第21話 〈アゲハ〉の死神




 ふっ、と小さく息を吐いて、巡理は椅子の背もたれに身体をあずけた。

 ――それは、遠い過去の話だ。

 全てのはじまりでもある、遠い過去の話だ。

 今、十朗のことを考えるたび、巡理は自分たちの関係が、いかに歪んだものだったのかを痛感せざるをえない。

 常から刃物のように神経を張りつめている巡理に対し、十朗は、ともすれば愚鈍にさえ見えかねないほど間延びしたところがある。それが巡理を苛立たせる時も決して少なくはない。しかし彼女の相棒のひとみは、時に、彼が求めて得られなかった何かに対する「かつえ」という闇を見せる。それは生きるために鈍磨され、まるで彼の手帳そのままのような、凝った冷たい眠りの光を孕んでいる。

 それが、巡理には憎らしいのだ。

 盤上であの日のアンパサンを再現する。ピックアップされた駒を盤上に追い出す。

隣を通り過ぎるだけだったはずの、そしてすでに通りすぎたはずのものを世界から追い出し、その歩んできた道を乗っ取り、逆流して、その源にある世界を破壊するために歩んでゆく。それがアンパサンというルールだ。

 それは、何を意味するのだろう。一体、何に似ているのだろう。

 首筋を、冷たい空気がなでる。

 チェスルームのドアが開いたことには、音で気付いた。

 窓ガラスに映った背の高い男の影に、巡理は小さく緊張をゆるめる。


「こんなところにいたんだ」


 落ち着いた声だった。


「あんたとはじめて会った日のことを、思い出してた」

「はじめて会った日……」

「あの日の夜も、私たちの間にはチェス盤があった。あんたがポーンを動かして、私がナイトを動かした。いつも思ってた。ナイトの動きは、まるで漂流しているみたいだってね」

「――漂流者、か」

「そう。漂流者たちよ。駒を動かした後にあんたがしたアンパサンの話が、あれからずっと忘れられないでいるのよ。あんたが言った、直接には戦わずに済むはずだった駒同士なのに、隣の道をすれ違って並んで、もう関わるはずもなかったのに、アンパサンのせいで、相手の進んできた道をのっとって、これまでの基盤を叩き潰しにいくチャンスを手に入れることができるって、あの言葉。あれが耳にこびりついて離れないのよ」


 窓の奥で、ふっと十朗が笑った。小首をかしげたその瞬間、巡理をかすかな違和感が襲う。

 なんだ……?



