三十回目とゼロ回目

「ちゃんと宿題はやらなきゃね、おじいちゃんおばあちゃんも怒るからね。あと浅野さんたちも」


 祐介は成績が良くないなりには真面目だった。

 夫の半分ほど勉強し、二倍ほど走り回り、百倍ほど遊ぶ。それなのに過ごしている時間は変わらない。我が子ながら不条理な話だが、それもまた現実だった。そして祐介の過ごしている時間は多分私の時間と同じで、夫の時間とは違う。

「お父さんは仕事をしてる、ボクはお勉強をしている。ボクのお仕事はお勉強なんだよね」

 この言葉を言える小学四年生が頭が悪いとはとても思えない。

 きっちりと与えられた仕事をこなす姿勢はあまりよくないかもしれないが、それでも夫のようになってまで勉強してあんな事故未遂を起こされるよりは数段ましだ。



 ちなみにあの事故未遂の後私は夫の友達と言う事でそのトラックドライバーさんとも会ったけど、その人から見ても夫は異常だったらしい。その上に自分が原因とは言えあそこまでヒステリックに謝らせる玉枝さんの姿は正直見るに堪えなかったらしく、渡そうとして来たお金も全部きっぱりと断ったと言う。

 それでも必死になって受け取らせようとするものだから怖くなり、会社に頼んで接近禁止命令を下すようにお願いしたとも聞いた。仮にも大企業のビジネスマンの妻である人のする事とは思えないが、驚く気すら起きなかった。偽善や独善と言う言葉を小学四年生に覚えさせてしまうほどには情けない話であり、何を狙っているのかはもうあの一張羅としか思えないような服を見るまでもなく明らかだった。そんな人間と誰が近付かせたいものか。




 今年の夏休みも「祖父母宅」へと「帰省」する。よくある事だ。

「いやまさか私もいっしょに行けるだなんて」

 めったにないのは会社の部下も付き添う事と、夏休みでなくとも祖父母宅へと行く事と、帰省と言うにはその帰省先が私の実家ではなく新たな家だと言う事であり、それ以上に母方の祖父母宅には何度も行っているが父方の祖父母宅には全く行っていない事だ。

「楽しみだなー、ママのおじいちゃんとおばあちゃん」

「それを言うならママのパパとママのママでしょ」

「ごめん、でも二人ともカッコいいよね。

 ボク知ってるよ、パパのおじいちゃんとおばあちゃんはダメな人だって。いつもパパの事怒鳴ってばかりで勉強しろしか言わなくて、少しでも休んでるとイライラして、どんなに頑張っても何もくれないし、しかも仕事仕事しか言わないし、バカなんじゃないかな」


 昼間にその予定を組み夕食を夫が帰らない内に食べ出したのは意地悪のつもりは毛頭なく夫を休ませるためだが、祐介の言葉は全く容赦がない。



 ケチ。

 怒鳴るだけで何もしない。

 パパが机に向かっていないと不機嫌になる。

 何をしても褒めてくれない。

 いつも会社にいてお父さんの事を構ってくれない。



 私たちがそう教育して来たからだが、祐介の中での藤木康介と藤木玉枝と言う人間についての評価はもうその辺りで固まっていた。最後だけは夫へのブーメランでもあるが、藤木康介はおろか藤木玉枝ですらも最近はそれが当てはまる。


 夫の高等専門学校入学によりようやく安心して始めたコンビニ勤務を熱心に行った結果玉枝は今では雇われ店長になり、店員を使う立場になっている。今年還暦だが辞める気などなく、それこそ定年が過ぎても何らかの形で働こうとするだろう。おそらくは夫も含めて。その事を聞かされた時は変なため息が出た。

 字面だけならば実に素晴らしい。だが、私たちはその二人が死んで遺すだろう存在を、受け継ぐ気などない。それなのにいったい何をしようと言うのか、老後の蓄えならばもう十二分にあるはずだ。


「だってパパのおじいちゃんとおばあちゃんはキャッチモンが大嫌いなんでしょ、パパがボクの時からあるのに全く知らないなんておかしいじゃない」

「知らないのと知りたくないのは全然違うの」

「テレビでもじゃんじゃんやってるよ、CMとか。それにスーパーでも売ってるよ、グララットのケーキとか。そんなのを見ないで過ごすのってすごく難しいよね。二人ともバカじゃないの」


 祐介に言わせれば夫はあまり頭がよくないし、父方の祖父母は頭がよくないを通り越して無知蒙昧と言う事になる。大人は他にもいろいろな事を知らなければいけないと言い聞かせてはいるが、少なくともあの二人に関してはその通りだった。


 今息子には四年生だからと言う訳ではないが小遣いを月に四千円与えている。

 夫が小学校四年生の時にもらっていた小遣いの一.〇二五倍であり、四十倍だ。それこそ将来のためにとか言って預金通帳にその四千円を振り込み現金としては百円玉一枚しか与えず、その代わり自分の財布を開きまくっていろんな物を買い与えた。

 たった一つの敵から目をそらすために、衣食住と言う名の生活必需品を買い込む事に腐心し金持ちのはずの関家に負けない装いをした藤木譲の姿は、関家の人たちから見てもあまり評判は良くなかった。表向きには勉強の邪魔、もちろん本当はそれがあるからと言う理由で。ちなみに関健一郎の成績は上の下レベルであり、一緒に勉強をやるのに邪魔にはならなかった。


「人間は大きくなると考えが変わるって言うけど、今でもずーっと大嫌いなままなのかな」

「嫌いなおかずでも食べなきゃいけない。それが大人の世界なの。お父さんだって本当は人づきあいとか苦手なの、浅野さんがいるから何とかなってるだけで」

 祐介は焼き魚を丁寧に食べる一方で中央に置いてあるきゅうりの漬物には手を出さない。食わず嫌いではなく一度食べておいしくなかったのが原因だったが、別にきゅうりそのものが嫌いな訳ではなくサラダに混ぜれば普通に食べる。

 それでもオムライスと言う夫の圧迫が強すぎて心理的に苦手な物を除けば漬物のような子どもが苦手そうな料理は苦手であり、どうと言う事はない普通の子どもだ。そんな人間をどうしてわざわざ歪める必要があるのか。私が夫の分を残しながらも漬物を口へと運ぶ。全く適当な浅漬けなので味はそれ相応だが、まあそんな物だなと納得は出来た。

 今から十三年前、きょうび御家制度の時代でもないとは言え藤木譲と言う名前を捨てると宣言した全く口の上手くない息子を説得するのに本当にそれでいいのとか言うフレーズしか使わずに息子ももう決めたからの七文字で全て乗り切ってしまった時には内心呆れた。

「どうか息子さんを私に下さい」

「頼みます」

 さらに全く芝居がかった口上で嫁を貰おうとする男の真似事をした結果、あっさりとくれた。一人娘と春の日はくれそうでくれぬとか言うことわざなんぞ嘘だと言わんばかりに、一人息子を冬の日のようにあっさりとくれた。


 それで、納得できたはずだ。


 もう、どうなったっていいとさえ思っていても不思議でもないのに。

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