第30話 深海
飛び込んだ巡理は我が目を疑った。そこは、深海とも思しき、異様な風景に満ちていた。
鮫が、イルカが、鯨が、烏賊が、海月が、秋刀魚が、ゆうゆうと水中を舞っている。カンブリア紀にも相当しよう、原始の生命のようなものですら、そこかしこに蠢いている。
と、巡理の目の前で、ステルの背中を巨大なエイが切り裂いた。裂けたシャツ。それはまるで、千切れてボロボロになった羽に見えた。そしてその背中には、ぽっかりとした空洞がえぐれて存在していた。
巡理は、大きく目を見張った。
えぐれた背中。
それは壮絶だった。
のんびりと剥き出しになった二つの丸みは肺の裏面。
その中央を貫くのは、水に揺られてカラカラと小気味よい音を立てそうな脊柱。
びらびらと、左右に割れて蜻蛉の羽のようにまたたく、薄くて白い背中の皮膚。
眩暈とともに気を失いそうになる。
なんだ、これは。なんなのだ、この身体は?
しかし、その背中は巡理に壮絶な既視感と確信を抱かせた。
そして、そのステルが何かを見つけ、急に泳ぐ向きを変えた。その向かった先にあったものに、今度は違う意味で驚愕した。
湖の底。水草の中に囚われ揺れていた人影。
それは、少女だった。
最初、湖底でゆれるその人影が少女だとわかった瞬間、巡理はそれがこの世界の確信部であると悟った。
そして、その少女の長いながい黒髪が水の揺れにさらわれて、その素顔を曝した瞬間、ごぼっと息を吐いた。
(みすみ……)
白く、小さく華奢な身体。
愛されることを待ちながら、花開く瞬間を待ちながら、じっと、眠りの底にいるような。
最愛の妹。
憎悪してやまない妹。
巡理は、彼女の姿を、そこに見たのだ。
それは間違いなく、巡理の双子の妹、
ステルが両腕を伸ばし、仁統を抱きしめる。きつくきつく抱きしめる。抱きしめたまま動かない。このままではいけないと気付いた巡理が、水草を切って二人に近づき、有無を言わさず抱えた。そして、全力で浮上をはじめた。
それが何を意味しているのかはわからない。ステルが仁統の存在になぜ気付いたのか、なぜ仁統がここにいると気付けたのか、全ての理由がわからない。しかし、今はそんなことを考えている時ではない。巡理の脚に水草が絡みつく。湖底に留めようとするかのような、そんな意図すら感じるほどに執拗に。しかし巡理は全てを振り払って水面を目指した。そこに十朗が待っている。自分たちを待っているはずだと、そう思って、全力で腕を伸ばした。
巡理の予感は正しかった。
水の中から、ステルと仁統を抱えて浮上してきた巡理を、最初に抱えあげたのは十朗だった。
水底から上がってきた影が見えた瞬間に、十朗もまた湖の中に飛び込んでいた。水の中に身体を浸した刹那、十朗は強烈な拒絶を感じた。理由はわからない。ただ、自分がここに身をひたすことを、湖そのものに拒否されていると感じたのだ。
巡理の腕を掴んだ瞬間、浮上してきたのがステルと巡理だけではないことに気付き、まず驚いた。もう一人いた。意識を失った髪の長い少女の顔を見た瞬間、十朗は思考を放棄していた。
突如としてそこに現れたのは、仁統だった。
他人の空似などではなかった。くるぶしに届くほどに長い髪。生存さえ疑われかねない希薄な存在感。本人に間違いなかった。
十朗の腕の中で、真っ青になった巡理の唇が、震えながら最初につぶやいたのは。
「服をステルに着せて」
だった。
一瞬だけ、ちらりと見えたステルの背中は、ひたすらに白かった。水中で何かに裂かれたのだろうか、白いシャツは破け、白く滑らかな背中が剥き出しになっていた。巡理の言葉の意味を理解し、飛び込む前に脱ぎ捨てていたジャケットをステルに羽織らせる。ステルは一瞬だけ十朗に視線を向けたが、それだけだった。
白い、白すぎるステルの肌。すでに十朗には見慣れた肌だ。
その事実に、十朗はなぜか突然息苦しくなった。
遅れて追いついてきたメンバーたちの中から悲鳴があがる。思いもよらぬ光景に、皆が動揺とどよめきを隠せずにいた。
水際に打ち上げられた三人と十朗を楽団のメンバーが助けあげる。十朗は、自分は大丈夫だからと、メンバーに笑って見せ、ステルと仁統を皆に任せたが、巡理の肩だけは離さなかった。だから巡理は十朗一人に任された。