「君たちみたいに、魂の双子のような同士でも、これだけ似ていると気付かないの?」



「っ!」


 がたん、と音立ててイスを立つ。抜かった。そこにいたのは、十朗ではなく、宮川 澄だった。

 どくどくと心臓が脈打つ。

 信じられない。信じられなかった。まさか、自分が十朗と他人の気配を誤るなんて。

 ありえない。そんなことは、絶対にありえない。いや、ありえてはならないはずだ。


「えっと……そんなに驚かせるつもりはなかったんだけどな」


 頭に手をやりながら、宮川は困ったような表情を浮かべてみせる。

 巡理の鼓動は収まらない。

 ――どうしてだ。どうしてこの男は、こんなにも十朗に似ているのだ。

 容姿ではない。容姿も確かに似ているが、もっと重要なのはその気配だ。性格が似ているのでも、仕草や声が似ているのでもない。その気配のあり方が酷似しているのだ。

 と、にこっと宮川が笑ってみせた。

 その笑顔で、ふと、肩の力が抜けた。


「こんな時間にチェスに興じているとは。――眠れないの?」

「……ええ」


 正直に答えながらイスに腰を落とすと、宮川は「やっぱり似てるんだねぇ」と嬉しそうに笑った。


「にてる? 誰が誰と?」

「十朗君と巡理ちゃんがだよ。十朗君も到着したころは熟睡できない感じだって言ってたよ」

「――今は、ちゃんと眠れているのかしら」

「どうだろう? 心配なら心配してあげればいいじゃない。きっと喜ぶよ? うれしすぎて泣くかもしれないよ?」


 おどけた調子につられてつい笑ってしまう。


「そうそう。巡理ちゃん、もっと笑うといいよ。前に楽さんに爆笑させられてたみたいにさ」

「もうっ、やめてくださいよ。あれは忘れてください。油断してたところをやられちゃっただけなんだから」


 宮川は、一体何を考えているのだろう。

 心を砕いたような顔をして見せる巡理の本音は、この目の前に立つ男の考えていることをただ探りたいばかりだ。この男は何を考えている? 何を望んでいる? 一体、なぜこの『唯一の交響楽団』にいる?

 宮川は、ふわっと子犬のような無邪気さで笑った。


「楽さんって言えばさぁ、ほんっとに破天荒な人だったらしいね。田舎のいいとこの家の出らしいんだけど、そういうところの常で対立してる家があって、そこの家の未亡人と駆け落ちしたらしいよ」

「は? え?」

「楽さんのほうはそれが初婚だって言ってたな。奥さんとの間には娘が一人いるらしいんだけど、奥さん自身には前のご主人との間にも子どもがいたらしくてね。子どもは父親の家に残されたんだって。父親自身は、ずいぶん昔に亡くなったらしいけど」

「なんだか……いろいろあるんですね」


 宮川の笑みが、深くなる。


「残された子どもは、母親のことをどう思っていたんだろうね?」

「――……。」

「その母親を連れていった男を、そしてその男と母親との間にできた妹のことを、一体どう思っていただろうね?」

「それは……」


 母親。

 巡理の中に、茫洋とした母の顔が浮かぶ。

 夢の世界に遊ぶ母。巡理の存在を認めなかった母。病院の中にしか生き延びる場所のなかった……母。

 巡理を自分の娘と認識しなかった母。あなたは、一体誰。そう言った母。狂った美しい、淡い色彩の母。

 そして、持て余した巡理を自分の親友である男に預けた父。それきり、会いにこようともしなかった父。

 自分は、父にも母にも見捨てられたのだ。


「それは――私にはわからないわ」


 必死の思いでそれだけの言葉を紡ぐ。

 本当は痛いほどわかっている。母や父というものに対する思いなど何もないのだ。何もないはずなのだ。ただ残っているのは、世界の何物にもつながれず、自分一人の足で立つことだけが、唯一心の安らぎをもたらしてくれる方法なのだと知った時の安堵と絶望――それだけだ。


「ねぇ、巡理ちゃんには兄弟って、いる?」

「……双子の妹が、ひとり」

「そう。僕の妹はね――」


 一瞬、真顔になってから、突然、宮川はふふっと笑った。


「僕には、妹が二人いるんだ。今から言うのは下の妹のほうだよ。僕が愛していないほうの妹だ」


 愛していないほうの妹。

 その言葉が、まるで十朗の言葉のように聞こえる。

 愛している妹。それは仁統か。仁統が妹なら、その双子の姉の自分も妹と同じなのではないか。

 では、自分は愛していないほうの妹ということになるか。

 黙りこんだ巡理の気配に何かを感じ取ったのか、宮川が「ああ」と声を発した。


「まあ、今愛していないって言ったけどね、彼女に対しては家族愛としての愛は、あるよ。僕の家庭は、若干複雑ではあるけれど、愛情はきちんとある家庭なんだよね」

「――……。」

「で、その妹の話に戻るけれど、こいつがステルと瓜二つなんだよね」

「え?」

「結局この妹が切っ掛けになって、僕とステルは面識を得た。お互いここではそんな顔をしないと暗黙の了解で動いているけどね」

「そう、ですか」


 これは一体何を意味するのだろう。

 十朗にあまりにも似すぎている宮川。そして宮川の妹に瓜二つというステル。

 宮川が、ゆっくりと歩き出す。少しずつ巡理に近づいてくる。その歩き方までもが十朗に似ている。すでに、どちらが先でどちらが後だったかも意味をなさなくなるほどに、二人の存在が巡理の中で重なっていく。

 今、自分の目の前にいるのは、宮川なのだろうか。それとも十朗なのだろうか?

