第14話 勤務初日

 気づいたら眠っていたらしい。背中と首の痛みで目が覚めた。車輪が線路の上を転がる音と振動、檻の中で眠る獅子の発する鼻をつくような獣の匂いで、昨日起こったことが現実なのだと分かった。耳栓はいつの間にか耳の穴から外れて床に落ちていた。


 ケニーはシドニーの街のベーカリーで何度も買って食べた美味しいクリームチーズパンのように白いぽっこりお腹をシャツからはみ出させ、大の字になって鼾をかき歯軋りしながら眠っている。半身を起こし鈍く痛む首を回し、欠伸と一緒に大きく伸びをしたところでルチアが現れた。


「おはよう」と右手を上げ笑いかけると、ルチアも「おはよう」と微笑んだ。


「今、パパがくるわ。そのおじさんを起こしておいてね」


「分かった!」


 慌ててケニーの腹を人差し指でつついて起こそうとするも、彼は長い唸り声をあげ子どものように「ママ、まだ寝かせてくれよ〜」と答えるばかりだ。幼い頃の夢でも見ているんだろうか。考えてみたら彼も引きこもる前は私と同じように母親に甘えたり、眠いのを叩き起こされ学校に行っていた時代があったのだ。彼から奪われた未来ーー友人たちと遊び、語らい、マイペースにできるような仕事を見つけて、素敵な恋人と笑い合う未来がこれから訪れることを心から祈った。本当に神様がいるとしたら、私たちに手遅れなんてないっていうことを、いつからでも人生はやり直せるってことを教えて欲しい。私はケニーと少しでも明るい未来を見たい。


 不意にガラリとドアが開いて男が入ってきた。黒いスーツに身を包んだ、長身ですらりとした男だったが、どこか胡散臭い匂いがする。ミラーやルチアとは違う黒髪と真っ黒な瞳をしていて、尖った顎の下には黒い髭が生えている。私は未だ夢の中にいるケニーを揺り起こし、彼の閉じていた目が開いたのを確認して立ち上がった。ケニーは目の前に仁王立ちになる男の姿を見て「わっ、誰だ?!」と声を上げて飛び起きキョロキョロと辺りを見回し、背後の檻のライオンを見て昨夜と同じようにギャー! と大声で叫んだ。


「ケニー、ここはサーカス列車よ。昨日ここに泊まったでしょ? 団長が来たのよ。話を聞きましょう」


「ああ……そういえばそうだったな」


 ケニーは慌てて立ち上がると、ピンと手脚を伸ばして身を固めかしこまったように団長を見た。目の前の男はその蛇のような鋭く狡猾そうな目で値踏みするように私とケニーを上から下までジロジロ眺め、「君たちが侵入者だね?」と口角を上げた。まるで犯罪者のような呼ばれ方だ。まぁ勝手に乗り込んだのは事実だけれど、事情が事情だし。


 男の光のない冷たい瞳と作り物のような笑顔に、得体の知れない違和感と恐ろしさを感じた。私はこの人が苦手だ。多分この先好きになることはできないだろう。悲しいことに、私のこういう直感はよく当たる。


「私はこのミルキーウェイ・トレインサーカスの団長のピアジェという者だ、よろしく頼むよ」


 銀河鉄道サーカス。宮沢賢治の童話のタイトルみたいで素敵な名前だと思った。


 彼は私たち二人と握手を交わした後、口の端を上げて見せた。私はこの笑い方を、『人形スマイル』と呼ぶことにした。とりあえず今は目の前の男の機嫌を損ねないように、上手くやるしかない。


「僕はネロです。23歳です。彼は伯父のケニー。前は広告会社に勤めてたんです」


「よよよ……よろしくお願いします!」


 完全に萎縮したみたいに、ケニーはガチガチに固まった身体と声で挨拶をした。ケニーのこの反応は一見極端ではあるが、目の前の男には妙な威圧感があった。ただそこにいるだけで他人に恐れを抱かせるようなーーちょうどすぐ頭上からクレーンにぶら下げられた100tの積荷が降りてきて、今すぐにこの場から逃げねばならないのに脚が竦んでしまって動けないような。


「新入りの君には掃除や洗濯なんかの雑用や、動物の世話を頼みたいんだが……」ピアジェは探るように私を見た。


「家事はよくやっていたので……。あと、祖父母が農場を経営していて、そこでよく動物の世話をしていました。なので大丈夫だと思います」


 団長は指で鼻の下の髭をさすって、ふむと短く相槌を打った。


「「このサーカスは私の曽祖父の代から続いていて、100年以上の歴史がある。今年は創立100年を記念して世界公演をすることにした。2年近くかけて世界中の国々を廻り公演する予定だ。家族に会えるのなど年に数回だし、外国にいる時間の方が長い。想像以上に過酷だが、君にはついてくる覚悟があるかね?」」


 彼の表情も声も不気味なほどに冷静だ。本心の読めない洞穴のような瞳に、下手したら飲み込まれてしまいそうだ。


「あります、何でもします! 何があっても絶対に弱音を吐きません」


 男は数度頷きケニーに目をやった。


「君は何ができる?」


「はい、一応ウェブデザインの資格を……。広告の仕事もしていたので……」


「うちにはパフォーマーやスタッフ含め60人くらいの団員がいる。演者以外にコックもいるし、電気機器や照明や音響などの機材を扱う仕事をしている者もいる。営業をする奴もな。


 広告担当者っていうのもいるんだが、先月一人辞めてしまってね。実はうちにはHPがあるんだ。このご時世、インターネットを使った広報活動ってのは超がつくほどの重要課題だ。他にも何人か事務員がいるが、どいつもこいつも使えない馬鹿ばっかりでな。よければ君に広報の仕事をやってほしいんだが……」


 有無を言わせぬ口調だった。ケニーは「やります、やります」と何回も頷いた。


 そもそも通信環境とか大丈夫なんだろうかと不安を覚えたところで、見透かしたみたいにピアジェが答えた。


「じゃあ早速今日から頼むよ。事務所はWi-Fiが通るようにしてある。と言っても電車での移動だから、通信は不安定だし多少不便を感じるかもしれんが……。事務所にあるパソコンを一台使っていい」


 その後ピアジェはもう一度私に視線を移した。


「君はネロといったか。雑用に関してはジェロニモという小僧がいるから、そいつに聞くんだな。それと、うちには日本人の獣医師とアメリカ人の調教師がいるんだが、ルチアと一緒に彼らの手伝いをしてくれ。餌やりなんかの世話は主にルチアがやってるから、彼女に教わるように。じゃあ、ごきげんよう」


 男はまたにっと不気味に笑うと右手をあげて踵を返し、『雨に唄えば』を口ずさみながら歩き去った。


「私、なんかあいつ苦手だわ」


 隣の車両に消えていく男に、ディアナともまた違う不穏な圧と不気味さを感じていた。もし彼を怒らせるようなことがあれば我々はとんでもない目に遭うのだろうということが、言わずして分かるような。少なくとも彼は、これまでに見たどんな人間とも悪い意味で違って見えた。


