ドライスはリシェルをディアへ送り出した後、ミーナを外へ運び、柔らかい草の上に寝かせてやった。意識を失っているのに握りしめたまま離さない魔剣を外してやろうと手を伸ばすと、横槍が入った。

「触れない方が身のためです。貴方も魔の気に当てられますよ」

 戦いの最中に姿を眩ませていたロコロタが廃墟の入り口から出てきた。

「恐ろしいことに魔の神器は適合者以外でも使えてしまいます。その代償として、精神を魔に蝕まれ、正常でいられなくなってしまうのです。皇帝ゾギアは死の商人から魔剣ベリアルを授かったものの、魔の気に屈して狂ってしまったのです。魔剣の力を操り切れずに、国中で魔獣が跋扈するようになって、マシティアの民はあらゆる困難に見舞われてしまった。リシェルさんがいなければ、どうにもならなかったでしょうね」

 どうしてそんなことを知っている、とは聞かなかった。リシェルから王城での出来事を聞き、今の戦いにおいてもディルク以上に存在を隠し切ったことから、ほとんどロコロタの正体を突き止めていた。

「魔の神器を無力化できるのは、聖神に選ばれた者のみ。リシェルさんに戻ってきてもらってから、魔剣はどうにかしましょう」

「あいつを待たずとも、お前がやればいいだけだろう」

 ドライスは緊張感を保ってロコロタを睨む。左手は剣の柄に置かれた。

「もう誤魔化し切れないぞ。お前も聖絶士だろうが。大層な竪琴を持っている時点で疑うべきだった。それが神器なのだろう? お前もリシェルの命とアルテナの剣を狙って此処まで着いてきたのか」

 ロコロタは露骨に呆れた顔を見せて首を振った。

「困ったものですね。僕がそんなに悪いことを企む人間だと思いますか? パギンドゥでも先程の戦いでも、窮地からリシェルさんを救ったんですけどね」

「ならば目的を言え。何故、リシェルに纏わりつく?」

「聖絶士ではないから」

 勝ち誇ったような笑みを向けて、ロコロタは言った。馬に乗せた荷物の中から、竪琴を取り出すと、崩れて落ちた石壁の塊に腰を掛けてそれをかき鳴らす。清い音色は穏やかな風に流され、ドライスの耳に届いた。その演奏に口を挟めず、一曲奏でられてしまったために、ドライスは己の敗北を認めなくてはならなくなった。

 弦を爪弾く手を止めて、余韻も消えた後、先に口を開いたのはロコロタだった。

「ドライスさんこそ、目的が分かりませんけどね。どうしてリシェルに固執するのですか? 異国にまで同行し、離れ離れになっても見捨てずに彼女のために暗躍し続けた。その理由が雇われたから、というだけでは腑に落ちませんけど」

 苦しい言い訳をするつもりもなかった。ロコロタに知られたところで、痛くも痒くもない。ただリシェルに知られてしまうことだけは耐えられないが。ロコロタに一抹の不安を覚えつつ、ドライスは晴天の青空に目を向けながら語り出す。

「流儀以外の何物でもない。だが俺の命を救って、その流儀を教えてくれた人が、あいつの命も救っていたようだ。師匠が救った命と出会ってしまった以上、弟子である俺もその命を守り通さなくてはならない。そうでないと、何処ぞでくたばった師匠が浮かばれん。まったく、死人のことなど考えるなと言ったくせに、死人の意志を継ごうとなどとしていたのだからな。都合の良い弁だけは出来るようだ」

 ドライスは青空から視線を下ろすと、笑みを浮かべるロコロタと目が合った。口角を僅かに上げただけの優しい笑みを向けられて、ドライスは目を逸らした。恥ずかしそうなドライスの様子を見て、ロコロタは悪戯っぽい笑みへと変える。

 その後もドライスがロコロタと目を合わせることはなかった。ロコロタを避けるようにして丘の斜面に座り、ディアの町を見下ろす。丘を上がってくる心地よい風を一身に受けて、久しく感じていなかった安らぎを覚える。何かに思いを巡らせる力も奪われていき、抵抗しようという気も起こさず、うとうとと眠りに落ちていった。


