第36話 井戸
キャサリンの命によってリュウが降り立ったのは、見渡す限り牧草地が広がる農地だった。人目を避けて、夕暮れ時にやって来た。
黒いストレートヘアを布で覆い、顔立ちがわかりにくいように肌を泥で汚している。農民と同じように粗末なチュニックをまとっていた。
(いちおう変装しているけど、喋ったら一発でよそ者だとわかってしまう。あんまりウロウロしない方がいいな)
待機するように指示された小屋は、集落から遠く離れた場所にあった。草原の真ん中にぽつりと生えた二本の樹木のほど近くに、寄り添うように建っている。小屋のまわりをぐるりと一周して、様子を確認した。
遠くに家屋が集合しているのが見える。もう夜も近いので人影はない。草原で時折りのそのそ動くものは放牧された羊だろう。
地上を動き回る農業機械や、空から農薬を散布するドローンはないが、緑の続く広大な土地という点では
転送魔術によって農作物の販路は広がったが、産地の暮らしはほとんど昔のままだ。
(たぶん、転送で雨雲をコントロールできるようになれば、色々変わるんだろう)
リュウが得意とする転送魔術は、ものを移動させる技術だ。言葉で表現できれば何でも対象にできるため、建材を一つ一つ移動させて建物を立てることもできる。理論上は、雨雲を呼んだり、嵐を退けたりすることも可能なはずだが、天候操作は実用に至っていない。常にうつろう空気中の水分や塵を言葉で限定することが難しい。
農業分野では、害虫駆除と収穫に転送魔術が活用されている。
このあたり一帯は、数日前に害虫駆除を終えたばかりだ。そのために大きな町から呼び寄せられた魔道士は、すでに帰ってしまった。今この周辺にリュウ以外の魔道士はいない。
地域によっては特定の家系を魔道士として縛り付け、その土地で奴隷のように使役しているが、常に魔道士のいる場所はキャサリンの計画には不都合なので、選定されなかった。
(田舎に魔道士の居場所はないんだよな……。満足に喋れないから)
どこまでも続く草原を眺めながら、リュウは感傷的な気分になった。夕暮れの空の色は寂しさを増幅させる。これは良くないと首を横に振り、小屋の中へ入ることにした。簡単な家具があり井戸も備えている小屋だ。昔、人嫌いの変人が集落から離れて住んでいたらしい。今は誰も住んでおらず、羊飼いが道具を置くための納屋と化している。
この小屋で、明朝、キャサリンの計画が実行される。左大臣マロリーは、
リュウはキャサリンの命令を思い返した。
「私の部下が農民の偽装をして農村に入り込んでいます。そこの井戸から異邦人が出現したら、通常の手順通りに
(明日この井戸から異邦人が出ると、女王陛下は言い切った。音読調査のような要領で、未来のことを魔道士に予言させたのか? 不可能ではないけど、国内の全ての井戸を把握しているわけではないだろうから、現実的じゃない)
女王の命令に振り回されることには慣れてしまったので二つ返事で従ったものの、明日異邦人が現れるということについては、リュウはそれほど信じていなかった。
それでも指示通りに小屋へ来て、ドアの前に立っている。従うこと以外の選択肢はない。
きしむドアを開くと、中には一人の男がいた。
これはキャサリンの部下で、明朝にここの井戸から現れる異邦人の第一発見者となる手はずだ。万が一の盗聴を警戒して、リュウと男は言葉を交わさない。男は小屋の壁の一か所を指さした。材木の合わせ目に隙間があり、目を凝らすと外の井戸が良く見えた。ここから観察をしておけ、ということだろう。
リュウはその壁の近くに机替わりの台を用意し、隙間を覗きながら紙とペンで記録を取る準備を整えた。それが終わると、男が外に出て、井戸で水を組む動作をする。桶を落とす様子や、それを巻き上げる様子を、リュウが壁の隙間から視認できるかどうかを確認した。
これで今日の作業は終わり。
もうほとんど日は沈みかけている。明かりを点けると目立つため、夜は暗闇を受け入れて眠るしかなかった。
寝具のない小屋で、壁に寄りかかり丸まって休む。なかなか寝つくことができないリュウは、明日も行動を共にする男の寝息を聞いている。
(この男、この工作のために何年も前から婿としてここに来てるって話だった。たしか今日は農具の入れ替えとかなんとか理由をつけてこの小屋に泊まってるらしいが、この作戦が終わったらどうするんだろう)
女王にはこうした強い忠誠心を持つ部下が何名もおり、彼女の手足となっている。リュウの地下牢からの脱出をマナのカンテラで補佐した番兵もその一人だ。
(まあでも、僕にしたって「お金も立場も何とかします」の殺し文句にやられてこうして来てるんだから、それぞれ事情があるんだろう)
つれづれと思いにふけっているうちに、まどろみが訪れて瞼が落ち、身を任せていると眠りにつくことができた。窓から差し込む朝日で目覚めるまで、夢もなかった。
日の出の少し後に起きると、相方の男はすでに準備万端で、外へ出て事を始めてよいかどうか身振りで尋ねてきた。リュウは慌てて汲み置きの水を飲み、腰の袋から取り出した硬いパンで腹ごしらえをした。リュウが最後の一口を水で流し込んだところで、男は外へ出ていった。
(いよいよだ。本当に異邦人の体が出てくるのか?)