「シッ、聞こえたらどうする」


 蒼白になったケニーの様子から、彼も私と同じくピアジェの中にただならぬものを見たのだろうことが見てとれる。信用できる人間とそうでない人間に分けた時、ピアジェは完全に後者であろう。


「あいつと深く関わらない方がいいわ、ケニー。彼はあなたをうまく利用しようとするかもしれない」


「うん……。その可能性は高いな、僕の昔の上司でもあんな奴がいた。かなり痛い目を見せられたから、よくわかるよ」


「無理をしないで。もう駄目だと思ったら、逃げたっていい」


「分かったよ、アヴィー。とりあえず彼の下でやってみる。大丈夫、上手くやるさ。引き篭もりのキャリアはあるけど、一応社会人の経験もあるんだ。君も自分の仕事を頑張れ」


 心配なのにはかわりなかったが、ここはケニーの気持ちを尊重するしかない。せっかく彼は自分を生かせる道を与えられたのだから。ケニーと拳をつき合わせ、お互いの健闘を祈った。


 間も無くルーファスという130センチくらいの身長の小さな男性がやってきて、列車の中を案内すると言った。


 マネージャーであるルーファスは、ピアジェの右腕として主に営業やサーカスの演出、運営などを担っているそうだ。彼は時折ジョークを交えながら、一種の電車内に造られたサーカス用の施設も言い換えられるような長く連なる列車の内部を案内をしてくれた。


「身体は小さいが、中身はちゃんとおっさんやってるからな。よろしく」とルーファスはおどけた。身長こそ小学校低学年の子どもくらいしかないが、栗色の巻毛に覆われた顔と低い声は確かに中年の男性のものだった。


 1両目の運転席の後ろが車掌室になっており、2両目は大きなエンジンルームになっている。


 3両目は厨房で、コックが2人で団員全員分の料理を給仕する。4両目は食堂車。4人がけの席に座ってご飯を食べられる仕組みになっている。皆で観られるよう、車両真ん中の壁際に設られた棚の上にテレビが置かれている。


 5両目からは客船みたいに狭い通路が続いていて、白い壁に埋め込まれた部屋のドアが並んでいる。ちなみに通路は人一人がギリギリ通れるくらいの狭さだから、誰かとすれ違う時は壁に背中をつけないといけない。


 5両目はケニーたちの働くことになる事務所だ。一番奥にあるのがピアジェのデスクで、その周りに書類やPCなどが積まれたデスクが並んでいる。列車の中に会社があるなんて不思議だけれど、効率的な方法だと思う。ルーファス曰く、ここでは働く職員には事務員の他に営業担当というのもいるそうだ。


 6〜10両目までは男性部屋が一つの車両に3部屋ずつ並んでいる。男性車両にも女性車両にもトイレが一つずつついているらしい。基本的に二人部屋らしい。一部屋一部屋は小さく、部屋の真ん中に小さなテーブルがあり、部屋を入って左側にニ段ベッドが置かれている。あとは部屋の隅におもちゃのような流し台があるくらいだ。トイレとシャワーは共用らしい。誰と同じ部屋になるか今から楽しみだ。


 11両目は筋トレの機械やウォーキングマシンやフィットネスバイク、などが並んだジムのようになってる。12両目は曲芸などを練習するための部屋で、二つの吊り革のようなものが天井からぶら下がっていたり、鉄棒や、おそらくブランコ乗りが使うのであろう低い位置に据えられた練習用のバーもある。床にはマットレスが何枚も重ねられて敷かれている。フラフープや緑や赤の大きなボール、背の高い一輪車などの道具もある。


 全員が一緒に練習するのは物理的に不可能なため、タイムスケジュールに沿って練習が行われるらしい。特に空中技はテントでないとできないので、車内でできる技を安全に注意して練習するという。天井が低いし狭いから大変そうだが、見ていてワクワクする。


 13両目が共用の風呂場だ。狭いけれどロッカーもあり、男女別に壁で仕切られている。その隣に洗濯室があって、コインランドリーにあるみたいな5台の全自動洗濯機が並んでいる。


 14両目〜20両目までは女性団員の部屋が並ぶ。

 

 ピアジェやルーファスは幹部のため一人部屋になっている。一人部屋が理想という人もいるかもしれないけれど、私は誰かと一緒の方がかえって楽しくていいと思う。でも、ミラーと一緒の部屋になるのだけは絶対に嫌だな。


 21両目は全体がウォークインクローゼットみたいになっていて、団員たちの着る衣装が置いてあった。真ん中にはテーブルと椅子が置いてあり、その上に何台かのミシンや、サーカス衣装を着せられたミニチュア人形がある。ここでジュリエッタはじめ服飾係のスタッフがサーカス用の服を作るのだそうだ。


 22両目から26両目までは動物用に造られた特殊な車両になっている。各車両に檻があり、人が外から出入りする扉が大きな檻の手前に一つある。動物たちの乗る5両の後ろに動物たちの餌や、サーカス用ワゴンや機械類、テント、その他の機材が乗った貨物車が続いている。


「何だか客船みたいだな、すごいや」


 ケニーは感嘆した。


 ルーファスは途中で「獣医のホタルにお前を紹介しないとな」と言って私を連れて女性団員の部屋のある車両に引き返し、そのうちの一つの部屋のドアをノックした。


「入っていいわよ!」と快活な声が返ってくる。ルーファスがドアを開くと、2段ベッドの上の段で逆立ちの姿勢で前後開脚をしているブロンドの女性が目に入った。髪を後ろで一つに結って、目は澄んだ青い色をしている。


「ホタルはどこだ?」とルーファスが尋ねると、「彼女なら動物車に行ったわ」と彼女は眩しいほどの笑顔で答え私に目を向けた。


「この赤毛の男の子は新入りさん?」


「そうだ、今日から入った奴だ。動物のお世話をする」


「ふぅん、名前は何で言うの? 私はシンディよ、コントージョニストなの!」


「僕はネロ。君みたいな綺麗な女性がいて、このサーカス団はラッキーだね」


 褒められたシンディは逆立ち姿勢のまま声を出して笑った。


「お世辞が上手いのね」


「お世辞じゃないよ。ところでコントージョニストって何?」


「身体の柔らかさを生かした演技をするアーティストのことよ」


 シンディは姿勢を戻してベッドから飛び降り音もなく着地し、「よろしくね、ネロ」と右手を差し出した。手を握り返し、「こちらこそよろしく。今度さっきの技を教えてよ」


 シンディは「ふふふ、いいわよ」と笑った。


「可愛い男の子だわ。頑張ってね、新人さん」


「ありがとう、君も練習がんばって。くれぐれも怪我をしないようにね!」


「大丈夫よ、毎日訓練してるから」と彼女はひらひら手を振った。その明るい笑顔を見ていると、こっちまで元気になれそうな気がした。


 動物車両に入ると、大きなツキノワグマの檻の中に黒髪ショートボブの白衣の女性が一人いた。黒いアタッシュケースを床に置き、聴診器を取り出して首にかけている。アタッシュケースケースの中には、注射針や薬の瓶らしきもの、手術用の鋏などが詰め込まれている。私の視線に気づいた彼女は、顔を上げてこちらを見た。厳格そうな人というのが第一印象だった。