 リシェルは十年ぶりに故郷へと帰ってきた。懐かしき故郷は記憶から多少の変化が生じていた。戦いの後が随所に残り、痛々しさが見えたが、それを修復する段階には至っているようだ。あの頃よりも往来が少なくなった大通りを進み、酒場の看板から二つ目の小路に入っていく。短い小路を抜ければ、家屋が立ち並ぶ通りに出る。よく通っていた道を記憶に頼って進み、其処へ辿り着く。

 両脇の家屋の隙間に立てられた小ぢんまりとした家。これほど小さかったかと思ったが、自分も大きく成長していたことを思い出して記憶を修正した。祖母とは喧嘩別れのような最後だった。果たして自分が帰ってきて、祖母は喜んでくれるのだろうか。それとも、生きていたことを嘆いて落胆するだろうか。不安が過る中、リシェルは固く閉じた扉の前に立ち、深呼吸をした後、意を決して扉を叩いた。

 返事はない。もう一度、ゆっくりと叩く。しかし、いくら待っても返ってくる声はなく、扉も開かなかった。

「お前、リシェルか?」

 リシェルは近付いてくる青年に顔を向ける。青年は驚いた様子でリシェルを見ていた。

「そうです。あの、貴方は?」

「本当にリシェルなのか。懐かしいな。ほら、小さい頃、よく遊んだだろ。いやしかしびっくりした。あの時、お前がいなくなっちまって、みんな大騒ぎだったんだぞ。何処に行ってたんだよ」

 幼少を共にした町の子らしいが、覚えがない顔だった。男子というのは成長してしまえば、逞しくなって幼さが消えてしまうから、記憶にある顔と違ってしまうのは仕方ないのだろう。だが、自分を知る人物と出会えたのは僥倖だ。リシェルは彼にこの家の主について尋ねた。

「祖母は出掛けているんですか? 戸を叩いても反応がなくて」

「ああ、婆さんか……」

 青年は視線を逸らして言葉に迷っていた。リシェルは嫌な考えを抱いてしまう前に、青年を問い質した。

「祖母はどうしたんですか。この町にいるんですよね?」

「いや、それがさ、婆さんはもう此処にいないんだ。出ていったんだよ、お前を探すためにさ」

 リシェルは感情が追いつかず、青年の言葉を頭の中で反復させる。そうしている間にも、青年は言葉を続ける。

「ディアでも帝国軍との戦いがあったんだけど、そのちょっと後に、マシティアから出ていこうと決めた連中が出始めた。婆さんもそいつらと一緒に南へ向かったんだ。お前がいなくなってからずっと、ディアに来る行商人やらお役人やら誰彼構わずにリシェルを知らないかって聞いてた。それで全く手掛かりが得られないから、もしかしてマシティアにはいないんじゃないかって思ったらしい。それで、この戦いの混乱に乗じて南の国境を抜けようって連中に加わって、南の国でお前を探すことにしたらしい。あとちょっとお前が帰ってくるのが早かったら、婆さんと会えたんだがな」

 遅れてやってきた感情は、嬉しい、だった。祖母は今までずっと自分のことを想ってくれていたのだ。その事実が嬉しくて堪らず、此処まで我慢し続けていた涙が自然と零れてしまった。

「ああ、泣くなよ。その、あれだ、落ち込む気持ちは分かる。少し落ち着いてから、それからどうするかを考えようぜ」

 リシェルは慌てて涙を拭う。首を横に振りって慰めを断ると、青年に笑みを向けた。

「大丈夫です。祖母の行方を教えてくださり、ありがとうございます」

 そう言って頭を下げた後、踵を返して駆け出した。行き交う人々の間をするりと抜けて、一目散に走る。

 腰帯の中でアルテナの剣が揺れる。それを抑えようともせず、無邪気に喜びを表現する。丘から吹き下ろす風は清く、温もりに満ちていて気持ちが良かった。目に溜まっていた涙が風に流されて、リシェルの走り去った後にぽつりと一滴、落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少女英遊記 氷見山流々 @ryurururu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