第二話

 どこから話せばいいのかな。

 僕には恋人がいたんだ。どんな人だったかって? 素敵な人だったよ。おしゃべりではなかったし感情表現も不器用だったけど、誠実で人一倍優しい人だった。甘いものが好きで、こっそり金平糖を持ち歩いてて食べたりする可愛いところもあったよ。あと、うぬぼれてるのかもしれないけど……僕のことを誰よりも大事にしてくれた。

 見た目? かっこよかったなあ。鼻筋がすっと通った凛々しい顔で、上背もあってしっかりした体つきの人だった。初めて会った時に着てた、三つ揃いの背広がよく似合ってた。

 ……うん、そう。男の人だったんだ。だから村の人には隠れてこっそりと付きあってた。やっぱり変な目で見られるからね。

 彼は村の外から来た人だった。自分は植物学者で、この地域の植物の分布を調査したい。だから滞在させてもらえないか。そう言って隣町の町長からの紹介状を持ってきた。うちの村は昔からお客さんを歓迎してたから大喜びで迎えて……え、今もそうなのかい? 変わってないんだね、なんだか不思議な気持ちだよ。

 で、僕の家に住むことになったんだ。僕の家は広くて、あと僕しか住んでなかったから、お客さんが来る時は大体僕の家に泊まってもらうことになってたんだ。僕の仕事のひとつだったしね。ああ、僕はちょっと体が弱くて畑仕事とか山の仕事はできなかったんだ。ただ読み書きとか紙の仕事は得意な方だったから、村の人の代わりにそれをやって暮らしてた。

 食事の準備とか掃除とかは近所の奥さんとかがやってくれたから、僕は主にその人が暮らすのに必要なものを準備したり、会いたいって人がいたら紹介したり、話相手になったり……まあいろいろなことをしてた。だから彼とは、一番近い村の人間だったんだ。

 彼は他の人達にも好かれてたよ。村で人手が必要になったら積極的に手伝いをしてた。親切だったんだ。最初はみんなお客さんにそんなことさせられないって恐縮してたけどそのうち慣れて、身内みたいな扱いをされてたなあ。

 もちろん僕にもそうしてくれてた。一緒に住み始めてしばらくの間は話をしててもなんだか途切れがちで、お互いぎこちなかったんだけど、僕が病弱だって話したら力仕事とかをさせてほしいって言ってくれて、それからだんだん打ち解けていったんだ。

 どこが好きになったか、かあ。まず、彼の話してくれる村の外の町や都会の話が好きになった。次に彼の、聞いてるだけで落ち着く低い声が好きになった。話している時に向けてくれる笑顔が好きになった。僕のとまったく違う大きい手が好きになった。そして気がついたら、彼の全部が大好きになってた。

 だから、彼が僕と同じ気持ちだって知った時はびっくりして……ものすごく、嬉しかった。『あなたが好きだ。側にいさせてほしい』って言ってくれた時の彼の真っ赤な顔と、あたたかい手のひらの温度は今も覚えてる。多分この先もずっと、忘れないと思う。

 想いが通じてから彼は、僕のどこが好きだとかいろんなことを言ってくれた。目の色とか笑い声とか書いた字とかたわいないことも言われて、少し恥ずかしかった。けど同じぐらい嬉しかった。この髪も昔は肩ぐらいまでだったんだけど、彼が綺麗だってほめてくれたから伸ばし始めたんだ。

 そうしたら彼はこの櫛をくれた。母の形見だけど、もしよければあなたに使ってほしい。その方が母も喜ぶだろうからってね。大事なものをもらうのは少し申し訳なかったけど、結局嬉しい方が勝って受け取ってしまった。だから今もずっとこれで髪を梳かしてるんだ。

 ああ、あと花もよくくれたなあ。植物に詳しかったから、出かけて帰ってくる度にいろんな花を僕に持って帰ってきてくれた。おかげで家の中もあちこち色が増えて華やかになった。