 檻にいるツキノワグマは温厚な性格らしく、私を見ても威嚇する様子はない。


 振り向いたらいつの間にかルーファスは消えていた。サーカスだけにイリュージョンのようだと頭の中で冗談を言う間もなく、女性は鋭い目を私に向けた。


「あなたは?」


「僕はネロっていいます。今日から動物たちのお世話をさせてもらうことになりました。よろしくお願いします」

 

 ホタルはそう、と淡白に相槌を打って檻から出て鍵をかけると業務の説明を始めた。


「私はホタル。ここの獣医師よ。あなたには動物の体を洗ったり、動物の檻の掃除や餌やりをしてもらいたいの。世話に関してはルチアが後で終えてくれる」


「分かりました」


「これは動物たちの記録よ。読んでみて」


 ホタルから受け取ったノートには動物たちの名前と特徴、性格、彼らの体温や体調などの記録が仔細に記されていた。


「言っとくけどこの仕事はかなりハードよ。朝は早いし、汚れ仕事もたくさんある。ここの動物たちは人間に慣れてるから言うことを聞く子も多いけど、中には信用するまで心を開かない子もいる」


「あのライオンとか?」


「ええ、そうね。ライオンのレオポルドは、警戒心が強くて会ったばかりの他人には攻撃的になる。ただでさえライオンやクマなんかの世話は危険が伴うわ。だから、彼らの世話は絶対に1人でやらないで、私やトムと一緒にやること。何か動物に異常があったらすぐに教えて」


「ラジャー!」


 戯けて敬礼のサインをして見せたが、ホタルはにこりともしない。派手にスベったみたいで恥ずかしかった。


「このツキノワグマはニックっていうの。見た目は怖いけど、すごく穏やかな子なのよ。あのピアジェのクズが、去年まで彼にオートバイショーをやらせてたの。いくらやめろと言っても聞かなかった。去年ショーで転んでしまって、その動画が拡散されて動物愛護団体なんかから沢山批判が来て結局辞めたけど。奴は動物を儲けるための道具としか考えてない」


「酷いね」


 オートバイなんて私ですら乗るのが怖いのに、ニックはどれほど怖い思いをしただろう。人間のエゴで危険なことをやらされる動物たちのことを考えると胸が痛む。それがピアジェの自尊心を満たすためと、金儲けのためと思えば尚更。


「私は過去に、NPOで戦争や災害に遭った地域の動物たちを治療する仕事をしてた。怪我や病気をした子もいたし、中には救助活動で疲れて弱ってしまった救助犬もいた。動物は言葉を持たない分、痛みや苦しみを察してあげられる存在が必要なの。守ってやれるのは私たちだけよ」


 ホタルの言葉を胸に刻んだ。


 隣の車両の檻には茶色い毛の馬と白馬が一頭ずついた。牝馬は初対面の私に興味津々で近寄り、鼻先を檻の隙間から突き出してきた。


「すごく綺麗な子だね」


「ええ、プレッツェルって名前の子よ。曲芸用の馬なの。よくシンディが乗り回してるわ。人懐っこいけど、すごくお転婆なの」


 ホタルは檻を開けてプレッツェルの身体をそっと撫でた。


「やぁ、プレッツェル。君はゴージャスな女の子だね」と声をかけて鼻先を撫でてやったら、彼女は嬉しそうに鼻を顔に押し付けてきた。


「馬に乗ってみたいな」


「慣れたらね」


 祖父母の牧場で馬に乗ったことは数えきれないほどある。中学の頃は乗馬の大会にでたこともあったくらいだ。だから馬を見るとつい気持ちが高揚してしまう。


 ホタルは鍵を開けて檻に入ると、聴診器を馬の身体に当て、真剣な顔で音を聞いていた。その後彼女は馬の立髪を撫でて話しかけ、また鍵をかけて隣の檻に向かった。隣の檻には雄の白馬がいた。彼はじゃれつくこももなく、静謐さを秘めた瞳で私の顔を見つめた。


「彼はジョン。どちらかというと彼の方が初心者向けね。あなたもすぐに慣れると思う」


「やぁ、ジョン。君はすごくハンサムだね」


 声をかけ、身体を撫でてやった。ホタルは「もう少しでルチアがご飯を持ってくるから、待ってるのよ」と2頭に声をかけた。


 その後ホタルに連れられゾウのトリュフとやんちゃな猿のコリンズにも会った。トリュフは穏やかで、試しにリンゴをあげたらホースみたいな鼻の先で受け取って口に運んでむしゃむしゃと食べた。灰色の身体にそっと手で触れてみた。ざらざらとしたぶ厚い皮膚の感触が心地よかった。


 一方、猿のコリンズは診察の間一時もじっとしていなかった。苦心しながら診察を終えた獣医が小さな檻を閉じようとした時、コリンズが隙を見て外に逃げ出した。


「あっ、また逃げたわ! ネロ、捕まえてちょうだい!」


 脱走常習犯らしいコリンズは必死に追いかける私に向かって歯茎を出してキッキッキと笑い、檻の上や床の上を素早く逃げ回った。何となく、初対面の私を小馬鹿にしている感もある。


 2人がかりでやっとのことで捕まえ檻に閉じ込めた時には汗だくになっていた。


「コリンズはよく逃げるの。戸を開けて車両を走り回って悪戯をするから要注意よ。前は厨房からバナナを盗んだの」

 

 ホタルが困ったみたいに言った。


 最後に辿り着いたのは、動物の乗る車両の最後尾にあるライオンのレオポルドの檻だった。


 彼は昨日と同じく、警戒心むき出しの目を私に向け唸った。明るいところで見るレオポルドには、その逞しい身体で今にも檻を飛び出して駆け出しそうなエネルギーが漲っている。


 ライオンの診察の時は念のため調教師のトムが同席する。トムは小柄で白髪頭の、ちょび髭を生やした50代後半くらいの男性だった。トムが終始軽快にジョークを飛ばしながらライオンを上手く宥めてくれたおかげで、診察はスムーズに進んだ。


「彼らにも人と同じで心がある。気持ちの好不調もな。どの動物だってサーカスには欠かせないし、元気でいて貰わなくちゃならない。もちろんレオポルドにも」


 トムが優しくライオンの立髪を撫でるのに倣って、私も一瞬だけ触れてみた。稲穂のような立髪は見た目以上に硬かった。トムがブラッシングをするのを見ながら、来世ライオンの雄に生まれ変わったらキングになるのも悪くないかもしれないな、なんて思ったりした。


 その後はルチアと一緒に動物たちに餌やりをしたり、バケツにくんだ水とブラシなど専用の道具を使って象や馬の身体を洗ってあげたりした。動物の世話は基本的に、早朝の6:00〜7:00にやるのだという。つまり、5:30には起きていないといけないということだ。日によって動物たちの食べる餌を運んできて積み込まないといけないこともあるらしい。


