旦那様は気付いていた

 乱入者のせいで全く気分の良くなかった帰省の翌日。


 親子三人、仲良くぐっすり寝ていたはずだったのに、妙な物音がした。


 何事だと体を起こすより先に夫が私より早く目を覚ましたのに気付きあわててついて行くと、祐介の泣き声がする。


 そして、私たちよりも早くベッドから出ていた。


「えっと、その、お水、こぼしちゃったの……」


 そう言いながらベッドに水たまりを作り、パジャマの前を押さえる祐介。

 上目遣いにこちらの機嫌をうかがうその様子を、三歳ほど幼くなったようだった。

 と言うか、およそ三年ぶりだ。


「わかってるから、ちゃんと干さないと」

「うん…」

「さあ脱いで」

「やだ…!自分で脱ぐ……」


 祐介はそう言いながらパンツを洋服ダンスから取り出し、私たちにお尻を向けながら濡れたパジャマを脱ぐ。なぜかお尻は真っ赤になっており、夏休みと言う事を加味しても正直目立った。

「どこかぶつけたの」

「ぶつけてない…!」

 何かがなければこうはならないだろうと思うぐらいの赤さ。ただおねしょをしたにしてはあまりにも異様なその息子に刻まれた痕跡に私はひるみ、夫に近寄ろうとしていた。

「とりあえずシャワー浴びさせて来る」

「頼むわ。私はシーツ洗うから。祐介、お父さんにやってもらいなさい」

「ぶつけてないもん……」


 自分でもわからないような尻の赤みを履いたばかりのパンツで隠しながら、おそらく同じように濡れてしまったパジャマを着て夫と共に祐介はお風呂場に消えて行く。私は言った通りシーツをめくってたたみ洗濯物として洗剤と一緒に洗濯機に放り込み、新しいそれを取り出した。


(もしかしてだけど……)


 その間にもよぎる、あの二人の老人。


 今でもそんな古めかしい事をするかもしれないと思う程度には、びた一文進歩していない事を思いっきり示したどうしようもない存在。


 実は夫は祐介と同じちょうど四年生、いや五年生ぐらいまでは月に三か四回は布団を濡らしていた。あんな親なのにその点については吠える事はなかったが、その理由を想像すると胸が痛くなった。


「悪い夢でも見たのか」

「見てないよ、本当だよ!」

「って言うかお父さんだって小学五年生までやってたんだから気にするな」

「だからおねしょじゃないよ…!」



 風呂場から聞こえて来る祐介の声。本人がそういう以上自分では本当に悪い夢なんか見ていないつもりなのだろうが、無自覚なだけでそんな目に遭っていただろう。いや、遭わされていたのだろう。

 

 子どもを一人しか産めなかったあの二人にとって、子育てはやり直しのきかないたった一度のイベントだった。そしてその子供がある程度の成果を挙げた以上、自信を付けた上で次こそはもっといいそれができると孫と言う名のまっさらな存在に期待を抱き、何とかして自分の色に染めようとしていたのだろう。

 だがあの時、自分たちではなく浅野さんと言う他人に子どもを任せ、その上で粘り強く説得せんと欲したのに梨の礫どころか相手がこっちを四半世紀にわたり騙していたと言う事実を突き付けられた二人は、怒り狂うと同時に絶望したんだろう。

 —————ああ、自分たちが仕上げようとしていたまっさらなカンバスはもうそこにはないのだと。


 自分たちが排除して来たはずの色によってべったりと染められ、何を塗りたくってもかき消せないほどに染まってしまった、ただの平凡なそれになってしまった。

 それが許せない、らしい。



 まったく、何が純白のカンバスだ。出産と言う人生トップクラスのプラスイベントさえも秘匿する程度には昔から絶縁状態に近かったのに、いったい何のつもりだと言うのか。


 それこそ夢にでも出て体を抱え上げて私たちのいう事を聞かないならとか言って何十回も何百回も叩いたのかもしれない。口と顔だけは偽善者ぶったそれになり、愛のムチとか言う言葉を振りかざして自尊心を満たそうとしている。自分たちに従うかこのまま死ぬかと言う最悪の二択を迫っておきながらおしおきとか言う単語で片す気満々の、どこまでも醜悪な面をさらしての行い。

 そのはずなのに、肝心要の祐介からはちっとも覚えられない。

 おそらく痛みすらない。

 夢に出たとしても覚えてすらくれていない。

 おねしょと言うごもっともな理由で怒っていない以上、その怒りが伝わる事などありはしない。夫が小学五年生までおねしょをしても叱られなかった理由など、とっくに目星は付いている。そしておねしょの理由がそれと同じでない事に怒り狂われても、祐介の心には全く届かない。



(お人形遊びもした事がないんでしょうね……)

 

 人形と言うのは、いつも同じ顔をしているように見えて微妙に違う。

 さらに言えばキャッチザモンスターに出てくる同じ名前のキャラも、能力や技によって個性が生まれる。そしてそれらをどう扱うかはまったく私たち所有者の自由であり、集めるだけ集めてそれっきりな子もいれば同じ種類をいくつも集めたがる子もいた。

 どっちが良くてどっちが悪いのかは私にはわからない、何せ夫を世間に戻すために必死になってやった結果両方をやったからだ。そのおかげで未だに私は当時の全てのキャッチザモンスターの名前を言える。

 いずれにせよ、その過程でままならない事は山ほどあった。

 電池が切れたとかこっちの攻撃が外れたとかあっちの攻撃が決まってしまったとか、もちろん人と人との触れ合いでも体験できる話だが、ハードルは少しだけ低い気がする。一度こじれた人間関係を戻すのは困難だが、ゲームならばリセットすればいい。

 安易極まるとはわかっているが、それでも思うがままにならぬ事を知る出入口の一つとしては悪くないし、ましてや楽しみながらと言うのはかなり大きなはずだ。もしそれを安易だとか言う一言で片づけられるとしたら、やはり天才か偏見まみれかの二択になってしまう。


「五〇〇〇〇円です!」


 洗濯機を回している間に点けたテレビに映っている、テレビゲームよりももっと古めかしい、金属の香りしかしないオモチャのロボット。

 コントローラーも古めかしくさびかけで、そこには前進・後退・静止の三つの操作だけが書いてあった。そのコントローラーも今のスマホ並みの大きさしかなく、文字通りのオモチャだった。

 それに五〇〇〇〇円とか言う値段が付いたのはともかく、おそらくは買った当時でさえも思うがままに動かす事はままならなかったんだろう。このオモチャを買った人はたぶんどこかで夢見たようなロボットを想像して動かそうとし、どうしてそうならないんだと悩んだはずだ。


 あの二人にはそのレベルの体験もなかったのかと思うと、なぜか泣けて来る。単純に忘れているだけかもしれないが、いずれにしても絶縁宣言してくれてありがたい相手だったと言う事だけは確実だった。

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