第三話

 八月になった。少年は一人田の中の道を歩いていた。雨と曇りが続く空模様や道端で萎れた向日葵は、まるで彼のもやもやとした心を表しているようだった。

 青年の過去を聞いた日から、少年は彼の元を訪れていなかった。彼が人ならざるものであることに恐怖したわけではない。むしろ異常として拒否される可能性もあるのに、自分のことを嘘偽りなく話してくれたことに感謝すらしていた。なのに、あの洞窟に足を運べなくなった理由は。

 青年に、愛する人がいたという事実だった。

 相手が男だということは関係なかった。綺麗で儚く、何より優しいあの人が一途に想う人がいる。今でも胸の中に残り続ける人がいる。その事実が少年の心を強く叩きのめしていた。

 過去を滔々と語る青年の姿を思い出す。出会いを回想する時の、どこか遠くを見つめる瞳。手元の櫛を愛おしげに撫でる指先。別れの悲しみを絞り出す合間に小さく震える肩。そして、共にいた時間を話す時の、幸せそうにほころぶ唇。

 全てが鮮やかだった。死んでいると自分を称したモノクロの人が、愛している人を語るときだけは色づいて見えた。これまでに見てきた彼の姿の中で一番、美しく見えた。

 少年の中で、家族とも友人とも違う不思議な場所に座っている人。大切で大事で、想うだけで幸せになれる人。その彼にあんな顔をさせる人間がいることが苦しかった。つらかった。少年は青年の姿をまぶたの裏に思い浮かべた。心がじわりと暖かくなる。心臓をえぐられる痛みが走る。相反した感情で胸が引き裂かれる。息ができなくなる。

 この気持ちを抱えたまま青年に会うのが怖かった。今までと変わらず話をできる自信がなかった。だから逃げ出して、彼に向き合うことをやめてしまった。

(でも)

 少年の目に、鬱蒼とした森と階段が映った。神社と、そして青年のいる山へと続く階段が。

 楽な道を選んだ結果、少年の心には別の苦しみがのしかかり始めた。いつも親身になって話を聞いてくれたあの人から、何の挨拶もなく離れる。不義理をしている後ろめたさがまとわりつき、心を更に沈ませていった。

 せめて、もう一度だけは会いに行こう。自分がどうなるかわからなくとも、彼と顔を合わせて話して笑顔を見て、これからどうするかを決めよう。何日も悩んでひとまず結論を出し、少年は重い腰を上げて青年の山へと向かっていた。足を進める度に胸が高鳴り緊張で手が湿る。会いたい。会いたくない。こんな複雑な気持ちで山に入るのは初めてだった。

 階段まであと数メートルというところで、少年は違和感を覚えた。見慣れた景色に、見慣れないものがある。新品の高級そうな自転車だ。階段脇のスペースに数台並べて停められている。村でこんなものに乗っている人は見たことはないし、よく遊びに来る友人達も新しい自転車を買ったとは言っていなかった。持ち主はどこの誰で、どうしてここに来たのだろう。

 戸惑いながら自転車に近づいたその瞬間、頭上から悲鳴が響いた。

 彼はばっと顔を上げた。数人の子供がほとんど転がり落ちるようにして階段を降りてくる。ずっと叫んでいたらしく、声はガラガラにかすれていた。彼らはついに足をもつれさせて滑り落ちた。人間の体が地面にぶつかる嫌な音がし、擦った手足にはみるみるうちに血がにじむ。

 見るからに痛々しい怪我にも彼らの表情は変わらない。引きつった顔面はくしゃくしゃになり、恐怖が深く刻まれている。一人が震えながらこちらを向いた。かつて自分をいじめていた少年達のリーダー格の少年だった。一体何があったのだろう。少年が声をかけようとした時、彼はうめいて口を開いた。

「おばけ、おばけが。やまの、あなのなかに」

 そこまで言ったところで彼の中で恐れが蘇ったらしい。意味をなさない叫びを上げて少年を突き飛ばすと、自転車に飛びついて村の中心部への道に走っていった。取り巻き達もそれに続いていく。

