第31話 言葉とは何だと思う?




 あの日以来、巡理と宮川は一番奥のチェスルームで向き合うことが多くなった。二人きりで、十朗に悟られない瞬間を狙って。

 その日の総連は結局お開きになり、同じ夜に、巡理と宮川はチェスルームで落ち合った。チェス盤を間に、のんびりと腰を落ち着けて、のんびりと駒を動かす。


「――コンの様子はどうなの?」


 巡理が独り言のようにぼそりと問うと、宮川はちらと視線を向けて、しかしすぐに盤上へ視線を戻した。


「うん、大丈夫だよ。加藤さんと貝塚さんが付き添ってるから」


 意外な名が挙がり、巡理は宮川の顔を見る。


「貝塚さんも?」


 宮川は視線を盤上から外さない。次の一手に集中している。


「うん。あの人実はコンのこと大好きだからねぇ。あれ、報われそうにないよねぇ。かわいそうだけど」

「――……そうね」

「ほんと、大丈夫だよ。コンも、それからあの巡理ちゃんにそっくりな髪の長い女の子も、ずっと眠ったままだけど、危ない感じは全然ないから」

「よかった」

「巡理ちゃんは大丈夫? 風邪とかひかなかった?」

「問題ないわ。私、見た目よりも頑丈だから」

「じゃあ、相当頑丈だってことだね」

「どういう意味よ」

「別に。言葉通りだけど?」


 くすくすと笑う宮川に、巡理は「ほんと、イヤな男ね」と毒づいた。

 手慰みのような仕草で、宮川は駒を動かす。だんだんと、彼はルールにそった動かし方をするようになり、それはやがて巡理の手を止めるほどになった。初めからルールを知っていて、しかもゲームに精通していて、わざと宮川が知らないフリをしていたのか、そこはわからず仕舞いだが、嫌な時間ではなかった。


「ねぇ、今日は言葉について話したいんだ。前に宿題にしておいたよね。言葉とは、何か。そこのところどう考えているのか教えてって」

「ええ」


 巡理は、目の前にある自陣のポーンの動かし方について、悩みながら肯いた。


「じゃあ、言葉とは何だと思う?」

「まず、二つにちゃんと分類して認識しておくところからスタートしなければならないと思うわ。人間の口から発生される、音声としての言葉。それから、文字。これは紙の上に書かれたものというだけに限らず、それが文字だと判断される、ある一定の形――フォントと呼ばれるものね――の、形態をとって表現される全て」

「言葉と文字、ね」

「そう。言葉は飽くまでも音。だけどひとつの言葉を聞いて、文字の形を思い浮かべてしまうのは、人間の中で、人間の歴史の中で、人間が進化するために必要とされてきた機能の背中にしがみついて離れない、かせのようなもの」

「どういうこと?」

「本来、言葉は言葉として完結していたはずよね。口から口へと伝える方法として完成していた。だけど人間は、それをより多くの人間に、それこそ、遠い場所にいる人間にも、まだ生まれていない人間にも、同じ形で伝えられるように、形に置き換えようとした。そして、生まれたのが文字」

「なるほど」

「人間は、言葉をきくと、かなり自動的に頭の中で、それを文字の形に翻訳してしまっている。それに気付かないうちにね。それが人間にしがみついて離れない枷。もしくは、人間が囚われて逃げられない枷」

「んんん。まあ、それは人間が思考する生き物である以上、仕方ないことなのかも知れないなぁ」


 巡理の手が、ようやく次の一手に動いた。ポーンが一マスだけ前進する。「慎重だなぁ」と澄は笑った。


「ねぇ。余白を読む、っていう言葉があるでしょう? あれは多分真実じゃないのよ。余白はあくまで余白でしかないの。あの白い平野は、多分休息の場ぐらいのものに過ぎないのよ。感情は、活字っていう漆黒の闇の向こう側にこそ広がっているんだと思うわ。墨で記された活字のラインは、深すぎる渓谷なのよ。そして、真の感情を勝ち得た活字の、その奥に存在したコールタール状の凝った感情は、人の心をからめとる。それがどれほど穢れた『我』であっても、決して嘘を吐かない。余白という白に穿たれた活字という穴は、その奥の黒の色を包み隠すことなく人に見せ付ける。だから、逆説的に、嘘の感情は、薄く、軽いんだわ」

「なるほどねぇ……」


 そこで、巡理は言葉を区切り、しばらく沈黙した。言うか言うまいか随分迷った。そして、その間に宮川がビショップを動かした。間髪入れず、巡理がクイーンで捕る。


「うわっ、そうきたか」


 宮川が腕を組んで「ううん」と椅子の背もたれにもたれかかる。

 そこで、巡理は腹をくくった。


「天使と悪魔の関係なのよ」

「え?」


 宮川が呆けたように目を向けた。巡理は一つ嘆息して、後を続けた。


「言葉と文字の関係を、一番簡単に置き換えられるものよ。言葉とは天使。文字とは悪魔」


 捕ったビショップを、ことん、と盤外においた。


「天使に実態はない。だけど悪魔にはある。だから人間は時に悪魔を天使と思い込み、間違えたりする。天使は天使であることを尊べば尊ぶほどに悪魔と戦う。悪魔とは、人によって堕天させられた天使なんだわ。そしてそれを忘れ、天使を、悪魔を理解するものが失われた時、人は天使であり、悪魔であるものを殺すのよ。悪魔というのは、天使を生き延びさせるために、人が生み出したものなのよ」