 象のトリュフはルチアあげた林檎を鼻の先で受け取って満足そうに食べた。その様子をルチアは目を細めて眺めている。


「トリュフはアフリカ象で、最初すごく暴れん坊だったの。あんまり言うことを聞かないから、パパは動物園に返すなんて言い出す始末で……」


「それは大変だったね。どうやってこんなに大人しくなったの?」


「パパに面倒を見させるのを辞めて、私やトムが中心になってお世話をするようになったら大人しくなったのよ」


 ルチアはブラシでトリュフの脇腹の辺りを洗いながら、「これを言ったら、笑われるかもしれないけれど……」とためらいがちに切り出した。


「私ね、動物の気持ちが分かるの」


 不思議と驚きはしなかった。動物の声が聞こえることはないが、私自身対人間よりも彼らとの方が通じ合えるような気がすることがよくあったからだ。


「そうなんだ、テレパシーみたいな?」


「そんな感じ。ちょうど、彼女たちが何を考えているのか、何をしたいと感じているかが分かるの。直接言葉で話せるというよりは、彼らの意思や感覚が頭の中に流れ込んでくるみたいな……。上手く説明できないんだけどね。気味悪がられると思って、あんまり人には言ってないんだけど……」


「僕は正直、サーカスに動物を使うのは少し可哀想だなって思ってしまうんだ。でもここの子たちを見たら、少し考えが変わりそうかも」


「いいの、それが正常な反応よ。動物をサーカスに使うこと、かわいそうだって今でも思うわ。多くの人は思ってるの。イギリス国内でもデモが起きてる。動物愛護団体だけでなく、一般の人からもたくさん電話がかかってくるわ。動物を人間の娯楽のために使うな、見せ物にするなってね」


「僕も反対派だったから、よく分かるよ」


「国の法律では、野生動物のサーカスでの使用は禁止されてる。だけどうちの動物たちは元々は野生の動物を繁殖させて生まれた2世や3世の子たちだから、野生動物ってことにはならないの」


「難しいところだよね。動物たちが楽しんでいればいいけど、彼らの側に立てば鞭を振るわれるのは痛いだろうし、それを見て可哀想だと思う人もいる」


「そうね。私は調教の時絶対に鞭は使わないことにしてる。動物たちには優しく語りかけてるの。分かり合えないと思ってるのは人間の側だけよ。心で対話しようとすれば、ちゃんと通じるもの」


「ちなみに、ここの動物たちは今何を思ってる? 彼らはここにいて……サーカスに出ていて幸せなのかな?」


 以前、動物のサーカス使用に反対する愛護団体の人たちがデモを起こしているのをニュースで見た。彼らほど主体的な行動に出るつもりはないけれど、幼い頃から当たり前のように動物に親しんでいて動物が大好きな私からしたら、檻に入れられっぱなしで長時間の移動を余儀なくされ、人間の娯楽のために調教されて見せ物みたいにされる彼らを見ていたら、とても幸せだとは思えなかった。


 ルチアは最初トリュフの大きな耳を撫でながら、神妙な表情を浮かべたまま黙っていた。


「ここの子たちのほとんどは、サーカスに出て芸を披露して拍手してもらったり、誉めてもらうことを楽しいと感じてるわ。人と同じように緊張したりストレスを感じることはあるし、鞭で叩かれるのは痛いし怖いから嫌がってるけど……。彼ら自身も団員たちと同じようにパフォーマンスを楽しんでいるの。本当に不思議なことなんだけどね」


「そうなんだ、それはすごいな。僕ならこんな檻に閉じ込められて人間の都合で使われるなんて、絶対ストレスが溜まるだろうな。それなら野生で自由に暮らしたいって思うよ」


「私も最初はそう思っていたわ。だけどここの子たちは小さな頃から動物園にいたり、サーカス用に調教されている子が多いから、野生の世界を知らないのよ。彼らにとってはここが全てなの。この環境や人との生活に順応して生きてる」


「僕のように、無理してないならいいけど」


 合わせていくことは衝突やトラブルを生まないで済むという意味で、抗うよりずっと楽だ。でも、不満や感情を押し殺す分すごく鬱憤が溜まるし疲れる。動物というのは繊細で、環境の変化や物音や人の気持ちに対してとても敏感だから、私以上に多くのことを感じ取るだろう。長時間に渡る移動のストレスや、ショーへのプレッシャーだってあるはずだ。楽しんでいるのなら良いが、こうして負の側面に目を向けてしまいたくなるのは、私自身が彼らに感情移入したくなるような経験をしてきたからだ。


 彼らは不満や不安、そのほかのことを感じていても言葉にすることはできない。その点で人よりも弱いといえる。だからこそ、私は彼らを理解してできるだけ大切に扱いたいと感じるのかもしれない。


「彼らは言葉がない分、人よりも弱い存在かもしれないね。だから、その分僕たちが彼らの気持ちを読み取って接してあげないとね」


「優しいのね、あなたは」


 ふっとルチアが目を細めた。優しい笑顔だった。


「別に普通さ。思ったことを言っただけ」


「あなたを見たとき思ったの。この人はすごく優しい人だって」


「もし僕が本当は危険な奴だったらどうする? 狼みたいな奴だったら」と言って、私はガルルル、と唸るふりをした。そしたらルチアは「あなたがやると可愛い犬だわ」と笑い、「お手!」とふざけて右手を差し出してきたから、子どもみたいに先出しジャンケンをして遊んだ。


「ケニーもいい人そうよね、軍服を着ているあなたの伯父さん」


「ケニーの優しさについては、僕のお墨付きだよ」


「ふふ、あなたが言うなら間違い無いわね」


 ルチアはそれぞれの動物の性格や、餌やりや掃除のやり方、世話の仕方について丁寧に教えてくれた。彼女の動物への接し方ーー彼らを見つめる時の慈愛に満ちた眼差しも、話しかける時の囁くような声も、大切なものに触れるみたいな触れ方も、動物に対する尊厳と愛情に溢れていた。


 動物たちの世話が終わると、ジェロニモという17歳の少年に車内の掃除と、全員分の服やタオルなどの洗濯を教わった。シャワー室横の狭い洗濯室にはコインランドリーにあるみたいな全自動の大きな洗濯機が5台身を寄せ合うようにして置かれている。カゴに入れられた大量の洗濯物を見たら気が遠くなった。これを毎朝洗うのかと思うと気が遠くなる。


 感情が伝わったのか、ジェロニモは「うんざりするだろ。だけど、一人前のアーティストになるまでは下っ端はこうやって雑用をやる。それがここの決まりさ」


 ジェロニモはスコットランド訛りの英語を喋った。童顔で、鼻の周りにそばかすが浮いている。見るからに朴訥そうな少年だった。背は私より少し高いくらいで、白い半袖に破れたブルージーンズを履き、頭にはベージュのハンチング帽を被っている。