ステルはメンバーたちに肩を抱えられ、よろよろと歩いていた。
ふと、その歩みが止まる。天を仰ぐ。
ひらり、ひらりと、雪が落ちてきている。
「――もうすぐ、くるのね」
極めて小声だったが、確かにステルがそう呟くのを、十朗は耳にした。
隣にいた貝塚の耳には届かなかったのか、「何かおっしゃられましたか?」と問うている。しかしステルは答えずに、再び歩き出した。
ちらと見ると、宮川 澄が仁統を抱きかかえていた。澄は、自分のコートで彼女をくるみ、静かにステルたちの後を追っている。
その背中に、一瞬、自分と巡理がそうしてそこを歩いているかのような錯覚を十朗は覚えた。
皆の背中を見送りながら、十朗は抱き寄せた巡理の肩が震えていることに気付く。きつく力を込める。無意識のうちにか、巡理の腕も十朗の腰に回される。冷えた巡理の身体からは、濃厚な水のにおいが漂っている。
巡理は、ただじっと、ステルの背中を見つめている。零れ落ちそうなほど大きく見開いて、唇をかみ締めて、ただじっと見つめていた。
「どうした?」
「ステルの、ステルの背中は、なんともなっていない、わよね」
「背中? ああ、服が裂けてはいたようだけれど、怪我なんかはしてなかったみたいだな」
「――そう」
十朗は、巡理が見たものを知らない。だから、何に巡理が動揺を示しているのかはわからない。しかし巡理は、それについて説明する気を失っていた。巡理自身が理解し切れていないのだ。自分の見たあれが、一体なんだったのか。
「……それにしても、どうして仁統がこんなところに、あんな湖の底なんかにいたのかしら」
「わからない。一体何がどうなってるんだ。仁統はこの湖の中にいたのか?」
「ええ、そう。どうしてかはわからないけれど、ステルがあの時そのことに気付いたのよ。それで、ここに飛び込んだ」
「どうしてステルが気付くんだ? いや、そもそもどうしてステルが仁統のことを知っているんだ?」
「わからない。わかるわけがない」
二人が言葉を失い、混乱が一通り十朗の中を通り過ぎた後、ふと、そのことに気付いた。
「――ほたる」
「え?」
「螢だ。螢が何か知っているんじゃないのか? たとえ何も知らなかったにせよ、仁統が今家にいるかいないかは確認してもらえるだろう?」
ショックのせいか、脚に力が入らないらしい巡理の身体を、十朗は抱え上げた。いつかのように拒絶されるかと思ったが、そうはならなかった。記憶の中にあった彼女よりも、格段に軽く華奢になっていた。十朗は巡理を抱えたまま、まずは寄宿舎の自室に向かった。タオルを取り、巡理をバスルームに押し込むと、一人先に中央館へ向かった。三階のコンピュータールームに入り、接続を試みる。
その間に、少し十朗の頭は冷えた。そうだ。確かに彼女は仁統だったが、それはこの世界が仁統の存在を知っており、この世界の登場人物として彼女を欲した結果現れただけだということも有り得るのだ。つまり、彼女は仁統のコピーにすぎない可能性だって、まだ残されているのだ。
しかし、巡理がすでに知る事実を、十朗だけがまだ知らないでいた。
すでに、螢とつながるラインは途切れていることを。
そして、当然のごとくもたらされた結果は、余計に十朗を混乱させたに過ぎなかった。はじめは自分の目を、結果を疑い、何度も何度も再コンタクトを試みたが、望む結果は得られなかった。
何度も接続を試みたが、だめだった。自室で待ち受けていた巡理に、十朗は、ぽつりと「螢と――〈イーシァン〉との連絡がつけられなくなってる」と、その一言だけを口にし、後はもう、沈黙だけがその場を支配した。
知っていた巡理も沈黙するしかなかった。
彼等は改めて、全てが終結に向かっていることを悟らざるをえなかった。
巡理の視線が窓の外へと向けられる。
ひらり、ひらりと、雪が舞い落ちていた。
湖に
終焉がはじまる。そっと目を閉じる。そこにあるのは。
闇。
そして、その向こう側に、これまでは触れることすらできなかったものが見えていた。
そう。
――アカシックレコードの全貌が、そこにあった。
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