第四話(完結)

 薄暗い部屋で、少年はぼんやりとベッドに横たわっていた。天井に向けられた目は何も見ず、ひたすらに過去の記憶を追っていた。脳裏に浮かぶのは洞窟の中で出会った美しく悲しい生を失った人の姿と、彼を無慈悲に閉じ込めた土砂の光景だった。

 少年はベッドサイドの引き出しから青年の櫛を取り出すと、顔の上に掲げた。つややかに磨かれた表面が微かな光を受けて鈍く輝いている。

 あの人は、こうなることを予感していたのだろうか。

 精緻な花彫りを親指でなぞり、少年は青年との最後の会話に思いを馳せた。自分が二度とあそこから出られなくなることを、闇の中に閉じ込められることを。彼は知っていたのだろうか。だから、これを託したのだろうか。

 いや、閉じ込められただけではないのかもしれない。あの土砂が塞いだのは洞窟の入り口のみとは限らない。もしかしたら彼は冷たい土と砂に埋められたまま、ずっとあそこに居続けるのかもしれない。

 少年の全身に寒気が走った。力の抜けた手が櫛を取り落とす。あまりに恐ろしい可能性に胸が張り裂けそうになり、震える手を伸ばして櫛にすがりつく。

 失いたくないと、大切なものだと渡されたもの。あの人が本当に生きた短い時間の証。それを表したかのように、櫛はあの茶によく似た鼈甲色だ。彼の色だ。

 これを贈った人も、同じことを考えたのだろうか。

 少年は顔も名前も知らない人間について考える。青年が愛し愛された人。共に暮らし傍らに寄り添い、青年の命を蘇らせた人。身分を隠してこの村にやってきた、探偵のことを。


 探偵。たん、てい。


 知っている。この四文字を、知っている。

 少年はがばりと飛び起きた。心臓が激しく鳴る。全身に血が巡る。血は脳を動かし思考を加速させ、やがて一つの答えを導き出した。

 ポケットに櫛をしまうと、彼は傘も差さずに家を飛び出した。母親の咎める声を背中に受けても、止まることなくがむしゃらに走り出す。

 大雨の不穏さを孕んだ空気。水の匂い。雨に冷やされたアスファルト沿いの向日葵の横を通って、山の麓の階段を一段飛ばしで登っていく。やがてたどり着いた神社に彼は一瞥もくれず裏手に回った。迷うことなく禁域に足を踏み入れる。山とは反対側の、左の道へ。

 本当のかみさまがいる場所へ。

 古い石畳の上を駆けながら、少年は前の祭りの時に祖父母や老人達から聞かされた話を思い出していた。神社の奥にいる真の神の話を。

 遥か昔、国がたくさんあった神社をまとめるようお触れを出した。その時にこの村の神様が調べられそうになったが、村の中だけの秘密の神様であったため外の人間には隠さなければいけなかった。だから別の神様を、よく似ている「遠くから来る神様」を祭った神社を作り、普段はそちらを拝むことにしたのだと。

 少年は足を止めた。深い森の中、道の突き当たりに小さな石造りの祠が立っていた。この中に、本当の神がいるのだ。戸には鍵はない。ただ貼られた一枚の札だけが祠を封じている。村の人々は信心深く、年に二度の祭り以外はここに近づこうともしない。神の姿を見ようとすることはない。

 彼は祠の前にしゃがみこみ、札に指を伸ばした。雨に濡れた札はあっさりと破れて封印を解き放つ。一度大きく深呼吸をすると、少年はきっと前を向いて扉を開いた。




 中には、髑髏があった。




 古びて黄ばんだ、それでも定期的に手入れをされていることがわかる綺麗な髑髏だった。少年の頭よりも二回りは大きい、成人男性のものであろう髑髏だった。

 祠の奥には文字を墨で書きつけた木札が何枚か並べられている。少年はそれらを眺めながら、聞かされた神の由来を記憶から呼び起こした。

 この村の神は、ソトから来た人間なのだ。

 外から来た人間を村人達は心をこめてもてなす。そして彼らが村を気に入ってくれたら、神になって「もらう」のだ。まず“ぶす”の花を漬けた御神酒を飲ませ、魂を先に神にする。その後遺された肉体を丁寧に祭り、土に埋めて穢れを落とす。最後に頭蓋骨を掘り出して御神体にするのだ。

