第20話 アンパサン




 十朗の後に続いて建物の外に出る。コンクリート建築物と、新緑の反射が目に痛かった。


「こっちだよ。裏道に抜ける遊歩道があるんだ」


 指し示されたほうについて行くと、やがて西洋庭園にでも見られそうな、少し長い回廊に出た。

 白いタイルを敷きつめた回廊は、片側には緑の芝生を刷き、片側は、いくらかのスモークガラスを埋め込んだ白壁に面していた。

 白と緑と、光しか存在しない。


「気に入ったかな?」


 はっと顔をあげると、十朗が首だけで振り返りながら、こちらを見ていた。少々バツが悪くなり、いつの間にか緩んでいた表情を引き締めなおした。


「――それなりに」

「……素直に顔緩ませてりゃかわいいのに」

「なに?」

「なんでもないですよー。なんでもねー」


 十朗と二人での回廊散歩は、約五分の行程を経て、白いアーチ型の門をくぐり抜けて、終わった。


「今日は、これからどこへ?」


 緑の色に意識を半ば奪われながらぼんやりと問うと、十朗は「家に帰る」と簡潔に答えた。


「今は特に大きなトラブルも抱えていないし、螢は別件で取り込んでいる。だから、一端俺が家で君をあずかることになってる」

「――……。」

「心配しなくても、すぐに個人宅は用意してもらえるさ。もちろん仕事だからね、報酬に見合った働きは求められるけれど」

「なるほど……。ところで、さっき高海沢と名乗っていたけれど、あんた、ここの研究所と何か関係があるの?」

「ああ。一応、創始者の養子ってことになってる」


 回廊を抜けると、広い駐車上に出た。


「このちょっと行った先で、運転手が待っている。そこから少し時間がかかる。眠りながらいくといい。運転はうまいドライバーだから、熟睡できると思うよ」

「ありがとう」

「――さっき、あの子のことを気にしていたな」


 あの子。あの方。たったそれだけの言葉の中に、彼女の彼らの間での距離感が如実に現れている。


仁統みすみ、っていう名前らしいな」

「ああ」


 十朗は、少し考えてから、「双子、なんだよな」と小さくつぶやいた。「たしかに、君たち、よく似ているよ」


「――あんたは、彼女と暮らしていると聞いた」

「ああ。妹だからな」

「え」

「俺も仁統も高海沢の養子だよ。ようは高海沢で特殊な出生をした人間に、便宜上戸籍を与えるための詭弁というか、茶番だな」


 進む先に、ダークブルーの国産車が止まっている。運転席にはサングラスをかけた男が座っていた。


「彼女は――どんなふうだ」

「仁統のことか?」

「そう。どんな容姿をしていて、どんな性格なのか。何が好きで、どんなふうに生きてきたのか」

「その問いに、一言で答えるのは難しいな」


 十朗は少し笑ってから、「そうだな……」と顎に手をやった。


「声質はアルトだ。なめらかでビロウドのような手触りを感じさせる音をしている。髪は、癖ッ毛だな。長く伸びれば伸びるほど、大きな波を打つ。今、大分長いよ。色はそれこそ漆黒に近いな。それとは逆に肌の色は白い。新雪よりも無垢な白だ。君みたいにね」

「そう」

「身長はかなり低いよ」

「――……。」

「それから……痛々しいくらい、華奢だ。静かで、鮮やかで、だけれど――どこか儚い。君の印象の鋭さとは、好対照といえるね」

「そう、か」


 そこで一瞬十朗は言葉をとめ、「これから君と仁統を会わせる。――会えばわかるよ」と、小さくつぶやいた。



 車の走行は極めて安定していた。十朗の言葉通りほぼ全ての道のりを熟睡して過ごしたのだが、ふと気付いた窓の外には、うっそうと茂る木々が連なっていた。舗装されてはいるが急な坂道を登っている。木々の合間に山々が垣間見える。

 車が到着したのは、そんな山間の中腹にぽつんと一軒たたずむ住居だった。豪奢な別荘と言っても過言ではない。

 二人を家の前でおろすと運転手はすぐに走り去って行った。見送りを済ませると、十朗はすぐに玄関の鍵を開けた。

 家の中は清潔で整っていて、余分な家具が一切なかった。しかし、巡理の疲労がピークに達していることを察した十朗が、すぐに客間へ案内した。頭痛がおさまらないので、巡理も遠慮なくそのまま寝台にもぐりこんだ。

 仁統のことが気にならないではなかった。むしろ、それがあまりに大きな問題であるからこそ、巡理は躊躇したのだ。彼女との対面を一瞬でも先送りにしたかった。

恐れがあったのだ。

 気付くと、すでに夜闇の帳が下りていた。時計を見れば十一時を回っている。

 ふと咽喉の渇きをおぼえ、水をもとめて客間を出た。向かったのはダイニングルーム。

 ダイニングルームは居間と続きになっている。居間は裏庭側に面しており、その一角はガラス張りの温室に面していた。そのすぐ手前に、背中を向けて座る男の影が見えた。十朗だった。照明灯をひとつだけ点けて座る彼の前にはチェス盤があった。