「君は何になりたいの? 曲芸師? それともブランコ乗り?」


「違う、ジャグラーさ」と少年は胸を張った。


「子どもの頃からサーカスが好きで、近くに来るたびに観に行ってた。家にあるゴムボールでジャグリングの真似事もよくやってたよ」


「僕もやってみたいな、ジャグリング」


「後でヤスミーナに教えて貰えばいい。彼女は天才的に上手いんだ」


 そのあとジェロニモは業務の説明に戻った。


「基本的に洗濯は君と俺で一日交代でやる。タオルはタオル、服は柄物とそうじゃないのに分けてくれ。洗濯が終わったら、種類ごとに分けて洗濯カゴに入れてテーブルに置いておくんだ。そうしたら、みんなが各々とりにくる。どんなに血が騒いでも、女物の下着を盗もうなんて考えるなよ」


 何歳かと聞いたら、「18だよ。君も同じくらいだろ?」と聞かれたから、「まあね」と濁しておいた。若く見られるに越したことはない。


「18ってことは、ルチアと同じくらいだね?」と聞いたら、ジェロニモは途端に顔を赤く染めた。


「……ああ、そうだよ」


「もしかして彼女のことが好きなの?」と冷やかしたら、「うるさい!」と怒られた。その後で我にかえり恥ずかしくなったのか、「彼女には内緒にしといてくれ」と付け足した。


「やっぱりね。可愛いもんね、彼女。すごく良い子そうだし」


「うん、良い子だよ。だけどあの親父が目を光らせてる限り、俺にはチャンスがない」


「そんなの分からないよ、協力しようか?」


「遠慮しとくよ。ピアジェは恐ろしい奴さ、愛娘をそこらの冴えない小僧にやすやすとやるはずなんてない」


 残った時間で掃除を教えてもらった。通路やら事務室やらトレーニングルームやらシャワー室やらトイレやら、掃除をする場所がたくさんありすぎて目が回りそうだ。


「基本的に掃除は俺たち2人の他に、掃除当番のやつ3人で場所を決めてやるんだ。流石に2人じゃ大変だしな」


 この短時間で全ての車両を掃除するなんて無謀だと感じていたから、5人でやるという事実にホッとした。


 もう洗濯と掃除だけでクタクタだった。体力的にというより、心の方が。時々ピアジェが進歩を確認しにやってくるのも緊張する。


 掃除が終わるとすぐに朝食の時間になった。皆が食堂車にあつまって、パフォーマー40名ほどとその他スタッフ20名ほどがめいめいの席についてご飯を食べる。


 今朝の主食はベーグルで、もう一つの皿にはカリカリに焼かれたベーコンとマッシュポテト、目玉焼きと、ブロッコリーとトマトのサラダが乗っている。


 ケニーは美味しそうな朝食を前にしても目をこすり何度もあくびをかましていが、寝起きとは思えないほどのシャイニング・スマイルを携えたシンディがやってきた途端、小さな目を最大限に見開き、持っていたフォークを床に落とした。まるで彼の周りだけ時が止まってしまったみたいだった。


「おはよう、ネロ。そこの見慣れない男性は誰かしら?」


 シンディは私の横に座ったあとで給仕係から受け取った皿の匂いを嗅いをかいだあと、「う〜ん、いい匂い! 今日の朝ごはんも美味しそうだわ!」と明るくコメントした。ケニーは自己紹介をすることなど頭にないのか、銅像のように固まったままだ。


「彼は僕の伯父さんなんだ。パソコンに詳しくて、ゲームもめちゃくちゃ強いんだよ」


 ね? と目配せをすると、ケニーは恥ずかしそうに俯いてもごもごと何かを言った。シンディはというと、「ゲームなんて、かくれんぼや鬼ごっこくらいしか知らないわ」と軽快に答え笑った。


 シンディと話をしているとルーファスがやってきて、シンディにおはようと声をかけケニーの横の席によいしょと掛け声をかけてよじ登るみたいにして座り、椅子に立ったままご飯を食べ始めた。


「どうも、さっきも言ったが俺はこう見えておっさんだ。君と気が合うかもな」


 ルーファスがケニーに向かって声をかけると、「どう見てもおっさんよ」とシンディがケタケタ笑う。


 ルーファスは相変わらずウィットに富んだジョークを軽快に飛ばしていたが、ケニーに「食ってるか? おっさん。ちゃんと食わないと1日持たんぞ」と声をかけたり、隣のテーブルの団員に脚の怪我の様子を訊くなど、皆のこと気にかけている様子だった。


 朝食後、ルーファスに部屋に案内された。私はよりによってミラーと同室だった。第一印象が良くなかったから、彼に対して苦手意識を抱いていた。


 部屋に入ったときから気になっていたことがあった。ミラーの無人のベッドの掛け布団の中心が盛り上がっていて、何やらカサコソと音が聞こえていることだ。


 私はミラーのベッドをこっそり調査することにした。そっと布団を捲ると、小さな正方形のケージが姿を現した。中では頭の上からお尻まで豊かな茶色い棘で覆われたネズミが動き回っている。


「これって……ヤマアラシ?」


「違う、ハリネズミだ」


 振り向くと、いつの間にか背後に立っていたミラーの憮然とした顔が飛び込んできた。


「そうなんだ! 君のペット? すごく可愛いね」


「ああ」


「なんで布団に隠してるの?」


「夜と朝は冷え込むから……」


「へー、顔に似合わず優しいんだね」


「うるせーな! 飼い主の義務として当たり前のことだ!」


「どけ!」とつっけんどんに言われ後退った。ミラーは相変わらずぶすっとしながらベッドに腰を下ろすと、ハリネズミをケージから出して棘に覆われた背中を撫で始めた。そのあとハリネズミはミラーの腕や肩を素早く歩き回りはじめた。かなり慣れているみたいで、逃げ出す様子はない。


「その子、名前はなんていうの?」


「レナードだ」


「レナードは男の子? 何を食べるの?」


「ああ、オスだよ。食い物はナッツとか野菜とか、いろいろだ」


「ふーん。たまにご飯あげてもいい?」


「いいけど、たまにだぞ。変なもん食わすなよ。逃したら承知しないからな」


「分かったよ」


 二段ベッドの上に腰掛け母に電話をかけようとした時に初めて、携帯をどこかに落としたことに気づいた。色々あって携帯のことを忘れていたが、昨日の騒ぎでスラムに落としてしまったに違いない。