小屋の周辺に他の人間の姿はないが、集落から見えてしまうことを考えて、リュウは小屋の中に身を潜めたままだ。壁の隙間から覗き、筆記による記録を開始した。
男は井戸の巻き上げ機のハンドルをつかみ、体重をかけて回し始めた。慣れた手つきだ。一定の間隔で、キーキーと音が鳴る。桶が地上まで上がったところで、男は桶を手繰り寄せた。両手で抱えてその中をしばし見てから、足元の飼い葉桶に移した。
それから男は無心で汲み上げを繰り返した。最初の一回めよりも明らかに速くハンドルを回している。井戸の近くに用意していた飼い葉桶がいっぱいになると、他の桶や樽を取りに小屋へ戻ってきた。男の額は汗で光っている。
リュウの位置から桶の中は見えないが、男の服が血混じりの水で濡れていたため、異邦人の体が組み上げられていることは認識できた。
桶の巻き上げを続ける男は、肩で息をしている。
リュウはただ観察し、記録をとるだけだ。
男の手が止まった。異邦人のパーツを全て集め終えて、水しか汲めなくなったようだ。そして少しも休まずに集落の方へと駆け出す。
この集落には転送魔術の通信ポートが設置されているので、そこから最寄りの
リュウは待った。
窓から射しこむ光が刻々と角度を変える。遠くから昼の鐘が聞こえた。いつもならそろそろ休憩をする頃だ。
好奇心に負けたリュウは、外へ出ることにした。書物と伝聞でしか知らない、異邦人出現の貴重な場だ。
複数の飼い葉桶が無造作に置かれた場所へ駆け寄る。
血の臭いが漂う。
一番近くにあった桶をのぞき込むと、生首がこちらを向いていた。その目は半分閉じていたので、視線が合うような錯覚はない。ただ、隣の桶からはみ出した腕が、必死に何かをつかもうとしているように見えて、リュウはひるんだ。臓物で満たされたバケツを見たところで、耐えられなくなって見物を中断する。
リュウは今すぐ復元の術式を唱えたい衝動をこらえて、小屋へ駆け戻った。
(はやく! はやく! はやく!)
心臓が内側から体を叩くように高鳴る。その振動で体が揺さぶられるような強さだ。鼓動が耳に響く。
魔道士の到着を今か今かと待つ間、この仕事が無事に終わるようにとリュウは祈り続けた。
(肉食の鳥獣が来ませんように!)
汲み置きの水を飲み干してしまって渇きを感じながら待っていると、井戸のかたわらに転送マナの光が現れた。
ほっとした途端にリュウの全身から汗が噴き出した。
現れたのは二名の魔道士と一名の対話係。そして第一発見者の彼も共に戻ってきた。
対話係が、第一発見者の男からあれこれ聞きとっている。
その間、魔道士一名がマナの
オレンジ色のマナの光の粒が魔道士の傘に集まっていく様は美しいが、あまりにもゆっくりとしていた。
(そんな速度でしか
リュウは気が気でなかった。心の中でののしりながら推移を見守る。
魔道士としての優劣は、主に二つの能力で計られる。
一つは、マナの
もう一つは、的確な
前者は努力ではいかんともしがたい才能だ。持って生まれた筋力や持久力のように、各人それぞれに限界がある。後者は、センスで劣ったとしても、勉学で補うことができる。
リュウは、どちらにも恵まれていた。
そしてこの魔道士二名は、秀・優・良・可・不可で言えば良寄りの可といったところだ。お世辞にも能力が高いとは言えない。
(異邦人は高位の魔道士によって復元されるって聞いてたけど、実際はこんなもんなのか! そりゃ失敗もするよ)
それでも五体はきれいに復元されている。敷物の上に横たえられたのは成人の男性の体で、その胸はかすかに上下していた。
(よかった……。息をしている)
魔道士が傘をたたむ。対話係がしゃがんで、異邦人の体の状態を簡単に診た。
「これで復元の作業は終わりです。発見と通報に感謝いたします。この村でこの異邦人を管理するのは難しいでしょうから、
第一発見者の男は村へと戻り、後には汚れた桶と敷物が残された。
リュウは手元の紙に復元までの記録を完成させ、魔道署名を施した。
(ふう……。ようやく一件終わった。これをあと二件やるのか……)
女王からは三名の異邦人出現の日付と場所を指示されている。今日はその最初の一件だった。リュウは貧民窟に寝泊りして身を潜めながら、その計画の記録要員として協力した。
* * *
一件め。南部の農村。危なっかしい魔道士が派遣された。復元は成功した。
二件め。中部の農村。優秀な魔道士が派遣された。復元は成功した。
三件め。西部の漁村。そこそこ優秀な魔道士が派遣されたが、第一報の伝達に時間がかかりすぎた。リュウは自分が復元魔術を行使するかどうか迷った末に、女王の命令に忠実であることの方を選んで、魔道士の派遣を待った。結果、二十四時間以内の復元が叶わず、異邦人が息を吹き返すことはなかった。
* * *
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます