第6話 〈ドリフター〉




「大分、暗くなってきたわね」


 持参してきたスコアを机の上におき、どの棚に収めるかを思案していた十朗の後ろで、そう小さく巡理が呟いた。

 メインホールにいた団員への紹介が済まされた後、最終到着者の四名は寄宿舎へ案内された。

 寄宿舎は、この専用ホールがある敷地内の最奥に位置している。一応男女で左翼と右翼に分けられているが、行き来は自由になっていた。部屋はすべて鍵付きであるし、皆子供でもあるまいに、楽団が団員のプライヴェートに介入するほど無粋ではないということか。左翼側が男性寄宿舎。右翼側が女性寄宿舎。十朗の部屋は二階の奥角から二番目に位置し、一番角の位置になっている部屋は空き部屋になっている。二人は今、十朗に割り当てられた部屋にいた。

 巡理の視線は窓の外に向けられている。十朗の側からは、その背中しか見えず、表情は汲み取れない。窓の外は確かに日暮れ時を迎え、うっすらとした朱色が一筋、地平線と近いわずかな空の領域を染めている。

 室内は暗い。巡理に言われるまで、もう明かりを入れるべき時間だということに思い至らなかった。

 巡理の身体を包むモノトーンに視線を奪われる。

 艶やかな漆黒のレイヤード。黒いタートルネックのセーター。ウォッシュアウトしたホワイト・ジーンズ。死者のように赤みが一切ささない白い肌。黒目がちな鋭い眼差し。

 十朗は巡理に聞こえないように、小さく溜息をこぼした。


「男女別の寄宿舎形態なのは、あんまりありがたくないな。隣室とまでは言わなくても、せめて別棟っていうのは避けたかったな」


 窓ガラスに、小さな笑みが見えた。


「私の傍から離れるのがそんなに嫌なの?」

「……お前を一人で放しておくのが心配なだけだ。いざって時に守れないかも知れないだろう」

「どっちみち自分が不安なんじゃない。同じことよ」

「――……。」


 十朗は黙った。そうかも知れない。しかし釈然としない。

 言いたいことはそういうことではないのだと、それだけはハッキリしているのに、いくら言葉を重ねても伝えたいように受け止めてはもらえない。どうしようもないやり切れなさだけが残る。ここのところ、巡理とする会話全てがそうだった。


「どういうふうに受け取ってくれてもいいさ。でもな、油断してると、本当にいくらお前でも足元掬われるぞ」


 巡理の背中が小さく揺れた。窓に映るうつむいた顔の口元が、心なしか笑んでいるように見える。失笑か。己に対する。それとも自分たちの関係に対する。


「私も甘く見られたものね。そんなに信用がなかったなんて知らなかったわ」

「お前だって嫌だろう。最後の仕事で〈ドリフター〉にしてやられる、なんてことになったら」


 巡理は黙った。黙って、窓の外に視線を向けている。ややあって、小さな溜息のような言葉が呟かれた。


「情報が出そろわないうちに現場にくるなんて、どれぐらいぶりだったかしらね」


 十朗は、思わずふっと笑った。


「全くのノーデータだったのは、例のひよこ事件の時ぐらいだろう」

「――ああ。そうね」


 窓に映る巡理の顔が苦笑に歪む。


「あれって、二年ぐらい前だったかしら」

「そうだな。それぐらいになるな。あとは、ミラーメイズの時か」

「ああいう事件は、嫌ね。自分が人間なのを後悔したくなる」

「そうだな」


 巡理は、基本的に背後を固めた状況でしか仕事をしない。データが出そろい、準備が整った時に初めて実働に乗り切る。それが基本スタンスだった。そして、そうすることを彼女は十朗にも遵守させてきた。


「何にせよ、今回は仕方ないさ。チェリストとベーシストが汽車に乗り込むのに合わせてでないと、潜り込むことすら不可能なぐらい、ここのガードは堅かったんだから。おまけに、佐久間と坂井しかそれに該当するヤツはいなかったし、選択の余地なんてどこにもなかったんだ。悠長に情報とデータをそろえてから乗り込むなんて夢のまた夢。本部でもどうしようもなかったさ」

「わかってる。該当する二人組がいたことを、幸運だったと思うべきね。いつもながらのことだけど、私たちが違和感なく紛れ込めるようにレコードを改竄できるほたるの手腕に感謝ね」

「ああ」


 首肯して見せたが、十朗の本音は別のところにある。

 ――それは本当に、単なる幸運だったのだろうか?

 十朗には、何かに計られたような偶然と幸運に思えてならなかった。まるで蜘蛛の巣にかかった虫の気分だ。考え過ぎかも知れないが、自分と巡理がここへ入り込むために佐久間と楽が用意されたような、本末転倒な嫌な手触りが、じっと胸の内に残っている。

 十朗は、かすかな眩暈を感じている。ここに着いてからずっと感じている違和感。ざらりとした何かが、呼吸の度に喉の奥へひっかかる感触。オブラートに包まれた嫌悪感にも似た何か。


 その正体は、恐らく――不安だ。


 小さく息を吸い込み、先ほど顔を合わせたばかりの彼らの表情を思いおこす。巡理から視線を外し、わずかに前かがみになる。膝の上で組んでいた指先に目を落とす。

 ここにいる連中は、皆満たされているのだと思う。しかし、それと同時に、何か拭いがたい不安を心のどこかに抱いている。そんな気がするのだ。

 この『唯一の交響楽団』に集められた者たちは皆、あきれるほどに豊かな表情をしていた。明るい眼差しは敬愛する仲間を持った喜びに満ち溢れている。それは彼らが奏でる音に如実に表れていた。ホールに響いていた、あの音たち。音は心を率直に表現する。だからこそ十朗には見えてしまった。

 音には明るさがあった。光が確かに満ちていた。しかし、その光の裏側にかすかに薫ることで、図らずもその存在が強調された。それこそが、冷たく軽やかな仄暗い――不安。だったのだ。

 しかも、それは単純な不安ではない。間もなく訪れるであろう何かを、静かに待ち焦がれているかのような期待に満ちた高揚感。そして、その高揚感の背中にひたりと張り付いた、絶望と後悔とでも言い換えられそうな喪失感。それらを両腕に抱えながら、不可逆な一本道を、立ち止ることも出来ずにただ進むしかないという、選択の余地のない状況に立たされているような、いたたまれなさ。

 そんな不安を、皆が皆、ひっそりと当たり前のように、満たされた笑顔の裏側に抱いている。


 だからこそ、十朗は畏怖をおぼえたのだ。

 不安になっているのは、何もここの連中ばかりではないのだ。


 そっと溜息をかみ殺してから、十朗は鞄の底から大振りな手帳を取り出した。燻し銀のような革地。フラワー・モチーフのシルバーが、その右上隅についている。長く使い込んでいる品で、ボタン綴じ部分の革はすでに草臥くたびれ切っていた。それを、ナイトテーブルの上に置くと、ガラス窓に映る巡理の顔を見た。

 巡理の視線は、ぼんやりと、窓の外に広がる風景を遠く見つめたままだ。

 何を考えているのか、欠片たりとも掴めない。そのことに例えようもなく不安になる。


「メグ?」


 名を呼ぶと、ようやくはっとして十朗のほうへと顔を向けた。怪訝そうに巡理を見ていると、彼女は小さくかぶりをふった。


「なんでもないわ。少し疲れただけよ」

「今日はもう休めばいい。俺はこれから少し館内を回ってみるけど」

「待って」


 制止した巡理の声には、常にない堅さがあった。


「どうした?」


 まっすぐに、巡理の視線が十朗の目を射ぬく。


「万が一、目ぼしいと思う者がいても、その行動と人柄を見るだけにしておいて。いざという時は、真夜中でも構わないから私を呼んで。何があっても決して一人で踏み込まないで」


 十朗は思わず眉間に皺を寄せた。


「踏み込むな? どういうことだ?」


 巡理は十朗から視線を外すと、再び窓の外へ顔を向けた。華奢な肩が大きく、ゆっくりと持ちあがる。そして、ゆっくりと下がる。深く息が吐き出されている。


「――今回は何があっても、〈ドリフター〉をリーディングしないで」


「……え」


 はじめは、その言葉の意味を呑みこむことができなかった。やがてその言葉が言葉として像を結び、意味ある言語として脳に届いた。そこから、その意味を理解するのにまた時間がかかった。