「ああ、形あるものとないものってことかぁ。そうだなあ、結局音楽やってたら、たどり着く発想って、そこなのかもなぁ」

「例えば宗教における偶像崇拝の禁止も、コーランの翻訳禁止も、発想の原点はそこなんじゃないかしら。何か別のものにコンバートすればするほど、必ず本質とは違う何かが出てくる。バグの発生ね」

「つまり、文字というのは、そもそも音という存在だった言葉を図像という視覚的な存在にコンバートしたものだけど、でも言葉と文字が完璧にイコールで結ばれることはないってことだよね? 時代や場所、または個人の認識によっても全然違うものになっちゃうもんね。すごく不安定だよ。そもそも言葉自体だって、実は人それぞれで全然違う捉え方をされてるものだし、全ては個人の中での理解と捉え方で存在している、全然別個のものだもん。それを、大体おんなじ感じのものだと思い込んで、人間が他人とやり取りするのに使ってる。すごく、いい加減で不安定だよね」

「そう。言葉はとても不安定で不確かな道具だわ。それに私は、文字も不安定すぎると思う。だから、最終的には、「音」に全ての情報が置き換えられなくてはならないと考えたの」

「音? 言葉ではなくて、ただ音?」


 巡理は肯く。


「言葉では足りないと、人間が気付きだす時代が訪れつつあるということよ。もう人間は、そんな不十分なコミュニケーションでは納得がいかなくなってきている。世界の速度がそれを赦さなくなってきている。時代に人間が要請している技術はもっと厳密さを求めだしているわ。それにまず対応できる道具は、音だと思うの。文字から、つまり文章から、音にコンバートされるシステムやテクノロジーを完成させなくてはならない。でもそれはつまり、その「音」を聞くことで正確な情報が取得されるくらい、人間そのものもまた進化しなくてはならない段階にきているということを意味している。「音」で情報を理解できる世界。それが、現在人間に課題とされている、第三の進化だと思う」

「第三の進化か」

「これまでは、文字を紙の上におこした。今は、コンピューターの上にキャラクタとして存在することで、一見形を失ったようにみせている。これは、紙のように磨耗するものではないから、一見半永久的な情報の保存形態だと思われている。でも、これも一時的な回避方法、または、これまでよりも若干長期的に保存できる方法だと思われているに過ぎない」

「ネット上のサーバーに残し、世界中を網羅している現在の状態でも、不完全だと?」

「じゃあ、今使っているコンピューターが、百年先でも有用だと思う? こんなに変化の激しい時代の中で、それを保障できる? たしかに、紙で伝達をしていた時代より、コンピューター上に残す情報のほうが確実で長期的に見える。速度性が高いのは認めるけれどね。でも、こんなに移り変わる世界では、その長期的、という言葉でさえ、その実際の量でさえ、あやふやになってしまう」

「不完全なんだな」

「不完全だわ。だから私は、情報の残し方を変えたの。文字の形ではなく、文字の形にも変換できる、音として全ての情報を残す方法をとるべきだとした。そして、事実その方法は採用された。今は、あらゆる楽器の音色、音階、装飾音を、段階的に分類して、それを文字の形にコンバートすればいい状態にした」

「では、世の中から楽器が失われ、その音を再現する方法すら失われてしまったとしたら?」

 宮川の核心を突いた問いに、巡理は最後の結論を告げた。



「だから、音の次は、全ての情報を光に戻すしかないのよ」



 薄暗がりの中。チェスルームでは、小さなオレンジ色の照明が灯されている。それが、宮川と巡理の頬を照らし出している。ささやかな、しかし確かな光。それを、宮川はこれまでになく強く感じていた。

 大きく吸い込んだ息を、宮川はゆっくり、時間をかけて吐き出しながら、知らぬ間に浮かしかけていた腰を降ろし、背もたれにぐったりと身体を預けた。


「――情報を、光に戻す」


 巡理は両手の指を、脚を組んだ膝の上で、しっかりと絡めた。そして、はっきりと肯いた。


「全ての大いなる叡智は光の中に存在している。でも、これは決してファンタジーな発想じゃないわ。こういう発想は、全て質量的な世界でのみ発生することなのよ。こういう考え方を宗教的と捉える人間も今はまだたくさんいる。だけれど、それは大いなる誤解なのよ。質量のある世界しか人間は把握できない。質量のある世界にしか、精神活動も、人間も、神ですら存在できない。ただ、情報が凝縮されているかどうかの問題なのよ。釈迦も、キリストも、モハメッドも、全て大いなる科学人だったんだわ。大衆が、それを科学にできる状態になかっただけ。科学は、ただの分析であり物差しなのよ。それを利用できる段階であるかどうか。ただそれだけのこと。そして彼等は、人間がよりシンプルに進む路を、指し示してくれた賢人なの。光とは、質量なのだから」


