第34話 脱出
二人の首を斬った番兵が再び牢の奥へやってきた。血やし尿で汚れた通路を掃除して、頭と体を袋に詰めて持ち去る。彼は、格子や牢の中にまで飛び散った汚れまでは清めなかった。
死体袋を引きずる音でリュウは目を覚ました。向かいの牢の女は眠っているようだった。相変わらず裸で、掛け物もない。
ぽつりと膝を抱えて座り込むリュウは、ふとした時に前触れなく、切り首の瞬間が思い出されることに難儀した。自身の排泄の折にも、その温かさから生命を感じてしまい、気分が悪い。
日の入らない地下牢では、すぐに時間の感覚が失われてしまう。食事が日に二回であることも、三食が習慣であったリュウの感覚を狂わせた。
また時々、二人組の兵士が女を迎えに来る。そして牢を出ていき、何時間か後に戻ってくる。これも不規則であったので、ますますリュウは日時の見当がつかなくなってしまった。
何人かの番兵が交替で地下牢の番を務めているが、リュウに話しかける者はいない。空沼うつつを名乗る妙な女だけが話し相手だった。
初めこそ眼前の若い女の肢体にどぎまぎしていたが、次第にそれは気にならなくなっていった。彼女の機嫌は緩急が激しく、鬼気迫る表情と声の方に気を取られる。
牢にいる間、女は黙っていることが多かったが、急に多弁になることもあった。理知を感じさせることもあれば、狂愚としか思えない物言いに豹変することもあった。
「ねえ、あなたリンドウ・リュウでしょ?」
「はい……」
「どういう字を書くの?」
「……簡単な竜に、
「美しいお花のようなお名前ね。私の名前は平仮名だから、漢字のお名前には憧れるのよ」
「そ、そうですか……」
「ケニーのいいお友達になってくださいね」
(ケニーって誰だ……?)
女はケニーという名をよく口にした。だいたい女との会話はブツ切れで終わる。女の方が気まぐれに話し始めて、勝手に切り上げてしまうのだ。
何度目かの対話の時、リュウはおそるおそる女の名を呼んでみた。
「あの……
「まあ! 懐かしい呼び方ね!。ぜひ空沼さんと呼んで!」
名前を呼べた。どうやらこの女は本当に空沼うつつのようだった。これ以降、彼女は日本語でリュウに話しかけるようになる。発音は自然だが、記憶をたどって語彙を思い出しながら話す様子に、数十年のブランクを感じられた。
(だが見た目の年齢が合わない。空沼うつつは生きていれば七十代のはず。髪の毛以外はどう見ても十代後半か二十代だ)
以前、リュウが図書館の資料で目にした絶世の美女という評価は当てはまっていた。少女の面影を残したまま、大人の慈愛を宿した微笑みを浮かべる彼女には、まさに花のかんばせという言葉がふさわしい。ケニーという人物について言及する時の彼女は、特に優美だった。
「ケニーったらまた算術の授業をサボったみたい。あの子、馬術にばかり精を出すのよ」
(馬術が得意なケニーって……。ケネス・カークランドか!)
先代国王ケネス・カークランドは落馬が原因で早逝している。そしてそれがキャサリンのわずか五歳での即位につながったのだ。
(この人の頭の中、息子の幼少期まで戻ってしまってるのか? いやでもキャサリンから僕のことを聞いたと言ってるし……。時系列がめちゃくちゃに狂ってる?)
空沼うつつから発される情報は支離滅裂で、それを聞かされるリュウは混乱するばかりであった。聞き取れた範囲でまとめると、彼女の発言の大意はこうである。
――不本意な結婚だった。
――自分によく似た黒髪のケネスを生んだ時、ようやく味方を得た気分だったが、すぐに母子は引き離された。
――王太子であるケネスは乳母になつき、実母とは疎遠であった。
――右も左もわからぬ異世界に来てから今日に至るまで、ほとんどの日々を宮殿に閉じ込められて過ごしている。
――愛しきケネス亡き今、空沼うつつには何も無い。
時に涙を流しながら、時に激高しながら、これらのことを空沼うつつはたどたどしい日本語でリュウに伝えたのだった。リュウが
空沼うつつが、主人である先々代国王の名を呼ぶことはなかった。一度たりとも。
呼ぶのは愛児ケニーと
「リリジャール様が約束してくれたの。いつか私を元の世界へ戻してくださるって」
何かと繰り返されるその台詞は、リュウの耳の中でこだまする。
リッド・リリジャールを消し去った罪に対する、罰のように。
幾度めかの睡眠と食事を経たある日、空沼うつつに異変があった。
いつものように牢を出て戻ってきた彼女は、完全な老婆だった。
赤ん坊のようだった桃色の肌は、生気のない皺だらけの枯れた皮になっていた。長年に渡って外の光を浴びていないため、シミや黄変はなく真っ白で、そのことが彼女の肌を蝋のように見せていた。不自然だった灰色の髪も、今は体と調和が取れている。
例によって彼女は無言だ。リュウと目も合わせようとしない。
リュウは老女から目を離すことができない。初めてリュウの方から老女に声をかけた。
「もしかしてあなたは、再生の魔術の献体……?」
魔道士の言葉は常に真である。
空沼うつつは人差し指を立てて唇にあてた。黙れというサインだろう。
湧き上がる疑問を飲み込み、リュウは待った。
しばらくして、番兵が交替の挨拶を交わすのが聞こえた。今度の当番は、二人の首を飛ばした彼のようだ。
すると空沼うつつがカークランド語で喋りだした。垂れた瞼の下の目に、しっかりと理性の光が灯っている。
「キャサリンの部屋へ行きなさい。あなたは抜け道を知っているはずです」
(でもここにはマナがない……)
地下牢では人為的にマナが枯渇させられている。通路の灯も、マナ灯ではなくロウソクだ。
その時、番兵の近づく足音がした。リュウの牢の前で立ち止まる。鉄格子ごしに無言でじっとリュウを見つめた後、ちらっと左手のカンテラを揺らした。
(これ、マナのカンテラだ……!)
「早く!」
訪れたチャンスを活かすように急かす空沼うつつの声に重ねて、リュウは詠唱を始めた。
「
マナを奪われたカンテラの火が消えた。カンテラを持つ番兵の姿が地下牢の薄闇に飲まれ、代わってマナを吸い寄せたリュウの指先が輝く。
(クソ、
光の八ユニットは、転送マナに換算して四ユニット。すなわち人間一人を一回転送するための量だ。空沼うつつを伴って脱出することはできない。
「
左第一指、対象:僕自身。
宛先:ホワイトパレスの王の間。
左第二指、離陸の制御。
左第三指、着陸の制御。
左第四指、宛先の探索。メッセンジャーを対象とした例外規定を利用する!
番兵は仁王立ちのまま黙っている。番兵の巨体に隠れて、空沼うつつの表情は見えない。
「早く!」
もう一度、空沼うつつが急かした。
「
リュウは最後の一言を唱え、地下牢を脱出した。
目的地は王の住まうホワイトパレス。女王キャサリン・カークランドと初めて対面したあの部屋だった。
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