 理解して、十朗は唖然とした。


「リーディングをするな? 本気で言ってるのか?」


 巡理は、ちらとだけ視線を向けたが、すぐに背けると、窓の外へ戻した。


「ええ。本気よ。今回は、私が一人でリーディングとリリースをする。十朗、あんたにはデータ化に集中してもらう」

「メグ」

「絶対に失敗できない。確実に仕事を進めないといけないの。だから……」

「メグ!」


 巡理がびくりと肩を震わせた。

 窓の枠に沿って、十朗の両腕が付けられている。巡理を窓際に追い詰める形で、その華奢な身体を自分の身体で覆いこむ形で、十朗は巡理の背後に立っていた。


「――いくらなんでも、俺のことをナメてるんじゃないか?」


 巡理が顔を俯ける。ほんの一瞬の間に、窓の外はさらに暗く沈んでいる。そこに映る巡理の顔は、小さく強張っていた。


「いくら俺がお前の補佐役だからって、それはあんまりじゃないか? リーディングするなだって?」


 巡理の耳元に唇を寄せる。ふわりと甘い香りが十朗の鼻孔にとどく。巡理の髪の香りだ。くらりと目眩がする。胸の奥がつまる。


「絶対失敗できないなんて当たり前の話だろう。それを敢えて言うのは、俺がリーディングの結果を解釈間違いするかも知れないからか? それとも何か? 直接リーディングした痕跡を残して、こっちの存在を〈ドリフター〉に気取られるようなヘマをやらかしかねないからって? まさか本気で思っていやしないよな?」


 巡理の小さく握りこまれた手が、窓ガラスにつけられる。その上から、十朗の手のひらが包み込む。決して肌に触れることはない。そこから手が動かせないように、ただ囲い込むようにして動きを封じる。


「……やめて。近づかないで」


 震えた声。直接触れてなどいなくても、窓ガラスの振動から、巡理が震えていることがわかる。噛み締めた奥歯が、ぎっと嫌な音を立てる。


「――なあメグ。もう俺たちは終わりだ。決めたのは、お前だ。……俺が、それで何も感じずに納得して大人しく引き下がると思ってたのか?」


 鈍く嫌な音を立てて、窓のガラスがきしんだ。


「お願い。放して」


 心の底から怯えた声が、小さな身体から絞り出される。

 十朗は溜息を吐くと、そっと巡理から離れた。

 こんな声を出させたいわけじゃない。


「――メグ。俺だってお前をおびえさせたいワケじゃない。だけど、もう少し信じてくれてもいいんじゃないか? これが最後の仕事だっていうなら尚更だ。そうだろう?」

「わかってる。信じてないわけじゃないの。でも、今回は私に任せてちょうだい。お願い」


 わずかな時間をおいて、十朗は小さく笑みながら溜息を吐いた。仕方がない。結局自分が彼女の頼みを無碍むげにできないことは知れているのだ。


「わかったよ」


 十朗は、どさりと身体を寝台の上に仰向けに投げ出した。


「お前が言うんだから、何かしら理由があるんだろう。従うよ」


 解放された左手で、解放された右手の手首を強く握りしめていた巡理は、ややあって、そっと細い溜息を吐いた。


「ありがとう」


 巡理は窓辺からようやく離れると、そのまま真っ直ぐにドアへと足を向けた。


「じゃあ、おやすみなさい」


 部屋を出て行こうとする巡理の背中に、思わず声をかけた。


「メグ」

「なによ」

「今夜は、一緒に寝てみるか?」


 寝台の上に寝そべりながら、半ば冗談、半ば本気で誘った。そして、不埒なことを言う自分に、いつものような怒りを向けてくれることを期待していた。ほんの少しでも、いつもの何かを取り戻したかった。

 しかし、巡理は朗らかに笑んで、するりとドアを出て行った。



「もういい加減、ひとりになる覚悟を決めてちょうだい」



 という言葉を残して。


          †


 ひとり寝台の上に転がり、十朗は天井板の木目を見つめる。

 眠れずに過ごす夜など、いくらでもある。これは、そんな夜のひとつに過ぎないのだと自分に言い聞かせながら、ごろりと寝返りを打ち、枕の横に伏せていたスコアを取り上げる。

 ふと顔を上げれば、窓の外にあるのは、満天の星空だった。





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