。


 開演が待ち遠しい。わくわくしている私の側に、役目を終えたシンディとアルフレッド、ジャンがやってきた。


「去年のテーマは『ホラー』だったのよ」とシンディが言った。


「そうそう。去年はオープニングに、みんなで仮装してマイケル・ジャクソンの『スリラー』を踊ったんだ」とアルフレッド。


「シンディはセイレーンだ。アルフはフランケン・シュタイン、ミラーはミイラ男だった」ジャンも続く。


「あれは傑作だったな」とアルフレッドが笑う。ホラー映画好きな私からしたら、去年の公演の話を聞いているだけで気持ちが浮き立つ。


「僕も一緒に踊りたかったよ」


「今年は創立100年を記念して、『銀河鉄道の夜』をイメージした『星まつり』っていう公演をやるの」とシンディが言う。


「絵本で読んだことがあるよ、すごく綺麗な物語だよね」


 どうやらその作品は、日本の宮沢賢治という作家の『銀河鉄道の夜』の大ファンであるピアジェの元奥さんが在籍していた時に演出を考えたものらしく、節目節目に演じられているという。私もその作品は絵本で読んだことがあって好きだった。


「楽しみにしてて。きっと感動すると思うわ」


 シンディは明るい笑顔を見せた。


 深夜にサーカステントの周りに張り巡らされた宿泊用テントで短い休息を終えたメンバーは、早朝に動物たちも合流し、楽団も加わってのリハーサルに参加する。楽団の都合がつかない時は音源を使うが、地域によってはオーケストラと共演することもある。今回はそのパターンだった。


 音楽と共に繰り広げられる仲間たちの全力のパフォーマンスに早くも目が釘付けになった。


 ショーの合間の機材の撤去なども全て団員たちの手で行われる。余りに重い機材の運搬はボランティアが手伝うこともあるが、このサーカス団では撤去作業だけでなく観客の誘導や売店の売り子などほとんどの作業をメンバー間で交代して行うらしい。


 私はケニーと一緒に無人の観客席から緊張感とエネルギーにあふれる仲間たちの演技の様子を見守った。とりわけケニーはシンディに目が釘付けだ。


「シンディのことが好きなの?」


 ケニーは顔を真っ赤にしながら「馬鹿っ、そんなことあるか!」と否定した。


「やっぱり、赤くなってるよ」


 ケニーは俯いた。


「どうせ叶わぬ恋さ、彼女みたいなキラキラした人が僕に振り向くはずはない」


「そんなの、やってみなきゃわからないわ」


「いいんだよ、見ているだけで」とケニーは微笑んだ。伯父の恋を応援したかったが、今は本当に見ているだけで満足しているようなので手を出さないでおこうと思った。私が下手に動くことでおかしなことになってもよくないし。


「気づいたんだけど」


 曲芸の練習をするゾウのトリュフが丸い台に両脚を乗せるのを見つめながら、私はあることが気になっていた。


「このサーカスにクラウンはいないのかな?」


「そういえば、いないな」

 

 どのサーカスにもクラウンはいるものだけれど、このサーカス団でそれらしき存在に出会ったことはない。


 ちょうど歌の音響調整と練習を終えてやってきたジュリエッタに尋ねるとこう言った。


「1ヶ月前まではいたのよ。詳しくは教えられないんだけど、事情があって辞めたの」


「補充はしなかったの?」


「オーディションは何回もしたわ。たけど、ここは給料も安いし団長もあんなだから、面接のあとでみんな断るのよ」


「そうなんだ……。好きなのに、クラウン」


「クラウンがいないサーカス団なんて、玉ねぎの入ってないカレーのようなものだわ」


 ジュリエッタはため息をついて、トリュフを台から下ろし観客に礼をしてアリーナを去るトムを拍手で見送った。


「そうだ」といつの間にか私の横に来ていたルーファスが言った。思わず「わっ、いたんだ!」と声が出る。「悪かったな、チビで」とルーファスは肩を竦めてみせた。


「クラウンはただ観客を楽しませるだけじゃなくて、ショーの合間の繋ぎの役割をする。演劇なんかだと舞台に幕があるけれど、サーカスにはない。幕の役割を担うのがクラウンなんだ。サーカスの中心ーーいわば太陽みたいなものだ。空中ブランコや綱渡りなんかの芸は観ていてハラハラするもんだが、クラウンはそんな緊張した空気を和らげる役割もある。いないと全てが物足りない。ショーにおける笑いの要素が半減して、サーカス全体が締まらないんだ」


「前にルーファスがクラウンをやって酷い目に遭ったのよ」


 出番を終えて戻ってきたシンディが、面白い記憶を辿るみたいにくすくす笑った。ケニーはシンディが来た途端に挙動不審になって、ガチガチに身体が固まっている。


「ああ……。やる奴がいないなら俺が出ようと思ってな。ある日慣れない玉乗りの練習をしようとしたら、後ろにすっ転んで頭を打っちまった。目の前で星がチカチカ飛んだよ。俺には身体を張るショーは向いてないと分かった」


 ルーファスはわざと両目の瞳をぐるぐると回しておかしな顔をしてみせた。


ーー私にできるものなら、やってみたいな。


 その言葉を飲み込んだ。やる人がいないならやってみたい。幼い頃からクラウンは憧れの存在だった。


 でも、果たして私にできるだろうか?


 自信も確信もなかった。サーカスは個人競技ではない。パフォーマーやスタッフが一体となって作り上げるものだ。もしやってみて本番で失敗でもしたら仲間に迷惑をかけることになるだけでなく、観衆の面前で無様な姿を晒すことになるのだ。ピアジェも激怒するに違いない。


 恥を晒し己の無能さを呪い挫折を味わうくらいなら、最初からやらない方がいいかもしれない。このときの私は弱気な女子のまま、広いテントの隅に座っていた。



 翌日は午前中からパレードで街を練り歩いた。サーカスの宣伝のための大掛かりなパレードには地元の楽団も参加し、象や馬も同行する。団員の手によってチラシも配られる。


 私とケニーもパレードに参加した。道路脇には沢山の人が見物に来ていた。どの人の目も好奇心と期待で輝いていた。ケニーはこの大掛かりな催しと人の波の中で終始緊張した様子で固まっていたけれど、私は純粋に楽しんでいた。少しずつサーカスの世界が広がっていくことは、心に言い表し難い興奮をもたらした。


 皆を先導しながら先頭をゆっくりと走るのは、ピアジェの運転する白いシボレーだ。そのすぐ後ろを走る2頭の馬に引かれたかぼちゃの馬車のような乗り物に乗ったドレス姿のシンディが、路肩に並ぶ人々に向かって笑顔で手を振る。シンディの横に座ったスーツ姿のルーファスは、椅子の上に立ち窓から身を乗り出してチラシを配っている。


 他の団員たちもイエス・キリストやくるみ割り人形や魔女、ドラマや映画のキャラなど思い思いに仮装をしている。

 

「来てくれよ!」と私の前を歩く変な猫の着ぐるみを着たジャンが小さな男の子の頭を撫でた。


 私はだんだんと湧き上がる興奮が抑えきれなくなった。皆が作り上げた舞台を沢山の人に観て欲しかった。


「みんな、サーカスが来たよ! 空中ブランコにジャグリング、歌やダンスもある! すごく楽しいよ!」


 大きな声で叫んだらケニーは驚いたみたいに私を見た。


「ケニーもやってみたら?」


「いや、やめとくよ」と伯父は苦笑いした。


「君はよくそんなに積極的になれるな、楽しめるのが羨ましいよ」


「楽しいよ。ネロになってサーカス団にいると、何だかすごく自由な感じがするんだ」


「君が楽しいならよかったよ」


 普段はそこまで積極的な方ではない。私のことを深く知らない人には違うでしょ! と突っ込まれるが、むしろ中身は引っ込み思案だと思っている。男の子のふりをしているからか、サーカスという非日常的な空間がそうさせているのか。私の心は忙しい中でもずっとお祭り気分で、とても自由で解放感に満ちていた。こんなこと今まで考えられなかった。大学のレポートや立ち行かない退屈な恋愛のこと、将来のこと、鬱陶しい人間関係などで悩んでいた日々が嘘みたいだ。


 今日は特に気持ちが昂っていた。もうすぐエキサイティングなショーが始まる。もちろん出演はしないけれど、私もその中の一人なのだと思うと特別な存在になったみたいで何だか嬉しかった。悩みといったら遠くにいる母と祖母のことやオーロラのことだ。彼女たちが元気でいたらいい。手紙が届いていたらいい。私とケニーがこうして新しい環境で揉まれながらも仲間に囲まれて生きていることを彼女らに伝えたかった。できるならこの華やかなパレードとサーカスを観せてあげたい。