 神は新しい人が、神になれると思われた人が来る度に新しく作られる。前の神の御神体は土に還して、その名だけを伝えていく。少年も数代前までの名前は覚えていた。おぼうさま、しょうにんさま、おんぞうしさま。今の神には二つの名前があった。がくしゃさまと、そして、たんていさま。

『神様になってくださったのはたんていさまが最後でなあ。だから長く、守っていただいているんじゃよ』

 この話をしてくれた村長の残念そうな声を思い出す。もしもそれが真実ならば。ここにいる神様は、神になった人の正体は。

少年は祠の前に屈むとポケットから櫛を取り出した。そのまま髑髏の前に置こうとして、手を止める。少し考えた後、彼は櫛を髑髏に立てかけることにした。二つがずっと寄り添っていられるように。

 扉を閉めて立ち上がると、少年は祠に向かって二度礼をした。手を打つ音が二回、雨音に負けじと森に響く。最後にまた礼をすると、踵を返して走った。ますます強まる雨が少年を打つ。頬にぼろぼろと水滴が流れる。神社を抜け山を降りても、彼はずっと心の中で祈り続けていた。


 どうか、死んでいるあの人のことも、迎えに来てくれますように。

 彼がもう一度、好きな人に会えますように。






 夜にかけて雨は強まり、ついに少年の住む村には避難指示が出された。隣町の公民館、馴染みのない場所で大人たちの不安そうな囁きを聞きながら眠ったせいか、少年は妙な夢を見た。この世のものとは思えない、幻想的な夢だった。






 少年は青空の下に立っていた。足元に伸びる小道の両側には桜の木が何本も生えており、春風が吹く度に薄紅色の花びらをとめどなく降らせている。それを受ける地面にもみっしりと花が咲いていた。菜の花。蓮華草。竜胆。百日草。水仙。露草。チューリップ。季節も映える場所もバラバラのはずの花達が、共に咲き乱れて陽の光をいきいきと浴びている。

 あたたかで、不思議で、穏やかな空間。少年はうっとりと周りを見回しながら、柔らかい土を踏んで前に進んでいく。やがて道の先に黒と白が見えた。彼は思わず息を飲む。色彩の中に浮かび上がっているのは、あの青年だった。

 初めて日の下で、明るい場所で見た彼はいつもよりずっと弱々しく見えた。肌も唇も蒼白く、纏っている着物も死装束のようだった。彼が自分を死人だと例えたのは確かだったのだな、と少年は納得した。青年はこちらを向いて手を振っていた。白い手が、花が風に揺れるようにひらひらと動いている。ふわりと笑う顔をまた見られたことが嬉しくて、少年は声を上げ駆け寄ろうとしたが――できなかった。

 桜の木の陰から、人が出てきたからだ。

 見たことのない男性だった。背はすらりと高く、がっしりとした体は昔風の焦茶色のスーツに包まれている。顔は口元以外は深く被った帽子に隠れて見えなかった。彼はしっかりとした足取りで青年へと歩いていく。

 少年が急に立ち止まったことに青年は首を傾げた。すぐに視線がそれているのに気づいて、何があるのかとその方向へと目を向けた。茶色の瞳が、側に立つ人を捉える。

 青年の動きが止まる。信じられないものを見ているように、目が大きく見開かれる。彼はしばらく瞬きもせずに固まっていたが、やがて全てを理解したのか、小さく何かを呟いた。白い頬をすうと水滴が伝う。

 男はもう一歩近づいて、青年に寄り添った。優しく微笑んでいた口が動いて、先程の呟きに返事をする。大きな手で頬に触れ、親指が優しく流れる涙を拭う。彼の体から何か白いものが浮かび上がり、手を通じて青年に流れ込んだ。その瞬間、ぶわりと風が吹き。

 青年に、色が咲いた。

 蒼白の肌に血が通い、みずみずしく透き通った白さに変わる。頬と唇は舞い上がる花びらと同じ桜色に染まり、青年のかんばせに華を添えた。黒髪には艶が増し、日光を受けてまばゆく輝く。瞬きをする間に着物さえも若葉色へと変わっていた。

