その姿は奇怪で悍ましいですが、けして邪悪ではありません

 現実の日本が人による開発を免れて自然のままに発展したら、というコンセプトで造られた神霊カフェダンジョン『神処かんどころ』の第一層ですが、神御祖神かみみおやかみがそんな神秘のない世界で満足する筈もなく神霊の眷属が堂々と住まう異境でした。この小娘の性格を知る者からすればさして驚くものでもありませんが、安全だと言われて放り込まれた一般人である美登みとからしたら随分と肝が冷えるでしょう。

「アイテムボックスに適応した探索者シーカーは一般人かなぁ?」

 貴女に比べたら大抵の相手は神霊も含めて一般人ですよ、この我儘小娘。

「ひどい! わたしのどこがわがままだって言うの!」

「端から端まで」

灯理とうりまで!」

 良いですね、灯理が間髪入れずに鋭い切り口で小娘に事実を突き付けます。そう、貴女が我儘でない所があるなら現物を見せて欲しいです。そんなものありませんけど。

「あ、猪」

 おや、わたしが鏡に出している美登の映像を見てらんが声を上げました。

 美登の目の前に猪が現れたようです。少し体が大きい個体ですが、これは現実にも存在する普通の猪ですね。

 しかし猪は日本では熊の次に恐れられている野生動物です。猪突猛進とは良く言ったもので、実際に猪は基本的に前進しかしません。なので脅威があるとまず突撃してくるのです。

 猪からすると自分を見下ろして来る人は巨大で恐ろしい生き物に見えています。動物の殆どは四つん這いでありますから、人間が二足歩行で体が立っているだなんて思いもしないのです。

 そして美登を前にした猪も恐怖心に駆られたようで、後ろ足で地面を引っ掻いて突進の準備をしていました。

「ひっ」

 美登が両手で握って提げたままにしていた銃を猪に向けて構えます。勢い任せに引き金を引かずに、目を見開きながらも銃星と銃門を合わせようとしているのですから、美登も一端いっぱしの探索者ですね。

 しかしその僅かな間を狙って空から鋼の光が一閃、流星の如く降って来ました。

 瞬きよりも更に短い刹那に全身の羽毛を刃になっている刃金が上空から降下してきて、猪の首を一刀の元に切断し、ごろりと落ちた頭部に向かって剥き出しの首の中身から血が噴き出しています。

「ひぐっ」

 美登はそれはもう可哀想なくらいに顔を真っ青にしていますが、なんとか足を踏ん張って気絶しないように堪えています。普通のダンジョンだとここで気絶してしまえば美登が襲われるに違いありませんから、彼女はきちんとダンジョンという魔境を生き抜く力が備わっています。

 刃金はそんな健気な美登には目もくれずに、その強靭な足の鉤爪を猪の臀部に食い込ませて、重たそうにふらつきながら飛び去って行きます。ちょうど頭のなくなった首が真下になっていて重力に引かれた血液がどばどばと落ちてその軌道を地面に描いていました。

 わざわざ血抜きをするだなんて、あの刃金はグルメな個体です。美登を助けたようにも見えましたし、何処かで人間でもやっていたのかもしれません。

 呆然と猪の体を持ち去った刃金を見送っていた美登は、力尽きたように首を下げてしまい転がった猪の頭と目が合ってしまいました。

 そこで堰が切れたように美登はへたり込み泣きじゃくります。

「これ、普通にトラウマにならね?」

「しょ、食物連鎖は世の真理ですし……」

 そこの小娘、心の底からそう思っているなら灯理から目を反らさずに堂々と言ったらどうですか。

「ところでさ」

 ふと気付いたとばかりに嵐が灯理の肩を揺すってきます。

「美登ちゃん、一人で行かなきゃいけなかったの? 灯理さんとかあたしとか付いて行った方が良くなかった?」

「……あれ、確かにそうだな」

 美登が迷子にならないようにとランタンを授けた灯理でしたが、そもそも灯理が道案内すれば良かったと言われたらそれまでです。あの場の雰囲気に呑まれてつい神霊らしく振る舞ってしまったのですね。

 強大な力を持つ神霊が人間と気軽に関わると混乱が起きる、と灯理の常識からすると考えてしまいがちですが、そもそもこのダンジョンに限っては神霊がモンスターやスタッフとして人と関わってしまっているので今更です。

「まじかよ……」

 全てを理解した灯理が自分の失敗に項垂れています。

「てか、なんだったら美登に行かせずに俺が取って来た方が速かったまであるんじゃないか?」

 そこまで言い出すとそもそもそこの小娘がケチらずに、そして適切に、回復ポーションの一つも振る舞えば良いだけの話になってしまいますね。

「あ、美登は行かなきゃダメだよ。陀輪天ダリンテンにはファンの感激の声が必要なんだから」

「ああ、そんな設定もあったな……」

 そもそもそこの小娘が回復ポーションの一つも振る舞えばいいのですけれどね。無視しているじゃありませんよ、こら。

「ま、そもそも野生動物の密度とかそんなに高くないし、もう今日は出くわさないでしょ。猪出て来たのすら驚いたわ」

「確かに山を歩いてても、動物に会えるなんてあんまりないしねぇ」

 嵐、そこの小娘に同意なんてしなくていいのですよ、付け上がるのですから。

 それに現実の野生動物の密度と第一層のそれが同じ程度かどうかは分かりませんよね。人間の開発が行われなかったという事は、動物への狩猟圧が一度も掛かっていないのですから。

「いやいや、人間以外にも捕食者いるからちゃんとそんな爆発的な繁殖とかしてないって。本当に。天真璽加賀美あめのましるしのかがみだったらすぐ分かるでしょ、そういうこと」

 それは勿論、歩けば遭遇する程に多くはありませんが、やはり個体数も多ければそれぞれの行動範囲も広いですよ。今日はもう遭遇しない、と断言するのは早計です。

 檸黄陀輪天レイオウダリンテンのいる場所までそう遠くないというのがせめてもの救いでしょうか。

「ん? なんだかんだ言ってあと少しなのか?」

 はい、そうですよ、灯理。もう二キロメートル圏内に入っています。

 さっきも魔蜂が美登に近寄って地面に落ちた涙を吸って行きましたから、もうすぐモンスターハニーの彼女が来るのではないでしょうか。

『なにこんなとこで泣いてんの?』

 言っているそばから美登のいる森に蜜園みおんの声が反響しましたね。

 美登もやっと出会えた声に喜色を混ぜて、相手の気配を探って森の梢を見上げました。その途中で美登自身もどうして見上げなくてはならないのかと気付き顔を強張らせます。そもそも普通の人間が声を反響させている時点で可笑しいのです。

 それは巨大な蜂蜜の集合体でした。液体であるのを最大限に利用して木々の合間を流れ込み、体積を使って進行距離を稼いで急いで此処まで来たのでしょう。

 森の一角を押し潰してしまいそうなその蜂蜜の体積は、探索者なら巨大なスライムを連想したかもしれません。

『どうしたの? なんか怖いやつにも会った? だいじょうぶ?』

 蜜園は気遣わしげな声を反響させて、モンスターハニーの文字通り『化け物の蜂蜜』の先端をにゅっと伸ばして美登に近付けてました。

 このダンジョンに来て一番奇怪な姿をした存在を目の当たりにして美登が今度こそ気絶してしまったのは、無理なからぬものだったと思います。

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