「マズイ、携帯を失くした……」


「何やってんだよ、悪用されるぞ」


「ロックかけてるから大丈夫だとは思うんだけど……昨日スラムで落としたんだ」


 失くしたと気づくとパニックになるし、喪失感が凄い。


「スマホ貸してくれない? 母さんに電話をかけたいんだ」


「無理だ、うちのサーカスは携帯禁止だ。全部没収される」


「……今時?」


「って思うだろ? クマのニックの事件があってから、内部から情報漏洩しないために携帯を禁止してるんだ」


「困ったな、ケニーは持ってないかな」


 ケニーは今頃ピアジェのオリエンテーションを受けているはずだ。


 部屋を出て廊下を歩いていたら、青い顔をしたケニーがやってきた。


「ケニー、平気?」


「ああ、少し疲れちゃったんだ」


「無理しないで。あ、ねぇケニー、スマホ持ってない? 家に連絡したくて……」


「残念ながらピアジェに奪われたよ。その前に家に連絡させて欲しいって頼んだんだけど、『代わりに俺が連絡しておく、息子さんは私の会社で元気で頑張ってると伝えておく』と言われた。とりあえず電話番号だけ教えたよ」ケニーはため息をつき、「君が言うとおり、あのピアジェって人は癖者だな。この情報化社会で携帯禁止とか考えられないよ、小学生だって持ってるってのに……」と項垂れた。


「本当よね。それに、代わりに電話するとか言ってるけど信用できたもんじゃないわ。ピアジェから電話なんかきたら、ママやおばあちゃんは私たちが闇の組織に誘拐されたと思って余計に心配するんじゃない?」


「だろうね、いやぁ参ったよ」


 そこにジェロニモが走ってきて、「ネロ、ここにいたのか! お昼に郵便局に行くぞ」と声をかけられ閃いた。


「分かった! 手紙を書けばいいんだ」


「なるほど、天才だな君は! よし、時間を見つけて書くぞ」


 ナイスアイデアとばかりにイェーイとハイタッチをしたあと、ジェロニモともハイタッチしようとしたが変な顔をされた。


 3人で話していたら、神妙な顔のルーファスが歩いてきた。公演のときに使うものなのか、赤や黄色、緑の太い縞模様の入った太鼓を抱えている。小型の太鼓だが、ルーファスが持つとちょうどいい。


「さて、一緒に寝坊常習犯を起こしに行くぞ」


 ルーファスに連れられ女性車両へ向かう。ルーファスは途中すれ違ったシンディに「失礼するよ」と声をかけて女性の部屋の並ぶエリアに入り、その中の一つの部屋のドアを開け、ベッドの前まで行くと床に座り両手で太鼓を叩いた。彼の手の動きに呼応してボンボコ、ボコボコとリズミカルな音が響く。


「おいっ、ジュリエッタ!! もう朝食の時間は過ぎたぞ!! 起きろ〜!!」


 盛り上がったベッドの掛け布団から坊主頭がのぞいている。鼾の合間に歯軋りも聞こえる。鼾の大きさならケニーといい勝負だ。


 ルーファスは「やれやれ」とため息混じりに言ったあと坊主頭の布団の上に乗り、顔を近づけて叫んだ。


「おーい、起きろ!! 朝礼の時間だ!! おーい!!」


 坊主頭の人は長く唸ったあと「何よ、うるさいわねぇ〜……」と迷惑そうに片目を開けたかと思うと、「あと10分だけ寝せて?」と甘い声で頼んだ。その声に聞き覚えがある気がしたが、すぐには誰か思い出せなかった。


「いくら可愛いく言ったって俺には通じん!! ピアジェに大目玉喰らう前にさっさと起きろ!!」


 ルーファスが掛け布団をひっぺがした。


「ちょっと何するのよ、スケベ!」


 ピンクのネグリジェ姿の坊主頭の人は、大声で叫んで自分の身体を抱きしめるような仕草をした。


 間もなくミラーが「おいっ、朝礼の時間だから行くぞ!」と開いたドアの間から声をかけた。私は未だベッドでぐずっている人とルーファスを残し、ケニーとミラーと3人で朝礼が開かれる場所に向かった。


 ピアジェは打ち合わせ場所のトレーニングルームの入り口付近で無表情で手を後ろに組んで立っていた。周りに50人以上はいるであろう団員たちが立っていて、ピアジェは皆の顔を眺めたあとで私とケニーに前に出るように促した。私たちは言われた通りにピアジェのそばに行き、団員たちと向き合うように立った。ケニーは人前に出るのに緊張しているのか、それともすぐ目の前に立っているのがシンディだからか、真っ赤になって俯いている。冷やかすつもりでケニーの脇腹を肘でつつくと、柔らかい感触がした。


「君たちこの新しい仲間を紹介しよう。ケニーとネロだ。ケニーにはサーカス団の広報を、ネロには雑用や動物の世話をしてもらう」


 ピアジェは朗らかな声で私たちの紹介をしたあと、何か一言挨拶をするようにと促した。ケニーはとても喋れる状態には見えなかったので、私が二人分の自己紹介をすることにした。


「僕はネロ。今日からみんなの仲間になります。趣味はサッカーと音楽を聴くこと。あとボウリングとカラオケかな、言っても歌は苦手だけどね。隣にいるのはケニー、僕の伯父さんなんだ。PCのことなら彼に聞いて。あと、ゲームがめちゃくちゃ上手いんだ。特に……」


 ケニーが横で恥ずかしそうに「もうその辺でいい」と囁いたから、「みんなと早く仲良くなりたいと思ってます。よろしく」という言葉で締め括った。団員たちはみんなと笑顔と拍手で歓迎してくれた。


「これからよろしくね」


「一緒に頑張ろう!」


 あちこちから声がかけられる。打ち解けられるか不安だったけれど、すごく明るい空気で温かい歓迎に胸を撫で下ろした。


 自己紹介の途中、先ほどの坊主頭の人とルーファスがこっそり車両に入ってくるのが見えた。坊主頭の人は自己紹介の間中何か言いたそうにこちらを見ていた。


「言い忘れていたが時間は厳守。そして、携帯は禁止だ。持っていたら即没収する」


 ピアジェがジロリと坊主頭の人と私を見た。


「実は、持ってなくて……。スラムで失くしたみたいで」と頭をかくと、団長は「本当か?」と疑り深い眼差しを向けた。


「本当です、彼は嘘をつきません。スラムで銃撃戦にあったとき、どこかに落としたんでしょう」


 ケニーが慌ててフォローを入れてくれた。


「なら後で番号を教えろ、代わりに電話しといてやる」


 ケニーにしたのと同じ嘘か本当かわからない宣言で朝礼は締め括られ、ピアジェはいなくなり他の団員たちに囲まれた。


 パフォーマーの中には男女混合の5人のダンサーがいた。元々5人で活動していたが、事務所との契約を切られ困っていた時、街頭でパフォーマンスしているところをルーファスにスカウトされ入団したらしい。


 団員たちは皆フレンドリーだったが、中でも明るいベージュの無造作ヘアーのニヒルな笑顔の男が一番積極的に絡んできた。


「俺は曲芸師のジャンっていうんだ、おっさんよろしくな!」とジャンに肩を組まれたケニーはアグレッシブなノリが苦手なのかそもそも人が怖いのか、やや引き気味だった。


 ケニーはやがて極度の緊張のためか疲れか、青白い顔で走って消えた。


「ごめんね。彼は久しぶりに外界に出たものだから、まだ人に慣れてないんだ」


 それを聞いたジャンはさほど大したことでもないという風に頷いた。


「すぐ慣れるさ、お前もな」


 ジャンは元々ルーマニアのサーカス団にいたらしい。アクロバットを得意としていた彼はスターだったが、公演を観に来たピアジェにスカウトされてこのサーカス団に移籍してきたという。