 少年はあぜんとして、尻もちをついたまま固まっていた。聞いた言葉が頭の中に何度も響く。山の穴の中に、お化け。その意味を頭が理解した時、彼は弾かれたように立ち上がり階段を駆け登っていた。

 神社の裏の右側、いつもの道に飛び込む。自分以外は誰も通らないはずの細い道は踏み荒らされて開けている。村の外から来た彼らは知らなかったのだ。ここは立ち入ってはならない山だと。だから侵入して誰かが付けた道標を見つけて、奥に進んでいったのだ。

 何度も転び、滑り、泥だらけになりつつも少年は洞窟へとたどり着いた。岩の地面には足跡がいくつも残っている。彼も中へと飛び込んだ。嫌な想像が次々と浮かび、走る体にまとわりついてくる。弱く光が漏れる角を曲がれば、鉄格子の向こうには青年が座っていた。普段とは違う様子で。

 ただでさえ白い顔はさらに蒼白になり、瞳は宙を凝視しているが、何も映してはいない。膝の上に置かれた手はまるで誰かにすがるよう強く櫛を握りしめていた。今にもかき消えてしまいそうな姿だった。

「お兄ちゃん!」

 たまらず少年は鉄格子を掴んで叫んだ。青年はびくりと体をすくませてこちらを見る。凍りついていた表情が、少年を認めて少しほどけた。

「君か。しばらく来なかったから心配してたんだよ」

 大丈夫だったか、何もなかったか。ぎこちなくだが、それでも笑みを作って自分を心配してくれる青年に、忘れかけていた罪悪感が蘇った。だが今はそれに囚われている場合ではない。彼は息を整える暇も惜しんで聞いた。

「大丈夫。それより、お兄ちゃん。ここに、人が」

 青年の表情が再び強ばった。目から光が消え、唇を噛みしめてうつむく。悲痛な姿にどんな言葉をかければいいのかわからず、少年は黙り込んだ。重苦しい沈黙が洞窟を満たす。たった数分ほどの時間が数年にも感じた。

「……ねえ」

 やがて青年が顔を上げた。表情は固いままだったが、先程までの弱々しさはもうない。強い決意を孕んだ茶色が、少年をまっすぐ捉えている。

「今から僕が言うことを聞いてくれるかな」

 真摯な声で発された言葉に、少年は一も二もなくうなずいた。それを見た青年は息を深く吸い、ゆっくりと言い聞かせるように話し出す。

「君はもうここに来ちゃいけない。いや多分、来られなくなってしまうだろう。そうならなくても、来てはいけない」

 別れを告げられた衝撃に、今度は少年が凍りつく番だった。気持ちに整理がつかないなどという身勝手な理由で彼を避けていた自分に、そう思う資格がないのはわかっている。けれども、実際に別れが来るのは嫌だった。もっと彼と話したい。会いに来たい。離れたくない。ぐちゃぐちゃに混ざった感情は、やがて涙声になりあふれ出す。

「やだ、お兄ちゃんに会えなくなるのやだよ! 俺ずっと黙ってるから、誰にも言わないから、だから」

「駄目だよ。僕も寂しい。でも僕に会っていたことがわかったら、君はきっと大変な目に合う。僕はそれが、一番嫌だ」

 少年ははっとした。最後の一言を告げた声の色を自分は知っている。初めて出会った時、苦しみに押しつぶされそうだった自分にかけてくれたものと同じ響き。少年の耳から生涯離れないだろう、大事な声。