「チェス、するのか?」


 すっと、音もなく十朗が振り返る。


「起きたのか。体調はどうだ?」

「ありがとう。大分ましになった。水をもらいにきた」

「冷蔵庫のサーバーの中に入っている。グラスは適当に棚からとってくれ」

「ありがとう」


 言葉に甘えて水を一杯手にしてから、そっと十朗に近づいた。チェスの駒は、全てスタート地点におかれたままだ。

 十朗の対面側のイスに腰をおろす。チェス盤の脇にグラスをおく。


「チェスするんだな」

「ああ。さっきも聞いてたな。俺はね、わりと好きなんだけど」


 含みのある言い方だ。


「……仁統は、しないのか?」

「興味ないらしい」

「ふぅん……」

「君は?」

「え」

「君は、チェスはするのか?」

「――ルールは、知ってる」

「ルールは?」


 顔を背けて窓の外を見る。


「……ゲームで遊んでいただけ。実際に対局する相手が近くにはいなかった」


 それから後の言葉を続けられずに黙っていると、十朗は何も聞かずに、ただ黙って駒をひとつ動かした。白のポーン。ふわりと飛び上がって、二マス先にあるf4の黒マスの上に着地する。


「すこし――お互いの話でもしようか」


 十朗の手を見る。


「そうね……」


 椅子の上で手を組み、しばらく自分の指先をながめながら考えて、ふと思いついた。


「なら、まず一つめ。音楽はどういうのが好み?」

「音楽か? ……そうだな。ロックもレゲエも好きだし、ポップスも聞く。一言では括りにくいな。気にいったもの全般だ」

「じゃあ、質問を変えよう。楽器は弾ける?」

「やる」

「種類は?」


 十朗は苦笑した。


「それこそ、さっきの質問と答えが同じになる。色々な楽器をいじるよ。ソフトを使って打ち込みもするし、ギターならフォークもアコースティックもエレクトリックもやる」

「なかなか多彩だな。じゃあ、追加質問。絶対音感はある?」

「あるような、ないような、ってとこだろうか。――ああ、ハーマイナスなら、すぐに音を言えるけれど」

「ひとつ、当てて見せようか」

「どうぞ」

「本当に力を入れているのは、クラシックじゃないか?」

「……どうして」


 にやりと笑って見せる。


「今、油断したろう」

「――……。」


 十朗の顔に、にやりと笑みが浮かんだ。


「どのあたりで、感付いた?」

「さっきまでの質問に対して返してきた答えの言い回しだよ。答え方が不自然だった。クラシックの匂いなんて、全く感じさせない方向に、むりやり引っ張っていこうとしていたんじゃないか? ギターを弾くのは本当かも知れないけれど、クラシックを抜かしたことで逆に際立った。あげく、絶対音感の自信は微妙だけれど、オケで合わせる時のシーフラットをドイツ語読みで言っちゃあなぁ……駄目押ししてるようなもんだよ」


 最後まで言葉を続ける必要はなかった。途中から、十朗は口許を苦笑で歪めていたから。


「参った。当たりだよ」

「三歳からずっとクラシック続けてきましたっていう類いでもなさそうだな」

「ああ。六つより下ってことはなかった。――どうして、こんな質問をした?」


 十朗の手を指差す。


「指先のタコ」

「――ああ」


 十朗は自分の手のひらを表に向けて苦笑した。


「その形や厚さは弦楽器だと思ったんだよ。あ、さっき楽器は弾けるかって聞いた時、わざわざ「やる」って答えたろ。あれもちょっとひっかかったかな。ヴァイオリン?」

「いや、チェロだ」

「なるほどね。似合いそう」

「そういう君こそ、クラシック畑だろう?」

「ああ」

「楽器は? みたところ、やっぱり弦楽器のようだけど」


 こちらの指先に視線を向けてきたので、左手を広げて見せてやった。


「弦バスだよ。ストリングベース」

「なるほどね。似合いそうだ」


 十朗は笑い、巡理も笑った。

 夜の闇が、さらさらとした音楽を奏でているような気がする。風がこずえをゆらす音だ。それがそのまま闇の音となる。

 巡理は、そっと駒の一つに手を伸ばした。自分の前にある黒の陣営のg8ナイトを、h6に飛ばす。十朗が、そっと腕を組む。


「君、さっきチェスのルールは知ってるって言ってたな」

「ああ。でも駒の動き方が辛うじて頭に入っている程度だけど」

「アンパサン……というのは、知っている?」

「アン――なに?」

「en passant――フランス語だよ。通過補卒っていうんだ」

「どういうルール?」

「例えば、自駒のポーンがd5にまで進んでいる時に、隣の列、e5に相手駒のポーンが初期位置から2コマ進んできて隣に並んだら、その次の一手においてのみだけれど、e5の相手駒ポーンを捕獲した上、d5の自駒ポーンをe6に動かせるっていうワザだよ」


 十朗は、実際に盤上で駒を動かしながら、その動きを実演して見せた。

 e5の黒ポーンがピックアップされ、盤上から追い出される。e6に白ポーンがおかれた。ピックアップされた黒ポーンが、グラスの横にそっと置かれる。


「……皮肉だと思わないか」

「皮肉?」

「ポーンは基本的に直進しかできない。つまり、配置されたライン上の駒としか向き合わない。ポーンが取れるのは、左右斜め前一コマ上にいる駒だけだ。だから、隣のラインで隣に並んだポーンは、敵に違いないかも知れないけれど、すでに直接戦わずに済むはずだった。それが、このアンパサンが適応されることで、相手の進んできた道をのっとって、これまでの基盤を叩き潰しにいくチャンスを手に入れることができるんだ」


 何も言えなかった。ただ、黙って聞くしかなかった。


「通りすぎて、隣に並んだはずだったのに、もうそのまま終わるはずの関係だったのに、ひとつ進み方が違っただけで過ぎたことが蒸し返される。通りすぎたはずの自分の過去に他人が立っている。自分の人生はそこで終わってしまったのに。そして、そのままその他人は自分の歩いてきた道を逆行していく。攻撃のためにね。――つまり、他人の人生を乗っ取って、他人の人生を根幹から切り崩すってことを意味してるんだよ。このアンパサンって技は」




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