 他にも団員の中には面白い経歴を持つ人が多くいた。元体操選手やバレリーナもいたし、ウィグルの雑技団で綱渡りなどの曲芸をしていたというクリーという小柄な女性もいた。黒髪のお団子頭の彼女は見た目は妖精のようだが、話し方は男勝りだった。


「他にホクっていう身体の大きな火吹き芸人がいるんだけど……あまり人と話したがらないんだ、朝礼に出てくるのも稀で」


 クリーは苦笑いをした。もしかしたら、あの

耳栓をくれたのがホクだったのかもしれない。会ったらお礼を言わなきゃ。

 

 食堂を出ようとした時坊主頭の人に話しかけられた。


「ねぇあなた、あの時の子じゃない?」


 そこではっとして相手の顔をまじまじと見た。その声と目に見覚えがあったからだ。


「あなたはーー」


 彼はーーいや、彼女はつい最近、ディアナにこっぴどくやられた私を助けてくれた人だった。男性の容貌をしていたために全く気がつかなかった。


「ふふ、最初気づかなかったでしょう? 普段は女の格好をしてるけど、朝はこんな感じだから」


 歌うように言ったあと、彼女は右手を差し出した。


「私はジュリエッタよ、この間は自己紹介しないまま別れちゃったけど……。ここではシンガーやってるの。あと、サーカス用衣装のデザインや制作もね」


 彼女に伝えなければいけないことがあるのに、手を握ったら言葉に詰まった。彼女の手の温もりと眼差しは、泣き出したくなるような優しい愛情に溢れている。


「ジュリエッタ、あの時は助けてくれて本当にありがとう。あなたがいなかったら、惨めなまま家に帰ることになってた」


 ジュリエッタは「いいのよ」と微笑んだ。


「その髪型もなかなか素敵よ。男の子のあなたもハンサムね、ネロって名前もイカしてる」


「ありがとう」と私はお礼を言った。なぜ男に化けているのか、ジュリエッタは一度も聞くことはなかった。


「色々あって男のふりをしてるの。他の人たちには、女だってことは内緒にしておいてくれない?」


 皆を騙すみたいで罪悪感があったが、ジュリエッタは深く追求することなく「約束するわ」と即答してくれた。


「私はどちらの性も経験したから分かるの。男の子でいることは女の子でいるより楽なこともあるけれど、辛いこともある。でも男として、女として生きるっていうより、あなた自身を生きられたらいいのよ、結局ね」


 ウィンクをしたあとジュリエッタは、「じゃあ、私はみんなと一緒に朝のストレッチをするわ」と投げキッスをしてスキップで去って行った。


「彼女と知り合いなのか?」


 ケニーが不思議そうに訊いてきた。


「うん、前にジャンヌにやられた時に助けてもらったのよ」


「なんだ、そうだったのか」


 ディアナにジュースをかけられ大切なお金を取られてビンタをされた後は、まるでこの世の終わりみたいな気持ちになった。だけどジュリエッタが救いの手を差し伸べてくれたとき、彼女みたいな人がいるなら世の中も捨てたもんじゃないなと思えた。そしてこうも思った。私もそんなふうに誰かに感じさせられるような人間になりたいと。


 ピアジェは朝礼の後ケニーとルーファスを事務所に連れて行った。心配で覗いてみたら他にも5人ほどのスタッフがパソコンの前で作業をしていて、ピアジェはケニーを机に座らせて、ルーファスに仕事を教えるように伝えていた。私は彼らの邪魔をしないようにトレーニングルームへ戻った。

 

 トレーニングルームでは、シンディや他のパフォーマーが各々練習前のストレッチを始めていた。私に気づいたシンディは前後開脚の姿勢で手を振った。


「やっほう、ネロ。あなたも一緒にやりましょう」


 シンディは私に明るく声をかけながら立ち上がり脚をゆっくり上げ、耳に脚をつけてみせた。あまりの身体の柔らかさに驚いていると、「このくらい朝飯前ってやつよ」と得意げに笑った。


 そこに小さなサルのコリンズを肩に乗せた黒人の青年がやってきた。髪型はツーブロックにお洒落なアフロ風のパーマで、年は私と同じくらいに見える。身長は190センチはあるだろう。年は私と同じくらいに見えるが身長は190センチはあるだろう。広がっている癖っ毛がお洒落に見える。コリンズは青年の頭に飛び乗ってキキッと上機嫌に鳴いている。


「やぁ、楽しそうだね」と青年はフレンドリーに話しかけてきた。シンディはひらひらと手を振り、「ハーイ、アルフ。調子はどう?」と返した。「ぼちぼちだな」と青年は微笑み、頭上の動物と自分の顔を交互に指さして、「彼と僕、よく似てると思わないか?」と悪戯っぽく尋ねた。


 確かに目が大きく顔立ちがくっきりしたところや、鼻と口元が少し離れているところ、口の形などの顔の造作が彼らはよく似ていた。


「本当だ、よく似てるね」


「だろ? コリンズは僕によく懐いてるんだ。しょっちゅう僕の物を取ったり髪を引っ張ったり、悪戯を仕掛けてくる。一回檻から出るとなかなか戻りたがらなくてね」


 アルフレッドは苦笑いをしたあと、「彼は賢いんだ、見てて」と前置きして、「コマネチ」や「シェー!」や「モーレツ!」などどこで覚えたかわからないポーズを一緒に決めてみせた。


「わぁ、すごい!」


 3人から拍手と歓声を送られて気をよくしたらしく、コリンズは右手で頭のてっぺんをかいて「キッキッキ〜♬」と嬉しそうに鳴いた。


「アルフレッドはスターのブランコ乗りなの、ミラーと二枚看板でね」


 シンディに紹介されたアルフレッドは「君も合わせて三枚だろ」と軽快に返し、後ろにいたジュリエッタが「あら、私のことも忘れられちゃ困るわ」と言って場がどっと湧いた。


「口を動かす暇があるなら身体を動かせ!」


 ピアジェが来て檄を入れると一気に空気が張り詰めて、団員たちはそれぞれの場所に散らばって訓練を再開した。


 「ネロ、君の伯父さんはかなり優秀だな」


 皆の練習を見学していた私の側に来たピアジェは上機嫌に白い歯を見せ、ケニーから聞き出したらしい職歴や、彼の知識と技術を気味悪いくらいに褒めちぎった。次に彼は、このサーカス団の辿ってきた歴史について滔々と語り始めた。


 イギリスの中でも大きな規模と歴史を誇るこのサーカス団はピアジェの曽祖父の代から続いていて、今年がちょうど創立100年目の節目であるらしい。それを記念してこれまで巡業といってと国内のみかヨーロッパだけだったが、初の世界巡業に向かうことになった。そのためいつも以上に大々的で派手なマーケティングを使ったプロモーションが必要になるようだ。集客数も例年の倍を望んでいるらしい。