 だからうなずくしかなかった。青年が心から自分を心配しているのを理解してしまったから。

 少年の頬を熱いものが流れた。叫び出したいのを、あの日のように泣きわめきたいのを唇を引き結んでこらえ、何度も首を縦に振る。

「ありがとう……。ごめん、本当にごめんね」

 まつ毛を伏せながら悲しげにつぶやく青年に、少年は今度は首を横に振ってみせた。説得力はないに等しいだろうが、少しでも彼を安心させたかった。

「体には気をつけてね。家族と友達を大事にね。何かあったらすぐみんなに相談するんだよ」 

 元気で、幸せでいてね。鉄格子の隙間から差し出された細い手を握る。以前と同じ冷たい手が柔らかく己の手を包み込んだ。少年はこの感触を、一生忘れないだろうと思った。

「お兄ちゃん、ずっと話聞いてくれてありがとう。楽しかったし、うれしかった」

 少年は震える喉からやっと言葉を押し出した。空いた左腕でごしごしと顔を拭い、青年を見つめる。自分に向けられた茶色の目がわずかに潤んでいることに気づいて、また視界がぼやけた。後ろ髪を惹かれる思いで指を解こうとした時、急に青年の指に力がこもった。彼の視線が揺れる。明らかに何かを迷っている。たっぷりと逡巡した後、彼は小さく口を開いた。

「ごめん。本当に勝手だってわかってる。けど、君にしか頼めないから」

 これを持っていってほしい。青年の左手が何かを差し出した。少年は反射的に受け取ると、それをまじまじと眺める。すべすべとした手触り。鼈甲色の木でできた半月の形のもの。上半分の持ち手には細かい花の彫物が施されている。青年が髪を梳いていた、恋人から贈られたという櫛だった。

「いいの。これ、大切なんじゃ」

「うん、いいんだ」

 戸惑う少年を肯定して、青年は櫛に目をやった。視線が名残惜しげに、櫛を撫でる。


「大切なものだから、なくなってほしくないんだ」


 唇からこぼれおちたのは、愛おしさと切なさに彩られた鮮やかな言葉だった。生きているものの言葉だった。

 少年は握った手をほどくと、櫛をポケットにしまった。青年の瞳をしっかりと見すえて、また首を縦に振る。引き受けたと、思い出をきちんと預かると伝えるために。彼の強い眼差しを受けた青年はほっとしたのか、少しだけ肩の力を抜いた。

「ありがとう。君は本当に、優しい子だね。さあ、行くんだ」

 促す彼に手を振って少年は出口へと歩き出す。最後に一度だけ曲がり角で振り向けば、青年はこちらに手を振って笑っていた。

 少年の大好きな、優しい、やさしい笑顔だった。






 その日の夜、少年は天を割る轟音に起こされた。

 これまで聞いたことのない、まるで何かが爆発したような音にいいようのない不安を覚えて、居間に降りるとちょうど父親が受話器を置くところだった。少年に気づいた彼は山に雷が落ちたらしいと村長から電話が来たと話し、大丈夫だよと少年の頭を撫でて寝るよう言った。少年もそれにしたがってベッドに入り直した。やがて雨が降り、屋根を静かに叩き始めた。

 雷はその後一度も鳴ることはなかった。






 夜が明けた。外はしとしとと雨が降り続いている。天気予報は夜には豪雨になる可能性が高いと伝えていた。昨夜の雷のこともあり、村には朝だというのに張り詰めた空気が漂っている。その中を傘で身を隠すようにして、少年は山へと向かっていた。

 昨日の今日で約束を破ることへの申し訳なさはあった。だがそれ以上に、青年の安否が気がかりだった。昨日の一度きりの雷が悪い予兆に思えて、彼の小さな胸を騒がせている。

(会わなきゃいいんだ。洞窟の入り口だけ見て、なんともないことだけ確認するならきっと大丈夫だ)

 少年は山の中を進んでいった。何故か普段よりも道が歩きやすい気がした。水溜まりで靴を濡らしながら斜面までたどり着く。ここまでは道以外に目立った異常はない。彼はほっと息をついて枝折れの木を曲がった。もうすぐ洞窟の入り口が、見えて――

 少年は足を止めた。手から傘が落ちて地面に転がる。濡れた地面に膝をつく。全身を水滴が叩くのも構わず、彼はその場に立ち尽くしていた。

 洞窟が、なくなっていた。

 山肌が崩れて流れた土が入り口を埋め立てている。これではもう中に入ることも、出ることもできない。

 呆然とする少年は気づかなかった。土砂崩れが起きているのは洞窟の上の一部分だけだということに。まるで何者かが、意図的に崩したように。

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