 光とは、智だ。

 重要なのは、見えるか否かではない。可視光線も光。紫外線も赤外線も光。そこに確かに存在している、質量であり熱量でしかないのだ。

 宮川は、すでに盤上から目を離している。巡理の言葉だけに、全神経を傾けている。


「君は、いつかそんな時代がくると、信じているんだね」

「ええ。そうならなければ、人類は生き残れないと思う。もっと正確に思っているところを言うなら、過去の時代から人間は、いつかそうなりたいと望んで命を繋いできたんだと、そう思ってる」

「巡理ちゃんは……」


 宮川は、そこで一度言葉を飲み込んだ。薄暗がりの中で、ぼうと浮かび上がる宮川の顔は、もう、十朗とどう違っているのか、巡理には見分けがつかなかった。


「巡理ちゃんは、そんな風に変わっていく人間の行く末を、正しいと思う?」

「正しいかどうかはわからないわ。でも、人が命を繋ぐ理由として、それはとても正しい根拠だと思う」

「――じゃあ、巡理ちゃんは、そんな世の中を自分の目で見守りたいと思う?」

「ええ。赦されるなら、全てのことを真正面から見つめていきたいわ。逃げずに、見ていたい」


 宮川と巡理の間で、駒たちが沈黙する。黒と白が盤上で入り混じり、混濁している。それが、いつの間にか自然な景色となり、チェックメイトという、一つの可能性の終着駅へと向かっていく。それはまるで、何かと何かが一つとなって、二色が混在する器の上で、ゆっくりと、ゆっくりと交じり合っていくような、そんな風景だった。

 と、ゆらり、と光が揺れた。

 巡理がはっと顔を上げた。風が吹き込むはずもない室内で、しかも照明の灯りがゆれるはずがないのに。


「――いつのまにか、随分と仲良しになったんだねぇ」


 突然背後から届いた言葉に、驚いた巡理が振り返る。


「あなた……」


 そこには、ツバメがいた。いつもの漆黒の衣装に身を包み、おかしそうに笑みを浮かべている。


「どうしたの、巡理ちゃん」


 不思議そうな宮川の声が耳に届く。


「……ええ、なんでもないわ」


 ツバメから視線をそらしながら、巡理は宮川のほうへと向き直った。きょとんとした顔で、宮川は巡理を見ている。巡理はなんだかおかしくなって、首を横に振ってみせた。


「なんでもないのよ。そこに、一人死神がいる。ただそれだけ」


 〈アゲハ〉の人間は被告にしか見えない。ツバメの姿は宮川には見えない。だから、ツバメのことは無視して、宮川との会話を続けるつもりだった。

 が。


「ねぇ巡理ちゃん。それって、そこにいる彼のことでしょ? 黒い服着た男前の白人の」

「あな、た!」


 がたん、と音をたてて巡理は椅子から立ち上がる。ツバメの顔と、宮川の顔を何度も見る。ツバメは腕を組みながら、面白そうに笑っている。


「――見えてるの?」

「見えてるらしいねぇ。それにしても、仁名 巡理。君がそんなにあからさまに取り乱すところを見られるなんて思わなかったよ」


 愉快そうに言うツバメに向かって、宮川は軽く頭を下げた。


「こんばんは。宮川 澄です」

「どうも。〈アゲハ〉っていう組織で死神みたいな仕事してます。ツバメっていいます。よろしく」

「あ、どうも、こちらこそ」


 巡理は脱力して、椅子に腰を落とした。


「――〈アゲハ〉のツバメ。どういうこと? アンタのターゲットは荻窪だけだったはずでしょ?」

「うん。まあ、そうなんだけどさ」

「まさか、宮川 澄も被告なの?」

「いや、それはない」

「……じゃあ、なんで宮川 澄にあんたが見えてるのよ」

「それは、彼が特別な存在だからじゃないかなぁ」


 ツバメも、眉根をよせながら腕を組んで笑って見せた。どうやら、彼も困惑していないわけではないらしい。


「特別特別って……、いくらなんでも度を越してない?」

「そうだよねぇ。つまりさ、この世界を作った〈ドリフター〉が僕ら〈アゲハ〉のことを認知していて、おまけに宮川かれは僕らが見えることを、その〈ドリフター〉に求められるってことでしょ? 一体なんなわけ? 彼ってなんのキーパーソンなの?」

「もう、そんなのあたしに聞かないでよ。あたしだってワケわかんないんだから……」


 困惑した巡理は頭を抱えた。

 宮川は上を向いたまましばらくとぼけた顔をして頭をぽりぽりと掻いていたが、やがて肩をすくめて「まあ、よくわからないけれど、そういうものだと思っておいてよ」と、気軽に言って場を締めてしまった。





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