 色を取り戻した青年は泣きながら愛しい人に微笑んでいた。爛漫と咲き誇る花々にも負けない、生気に満ちた笑顔だった。

 ああ。あれが本当の彼なのか。

 まなじりを紅く染めて恋人の胸にすがりつく青年を見ながら、少年もぼろぼろと泣いていた。悲しみからでも、悔しさからでもない。自分の大好きな青年が愛する人に会えたことの、永遠の死から解き放たれたことへの、喜びの涙だった。

 男は青年から身を離して少年へと向き直った。帽子が取られ顔が露わになる。彫りが深く、鼻筋のすっと通った端正な顔立ちに優しい目をした、青年の言った通りの凛々しい人だった。彼は両目に涙をにじませて笑うと、帽子を胸に当て少年に礼をした。ただの子供に丁寧に、深々と頭を下げた。青年もそれに倣って礼をしているのが見えた。

 頭を上げた二人は軽く手を振ると、後ろを向いて道の先へと歩き出した。右手と左手が自然に絡みあう。ずっとこうしたかったというように。あたたかな日光を浴びて桜の舞い散る中を進んでいく背中に、少年は力いっぱい手を振った。涙はすでに止まっている。晴れ晴れとした気持ちで、彼は遠ざかる二人の道行きを祝福していた。

 風に揺れる花達が、春のやさしさですべてを見守っていた。






 次の日。避難指示が解除され、村に帰ってきた村人達は驚愕した。村の信仰を集める山の神社が、土砂に飲み込まれていたのだ。

 現場検証をした役場の職員は、かねてからの悪天候で地盤が緩んでいたところに今回の豪雨がとどめを刺したのだろうと結論づけた。そして村人達、特に村長をはじめとした老人達が中心になり、神社の再建のために動き出した。

 だが、作業が進むにつれ、二つの奇妙な事実が判明した。

 一つ目は、神社の敷地を埋め尽くし本殿を倒壊させるほどの激しい土砂崩れだったのにも関わらず、鳥居の外には一切の被害がなく、砂粒の一つも漏れていなかったこと。

 二つ目は、神社の奥にある祠が跡形もなく消え失せていたことだった。祠の欠片も、中の御神体も。誰かが供えたはずの櫛も。すべてが見つからなかった。






 背の高い青年――成長した少年は、長い祈りと追憶を終えて目を開けた。眼前には十五年前に造られた新しい神社の社殿がある。あの災害の後、村人達の尽力もあってすぐに神社は再建された。当然に奥の社も再建されたのだが、御神体の損失が影響したのか急激に信仰は廃れていき、今ではすっかり表の祭神へと信仰が移っていた。

 彼は社殿から離れ、温い空気の中を歩く。再建の際に植えられた桜が、ひらりひらりと花びらを舞わせている。ちょうど先程までまぶたに浮かんでいた夢のようだ。

 あの夢が事実であったのか彼にはわからない。自分の頭が作り出した、都合のよい幻なのかもしれない。それでも彼はあれが真実だと信じていた。初めて恋した人が再び想い人に会えたのだと、幸せな終わりを迎えたのだと思いたかった。

 青年は境内の隅に足を進め、木陰に置かれたベンチに座る人影に手を上げた。ぴょこんと立ち上がりこちらにやってくる彼女は、彼が最も愛している人だった。

「お参りもういいの?」

「うん。待たせてごめんね」

 へーきへーきと笑顔で答える彼女の髪は、ふわふわとした栗色をしていた。あの人とは全く似ていないが、今はこの髪が世界で一番いとおしい。

「じゃ、行こっか。お母さん待ってるよ」

 たくさんおみやげ買ったんだ。楽しそうに話す横顔が可愛らしくて、彼は思わずその手を取っていた。目をぱちくりさせた彼女は照れくさそうに笑って、彼の手を握り返してくれた。

 柔らかい春風と満開の桜の下、うららかな春の陽を浴びて、愛し合う二人は肩を寄せゆっくりと歩いていく。かつてここで、この村で。共に生きた二人のように。

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君のいのちに花が咲く。 マフィン @mffncider

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