第6話 わし、今どうなっとるのじゃ?
逃げたついでに用を足し終え、流離王はゲンナリとしながら厠を出た。
「うぅ……。初めてのはずなのに、何なのじゃ。この、身に染みついている感覚は……」
この世界で目を覚ました時から、感じ続けていた違和感。それは、知らない行動のはずなのに、何故か身体が覚えているというもの。
例えば、食事の時。2本の棒を使って、食事を運んだこと。
「学校に行け」と言われ、何故かたどり着けてしまったこと。
先ほども、女体での排せつ……しかも初めて見た形式の厠で、用を足せてしまった。知識がないのに出来てしまうのは、気味悪いことこの上ない。
「……好苦に相談するか」
そう呟くと、流離王は好苦の部屋へと戻っていった。
「──たしかに、再会した時から、少々違和感を覚えておりました」
流離王の相談を受けて、好苦が言った。
「王は、この国の言語や、日常の所作は理解しておられるのですね」
「うむ。全く、気味悪くて仕方ないわい」
好苦は、少し考える素振りを見せた。程なくして、答えが出たのか、控えめに口を開いた。
「おそらくですが……。その女子の身体に、王の魂が入り込んでしまったのだと思われます」
「随分とまた、突拍子のないことを申すのだな」
「いいえ。この推測には、明確な根拠があります。王は、知らないはずの言語や習慣を、問題なく扱われておりますね。それは、器である少女の中に、知識として備わっているから……ではないでしょうか?」
「ううむ……」
説得力のある根拠に、流離王は反論できず、唸った。
「それにもう一点。器の少女は、たった昨日まで、湖中瑠璃という問題児でした」
「教室に入るなり、そう呼ばれたな。なるほど、わしの今の姿の名が、湖中瑠璃という訳か」
「ええ。王がいらっしゃる前は、たしかに一個人として存在しておりました。これが、魂の憑依でないのなら、何と申すのでしょう」
流離王の頭に、ある疑念がよぎる。好苦の言う通り、流離王の魂が、湖中瑠璃の体に入り込んでいるというのなら――体の持ち主たる彼女は、何処へ行ってしまったというのか。
考えれば考えるほど、分からない。どういう原理で、この姿になっているのか。謎は深まるばかりだった。
「お悩みになる必要はありません。これは王にとって、幸運なことなのですよ」
好苦が言った。
「幸運じゃと?」
「ええ。習得するのが最も困難な事項を、苦労して学ばなくて済むのですから。全く違う言語・文化に慣れるのは、気が遠くなるほど大変なことです」
そう言うと、好苦は流離王の手に己の手を重ねた。
「ですから、その娘の体に、生活習慣が刻み込まれていたのは、幸運なことだと存じます」
にこやかな笑顔。しかし、有無を言わさぬ威圧を孕んだ顔。容姿は変わっていても、その恐ろしさは、前の世界から変わらない。
流離王は、彼のこの笑顔が苦手だった。
「そう、か……」
思考を放棄し、言葉を受け入れる。すると、好苦は満足げに頷いた。
「──勉強の続きを致しましょう。たしか王は、物の名称や概要が、全くの未知でしたね」
「うむ。これが分からず、不便でな……」
仕切り直し、王と臣下は勉強を再開した。
そうしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。
「王は素晴らしいです。呑み込みがお早い」
「うむ。やはり、好苦の教え方がうまいのう」
「有り難きお言葉」
ふと、好苦が窓の外に目を向けた。日が傾いてきており、辺りはオレンジ色に包まれつつあった。
「夕暮れ時ですか。そろそろお開きに致しましょう」
「もう、そのような時間か。時が経つのは早いのう」
そう言って、流離王は立ち上がった。好苦も、すぐさま立ち上がり、「ご案内します」と先んじた。
臣下の行為を受け入れ、流離王は大きな背中の後を追った。
(まったく、不思議なものじゃな。前の世では、隣に立っていた好苦を、見上げることになるとは)
好苦の後ろを歩きながら、流離王はそんなことを考えていた。そして、間もなく玄関へ到着した。
「それでは、また明日。家の前まで、お迎えに上がります」
「よろしく頼む。ではまた明日」
別れの挨拶を告げ、好苦の家を後にする。扉の先には、今朝見たものと同じ風景が広がっていた。
だが、同じはずの景色が、全く違って見える。時刻が違うせいもあるだろうが、明らかに――。
「電柱。電線。ごみ収集所。家。道路――」
実物と照らし合わせながら、教わった名称を口に出す。「知っている」というのは、こんなにも円滑に情報を受け入れられるのか。感動を覚えながら、流離王はしばしの間、外の世界を堪能した。
「綺麗な空じゃな……」
夕暮れの空を見上げ、流離王は呟く。大きく息を吸い、身体を伸ばす。前の世界と違い、少し肌寒さを感じたが、それすらも心地よかった。
「よし。明日から、頑張るとするか」
流離王は、自分の家へと入って行った。
「あれぇ? どちらさんかね?」
「――あ」
……間違えて、隣のおばあさんの家に入ってしまったようだ。彼女が日本に慣れるには、まだ時間がかかりそうである。
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