 今日の開演は午後の13時からだ。


 テントの前にはお昼前から長い行列ができていた。ピアジェに命じられ、私はスタッフの数人と一緒にテントの入り口付近でチケットを切る係をした。売店から綿菓子の甘い香りと、ポップコーンの香ばしい香りが漂ってくる。アイスクリームを舐める小さな子どもやお年寄り、若いカップル、家族連れーー。皆笑顔で通り過ぎてゆく。賑やかな人々の声に包まれる。誰もがこれから始まるショーに胸を膨らませているのだ。時間が近づくにつれ、段々気分が高揚してきた。早く本番を見たかった。仲間たちの絶え間ない努力の成果を。


 仲間たちは舞台裏で、男女別々の控室に分かれて各々着替えやメイクをしている。たまに頼まれて男性メンバーの着替えを手伝ったりしながら皆を和ますようなジョークを飛ばしていたら、白い長テーブルに置かれた鏡に向かっていたジャンが「ネロ、お前クラウンに向いてんじゃねぇか?」といつになく真顔で言った。


「そうかな?」


「あぁ、ずっと思ってたんだ。お前髪の色とか格好がクラウンっぽいし、何よりたまに言うことが面白いし、仕草が見てるだけで可笑しいんだよ」


「僕も思うよ」と同じく鏡と睨めっこしながらファンデーションを塗っていたアルフレッドが同意する。


「君って、表情が豊かで動きがコミカルだもんな。いいんじゃないかな? 君みたいなやんちゃで可愛いクラウンがいても」


「本当? ならやってみてもいいかも」


 幼い頃からクラウンに憧れていた。サーカスで一番何を演じたいかと聞かれたら、迷わずクラウンと答えるくらいには。


 子どもも大人も魅了するクラウン。笑いの中心にいる人気者で、突拍子もない可笑しな表情や動作で会場を沸かせ、綱渡りやジャグリング、アクロバットなどすごい技で観客を魅了してサーカスを盛り上げる。


 このサーカス団にクラウンがいないと聞いたとき、やってみたいという台詞を飲み込んだ。でも、みんなが私にクラウンの適性を見出してくれているのなら、挑戦してみてもいいかもしれない。


 すっかりその気になっていたときに、ミラーが横槍を入れた。


「そんな一夕一朝でできるようなもんじゃねーだろ。今からやるってなったら、すごい量のトレーニングをこなさないとダメだ」


 考えてみて我にかえった。皆子どもの時からキッズサーカスで活躍しているアーティストばかりだ。しかるべきトレーニングによって鍛え抜かれた肉体、豊かな経験と確かな技術ーー。その全てが今の私には無い。専門の学校も出ていない、知識もない私にとって真っ白からのスタートは、苦難の道に違いない。


「そっか……じゃあ僕には……」


 諦めかけたとき、ジャンが強く肩を叩いた。


「やる前から出来ないって決めてどうすんだ? 俺だってサーカス学校入りたてのころは、先輩たちが演技してるの見てあんな大技決めるなんて絶対無理って思ってたけど、今はこの通りだ」


「そうそう、やる気になれば人間何でもできるもんさ。もちろんやる気だけではどうにもならないこともあるけど……きみはまだまだ若い。今からいくらでも取り返せるさ」アルフレッドも励ましてくれた。


 確かにその通りだ。本当に向いているか、できるかどうかはやってみないとわからない。今まで色んなことを極める途中に投げ出してしまった。今回はできる気がする。やってみたい。


 ジャンとアルフレッドの言葉に、もう一度前向きな気持ちが漲ってくるのを感じた。


 ルーファスがやってきて声をかけ、仲間たちは控え室を出てアリーナに向かう。アーチ型のエントランス前でスタッフも団員も丸くなって手を合わせて円陣を組む。ヤスミーナとシンディが私も中に入れてくれた。


 輪の中心にいる団長が杖を掲げ、景気付けとばかりに大きな声で叫ぶ。


「みんな、脚を折れ!」


 ちなみに脚を折れは怪我をするという意味ではなく、「幸運を祈る」「頑張れ」というニュアンスの意味がある。


 団員たちが"YES!"と一斉に声をあげる。底知れぬエネルギーと、張り詰めたような緊張感ーー。


 今サーカスが始まる。

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