 すっと、宮川がチェス盤を指差す。


「さっきさ、巡理ちゃん、そのナイトっていう駒のことを漂流者みたいだと思ってたっていったよね。それから、この駒のことを、漂流者たちだって」

「え、ええ」

「確かさ、漂流者たちって、英語で〈ドリフターズ〉っていうんだよね。それで、複数形じゃなくなると、〈ドリフター〉になるんだよね」


 巡理は絶句する。

 そして悟った。

 この男は知っている。〈ドリフター〉という言葉を。巡理たちが使うその言葉の意味を知っているのだ。


「巡理ちゃん。僕はね、君と色々な話がしたいんだ。君が話すことを聞きたいんだよ」


 その宮川 澄の言葉は、ずしり、と巡理の中に落ちた。

 それは静かに、しかし確実に、巡理の中に染み渡ってゆく。

 名を呼ばれるだけでなく、巡理ちゃん、とちゃん付けで呼ばれていることも、もう気にはならなかった。それは、とても必然的で、避けがたい何かを彷彿とさせた。



 あの日。十朗とアンパサンの話をした直後。

 十朗は突然立ち上がって、「行こう」と言った。

 半ばぼんやりとした意識で十朗の後に続き、二階へと連れて行かれた。

 奥の部屋の扉に十朗が手をかける。かちゃりとノブが回される。きぃ、と扉が押し開かれる。


 今でも、わからなくなる時がある。


 もし一つでも状況が違っていたら、自分はきっとここにはいなかった。何も知らない、父母と断絶した、ただのありふれた人間に過ぎぬまま終われたことだろう。

 部屋の奥には寝台があり、そこに、巡理と同じ顔をした少女が横たわっていた。

 華奢で小さく、儚いその存在は、深い眠りの底にいた。

 仁統……と、巡理の唇から小さくその名がこぼれる。隣に立つ十朗が、静かにつぶやく。


「――〈ドリフター〉が訪れるようになってからだ、仁統がこの眠りに落ちたのは。彼女はこれまで〈カマー〉に対応するための仕事に従事してきた。彼女が目覚めず、対〈ドリフター〉の仕事にあたれない以上、君にその仕事を引き継いでもらうしかない。――それが、君を〈イーシァン〉に呼んだ理由だよ」


 巡理は、母親から一人で生まれてきた。

 だから、戸籍上の彼女は双子ではない。

 しかし、この全てが決定している世界で、彼女たちが双子であることは決まったことであり、その双子の妹のほうが、〈カマー〉に応対する仕事を〈イーシァン〉で行なうことも決定していた。しかし生まれてきたのは一人。

 つまり、二人は全能性細胞の段階でいったんは双子として誕生すべく分裂を果たしたのだが、仁統の方が成長途上で細胞分裂を止めてしまったのである。仁統の細胞は巡理に取り込まれ、二人は、一度は分裂しながら再び細胞融合したキメラとして誕生した。

 だから〈イーシァン〉は高海沢と結託し、巡理から仁統となるはずだった細胞を採取して培養し、誕生させたのである。

 ゆっくり、一歩ずつ、巡理は仁統の傍へ近づいていった。近づけば近づくほど、仁統の儚さは際立った。それは眠りなのか死なのか、そもそもこれは生きているものなのか、生きていたものなのか。それとも人形に過ぎないのか――そんなふうに思うほど、あらゆるあわいが掴めない、そんな存在だった。


「どうして……こんな、なにがあったんだ?」


 仁統から目が離せずにいる巡理に、十朗は背後からぼそぼそと説明する。


「罰を受けたんだよ」

「ばつ? なんの罰だ? 誰から?」


 十朗は一呼吸をおいてから、ぼそりとつぶやいた。


「――〈アゲハ〉の死神からだ」




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