1.マーブル・タクト

第7話 墓標




 嫌な夢をみた。

 大昔のことを夢に見た。

 十朗があんなことを言ったせいだ。


 ――今夜は、一緒に寝てみるか?


 頭を抱えてベッドの上で丸くなる。

 頭痛がしてならない。

 馬鹿にしないで。ばかにしないでよ。簡単にあたしの身体に触れないで。


(簡単にあたしに触らないで。)


 そう、実際に口に出して十朗に言ったのは、一体どれほど前のことになるだろう。しかしあれ以来、十朗は巡理の身体に極力触れなくなった。肩をたたいて呼ぶ程度の、ごく軽い接触ですら避けた。だから、巡理が拒絶しない時にしか、二人の身体が触れることはない。

 馬鹿にして。馬鹿にしてる。

 全部の責任を巡理になすりつけている。

 十朗は卑怯だ。

 縮こまっていた身体から力を抜き、巡理は闇の中で、ふっと目蓋をひらいた。普段は鋭過ぎるほど鋭い目が、まるで幼子のように、ぼう、と開かれている。

 身体に触れるなも、卑怯だも、実際に口に出して十朗に言った。

 言わなかった言葉なら、もっとたくさんある。

 もとめて。

 あたしを求めて。

 母親にすがりつくように、すれ違いつづけた運命の恋人にむさぼりつくように。

 お願い。

 あたしを、


「……、好きになって」


 そう口に出した途端、紛れもない吐き気に襲われ、寝台の上で巡理は幾度もえずきながら身体を丸めた。激しい嫌悪と違和感にさいなまれながら、確かに今、彼女は十朗の腕を求めていた。あれほどに拒絶しておきながら、真に求めていたのは紛れもなく自分の方だった。

 嫌悪と渇望。

 身を焦がすほどの、絶対的な渇望。

 しかし、それが決して愛情ではないことを、巡理は知っている。


          †


 ――結局、昨晩はよく眠れなかった。

 夜もまだ完全には明け切らない、午前五時前。巡理は、ひとりで寄宿舎を抜け出した。

 寄宿舎の裏には白樺の木立が立ち並び、その合間をさらさらと流れる小川の水音が、肌寒さに拍車をかけた。

 ショールを身体に巻きなおし、ひとつ、大きく息をする。

 吸い込む空気は肺を冷やし、吐き出すたびに白い吐息となって体温を奪ってゆく。

 下草を踏むたびに、さくり、さくり、と静かな音がする。

 なんと心地よいのだろう。

 なんと幸福な時間だろう。

 息をして、歩く。

 ただそれだけのことだが、それ以上に、ほんとうに人間が幸福を実感できる瞬間などあるのだろうか?

 肉体を得た存在が、世界と肉体の一部とを交換しあいながら活動すること以上に、己の存在を実感できる真の瞬間など、他に存在するだろうか? ただ呼吸をするだけで、かつて自身の肉体の一部だった水素と二酸化炭素は世界に解き放たれる。世界にとける。たかが息をするだけのことで肉体は解体されているのだ。本当は。

 巡理は、ひとりでこうして自然の中を歩くことが好きだった。

 人込みの中では、自己の存在を意識的に捕まえていなければ、あっけなく己という存在が霞んでしまう。ただ己が己であることに充足できなくなる。自我とは、なんと厄介でもろく、そしてなんと邪魔なものなのだろう。いや、それはただ自分の自我が未熟だというだけの話なのかも知れない。そのことは自分自身が一番よく知っている。多分、だからこそ巡理は人込みを憎むのだ。未熟な自分を思い知らせる他者が憎いのだ。

 なんと、己は不安定で幼いのだろうか。

 自嘲の笑みがこぼれる。

 しかし、もうそんなことはどうでもいい。

 世界は、こんなにも明らかに存在しているではないか。

 そして、己もまた、こんなに明らかではないか。

 歩きながら自分の肌を見た。袖から出ている腕と手首、それから手の甲。寒気がするほど白い肌だ。――黄色人種のクセをして、白人よりも白い皮膚だ――そう白人に言われたことがある。

 朝の薄暗い空気の中で見る自分の皮膚は、白過ぎて、儚い。本当にこの手が生きているのか自信がなくなることもあった。爪の先まで作り物めいていて、浮き上がった青い静脈が、指先を繰るための糸にすら見える。


「――ばかばかしい」


 どんどんと先へと歩いた。ふいに木立が途切れた。


 ――ちりん、とガムランボールが革紐の先でゆれる。


 木立の先に思いもよらず広がった、赤いステップの大地に巡理は息を呑んだ。

 冷えた空気。大地に囚われた空気。

 全てを間違いなく包み込みながら、しかしどこかで偏り、凝り、どこかで足りない、流動的な存在。

それは、


(世界だ――)

 

 目の前に広がる。

 圧倒的なパノラマ。

 それは、広大な大地だった。

 果てまで見渡せる地平線だった。

 そして、丸く湾曲した大空だった。

 

 巡理は息をつめて世界を見つめる。

 割れた雲の間から、音楽のように射し込む最初の光。太陽の息吹。

 天空で渦巻く風。それは大地に降りそそぎ、枯れはてたと見えたステップの草まで軽やかに揺らす。

 鳴動する大地。響く大気の聖なる歌声。生きとし生けるもの、あるいはそうでないものも、すべからく包み込む祝福。歓喜。大いなる回帰。

 ぎゅっと、巡理の小さな手がショールを掴みなおす。

 解体されてゆく肉体を押しとどめたくて。無理にでも、この感動を手放したくなくて。忘れたくなくて。

 世界とは、膨大な、ありとあらゆるものが、おぞましく、しかし美しく煌めきながらうごめく一つの巨大な生命だった。

 天と地の狭間から、日が昇り始めている。

 刻一刻と、何かが永遠に失われ流れ去り、それと同時に新しい闇と消滅とを抱きしめる輝きが生まれている。そして消えてゆく。

 すべては平等ではない。均等ではない。どこかに偏り、凝る。どこかに足りず、餓える。だからこそ、ありとあらゆる美しさが生まれる。

 巡理は、今そのことを全身で感じていた。

 まるで、それは音楽そのものだった。

 流され変化し続ける凝りと不足が、消失の瞬間にあげる断末魔の叫びこそ真の音楽であると、世界に、そっと語りかけられたような気がした。


 はじめて、ほんとうの音楽の生まれる瞬間を耳にしたような気がした。


 赤い、あかい大地は、果てしなく続く。

 そして、驚くほど青くて大きい湖が、赤い大地の丘陵の裾野に横たわっていた。

赤と青。その色彩は対極だけれど、その濃度が近いために、かえってその印象は融和されている。

 息をつめて世界の音を聴いていた巡理の目が、ふと、何かの影をとらえた。

 灰色の世界に、すでに半ば融けかけている、それは。


「たてもの……?」


 小声よりも吐息に近い音で、無意識のうちにそうつぶやいていた。

 青いあおい湖の淵に、一つの朽ちた建物があった。

 なぜ、あんなところに?

 小さな疑問を思考の端に追いやりながら、そっとその姿を見つめる。何に似ていると強いて他人に説明するとしたら、それは恐らく教会だった。または、昔写真で見ただけの広島に建つ原爆ドーム。それによく似ていた。


 ――まるで、墓標だ。


 巡理は、急に寒さが増した気がして、ぶるりと一つ身震いしてから、慌ててきびすを返した。

 彼女の背中には、鋭い太陽の光がさしているはずなのに、どうしようもなく寒くてならなかった。




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