「私の曽祖父は言った。『サーカスは祭りであり、人生である』と。私はこのサーカス団に命をかけるつもりでいる。同じように、他の団員たちにもそうであってほしい」


 力強い口調でリズミカルに話すのでいかにも説得力があるように聞こえるが、何故だか私には引用された曽祖父の名言以外の彼自身の台詞のどれもが薄っぺらく聴こえてならなかった。それなら前にテレビでやっていた、すごい数学者が食い入るように見つめる学生に向かって3時間の講義をする番組の方が、さっぱり意味は分からなかったけど中身がある気がする。


「君もここの歯車の一つとして、ぜひ頑張ってほしいと思うんだよ」


 ぽんぽんとピアジェの手が私の右肩を叩いた時、得体の知れない嫌悪感が全身を駆け抜けた。彼は口の端をくいと上げ、「雨に歌えば」を口ずさみながら再び団員たちの訓練を監視しに向かった。


 ジャンがマットの上でバク転をし、得意げに笑って見せた。


 トイレから出てきたケニーは顔が真っ青だった。右手でお腹をさすっている。


「ケニー、顔色悪いけど大丈夫?」


 この旅によってケニーの心に負担がかかるのは覚悟していたが、ここまで症状が顕著だと流石に心配になる。


「久しぶりに外に出たし、あんな沢山の人に囲まれたのも初めてでさ……。緊張してるんだな」とケニーは答えた。


「よく耐えたわ」


「それくらい耐えて見せるさ。耐えきれなくて社会からドロップアウトして、長いこと引きこもってたんだ。でももう弱い自分でいたくない。やると決めたからにはやり抜かないと」


 ケニーのつぶらな目は以前の輝きを取り戻していたが、私はなお心配が拭い切れなかった。彼が頑張りすぎないか、また前みたいに無理をしすぎて壊れてしまわないか。


「ケニー、もし本当に辛くて我慢できなくなったら……ううん、なる前に相談してね。逃げたきゃ逃げたっていい。あなたは変わった。こうして外に出て、私たちと一緒にいる。それだけで十分だわ、おばあちゃんもママも喜んでくれる」


「それじゃだめなんだ」ケニーはかぶりを振った。


「自分で自分が強くなれたと思えないと駄目だ。今までみたいに逃げ続けるのは嫌なんだ。人並みに、胸を張って生きられるようになりたいんだ。そして母さんを安心させてやりたい。僕のせいで散々迷惑をかけたからな」


「そう……私も頑張るわ、一緒に頑張りましょう」


 変わりたいという強い意志をもつ伯父に対して、それ以上水を差せるはずがなかった。そして、変わりたいという目的を持つという意味で私たちは同志だった。私はケニーとまた拳を付き合わせた。強くても弱くてもケニーがケニーのままで生きていられるような世の中だったら、こんなに彼は苦しんだり無理をしなくても済んだ。自分らしくいられたら、私だって誰かに合わせたり我慢をし続けなくてもよかったのに。


 サーカス列車内部の見学をしたあと、ジェロニモと一緒に男性車両の通路の掃除の続きをした。


 ジェロニモがピアジェに呼ばれていなくなったあと一人モップで狭い通路を拭いていると、車両の一番奥の部屋からゴトゴト、バタン! と凄い音がすることに気づいた。皆トレーニングをしている時間に部屋にいるなんて、何か事情があるに違いない。具合でも悪いんだろうか。誰かが部屋でのたうち回っている音だったらどうしよう。


「おーい、具合悪いのかい? 開けてもいい?」


 待っていられずノックをしてドアを開けると、暗い部屋の中で両手で棒を振り回す大きな影が見えた。


「わっ」


 叫び声に気づいて影は振り向いた。その影の主はゆっくりと近づいてきて、通路にいる私を見下ろした。間も無く、それが昨日私に耳栓をくれた人だと気づいた。


 長い髪をオールバックにした大きな男は、無言で私を見つめた。浅黒い肌で肩幅が広く、白のタンクトップと紺色のハーフパンツから剥き出しになった肩や腕や脚を覆う隆起した筋肉が彼をより大柄に見せている。太い首にかけられた貝殻の首飾りを見て、彼は私と同じ海の近い場所の生まれなのかも知れないと思った。角ばった顔の中にある黒く輝く目が、満ち引きする海水によって磨かれた海岸の黒い石のように光っていた。


「練習中にごめんよ。君は昨日の……」


 言いかけて私は男に用があったことを思い出した。


「昨日はありがとう、これを貸してくれて」


 ポケットから取り出した耳栓を差し出すと、大男は受け取らずに首を振った。


「……持っていていいってこと? ありがとう」


 男はこくりと頷いて、バタンとドアを閉めてしまった。私は構わずまたドアを叩いた。話がしたかった。彼となら仲良くなれるんじゃないかと思ったから。


「僕はネロ。君の名前を教えよ。サーカスで何をやってるの?」


 何度呼びかけても返事はない。やがて横から「無駄だよ、そいつは滅多に喋らない」と声がした。ミラーだった。昨日とは違うトレーニング用のジャージ姿だった。


「そいつは火吹き芸と怪力芸をするんだ。力はすごい強いけど全く皆と交わろうとしない。変な奴だよ」


 今は心を閉ざしていても、いつか彼は私に心を開いてくれるんじゃないか。きっと彼もケニーと同じで不器用なだけなのだ。


 その後ジェロニモが戻ってきて掃除の続きをし、お昼前に洗濯物を取り込んだ。


 お昼を食べ終わらないうちにジェロニモに呼ばれ、一緒に郵便局に向かった。ジェロニモは施設で暮らす妹に手紙とお金を送るのだという。


「俺たちは孤児で、施設で育った。俺がサーカスに入ってからは、妹は一人で施設にいる。寂しい思いをさせてる分、少しでも楽させてやりたくてさ」とジェロニモは悲しげに笑った。


「サーカスに来て、君は幸せかい?」


「どうかな?」とジェロニモは首を傾げた。


「少なくともサーカス団の中にいれば食いっぱぐれることもないし、お金がなけりゃ誰かか貸してくれる。困ってれば助けてくれる。みんな家族みたいかものだからな。施設にいた時と比べたら、寂しくはないかも知れない」

 

 彼の辿ってきた孤独と苦労の道を思うと胸が痛んだが、仲間に囲まれたサーカスの世界で少しでも傷が癒えていたらいいと思った。名前も顔も知らないけれど、彼の妹が遠い海の向こうで幸せに暮らしていたらいいとも。


 窓口で午前中の空いている時間に急いで母宛に書いた手紙と、ケニーから預かった祖母宛の手紙を出した。今度オーロラに手紙を書こうと思った。万が一私がいなくなったことが母伝てに彼女の耳に入っていたら、心配するに違いない。


 帰りにジェロニモがサンティアゴの屋台でエンパナータというアルゼンチン名物のミートパイを奢ってくれた。


 午後はルチアやトムと一緒に動物たちにお昼ご飯をあげたあとトレーニングルームに向かい、またみんなの練習を見学した。

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