 いや、家だけじゃないか。彼と出会って、僕の世界にまた色がついたんだ。

 さっき話したけど、僕は一人で暮らしてた。十歳の頃に、家族を流行り病で亡くしてしまったから。厳しかったけど優しい父さんも、いつも元気で笑顔だった母さんも、やんちゃな弟も生まれたばかりの妹も、全員あっという間にいなくなってしまった。僕だけが生き残った。

 みんないなくなった家は静かで、何を見ても霞んで見えた。毎年家族で花見をした、大好きな庭の桜を見ても綺麗と思えなかった。ほとんど外にも出なくなった。家族を助けてくれなかったのがつらくて、逆恨みみたいな気持ちになって、神社のお参りに行くのも、お祭りに行くのもやめてしまった。

 ぼんやりした色のない世界で、親切にしてくれる人達の好意を受けながら流されて生きていたよ。いや……違うか。僕はあの頃生きていたけど死んでいた。今とは違って心臓も動いていて体温もあったけど、心はずっと死んでいたんだ。

 それが彼と出会って変わった。生き返った。世界に色が戻ってきた。もらった花が鮮やかで綺麗に見えるようになった。並んで食べる食事がおいしかった。久しぶりに誰かの体温をあたたかいと思った。彼と一緒にいる時間が何より楽しくて、心の底から笑えるようになった。家族と暮らしていた頃の生きていた自分に戻れた。文字通りに、僕の人生に彼が色をつけてくれたんだ。この時が永遠に続けばいいと、毎日願っていた。

 けど、それは叶わなかった。

 出会って二年目、付き合い始めてからは一年が過ぎた頃だった。あの時僕達は縁側に座って、夜桜を眺めていた。満月の光に照らされた薄紅色が、とても素敵な夜だった。だけど彼はいつもより口数が少なくて、握った手もなんだか固かった。どうしたのかと聞いてみたら、彼はうつむいて重い声で話し出した。

 もうあなたに嘘をついていたくない。自分は学者ではなくて、本当は探偵だ。この村には人探しに来たのだと。

 あまりびっくりはしなかったな。何となく彼が調べてるのは植物だけじゃない気はしてた。けど、彼が何も言わないのなら聞くべきじゃないと思ってずっと黙ってた。あと……やっと秘密を打ち明けてくれたのが、嬉しかったんだよ。

 何でも数年前に、東京のお金持ちの家の跡取りがこの近くに避暑に来たらしいんだ。で、そのまま行方不明になってしまった。警察が隅々まで探して、山狩りもしたけど見つからなかった。親御さんはそれでも諦めきれなくて彼に依頼をしたんだ。息子を見つけてほしい、どんな姿でもいいからもう一度会いたいと。そして彼はこの村にやってきた。偽の身分で村に溶け込んで、その子の手がかりを探していた。

 申し訳ないって謝る彼をなだめるうちに、思い出したことがあった。ちょうどその頃村にお客さんが来てたんだ。ただ僕はその頃病気にかかって寝込んでいたし、体がよくなった秋頃にはもういなくなっていたからどんな人かは知らなかった。お客さんは村長の家に泊まってた。村長によく懐いてて、村長も孫みたいに可愛がってるって近所の奥さんが楽しそうに教えてくれた。

 もしかしたら探してる子かもしれない。そのことを話すと、彼の顔がぱあっと輝いた。ありがとう、やっと手がかりがつかめたって何度も僕に頭を下げた。多分彼も、その子のことを仕事の枠を越えて気にかけてたんだろうね。彼の役に立てたのがうれしかった。思い出せて、話してよかったって心から思ったよ。

 ……ううん、違う。話さない方がよかったんだ。話してしまったから、終わってしまったんだ。

 話をしてから三日目の夜だった。彼の帰りが遅くて、僕は一人で夜の庭を眺めてた。あの時見た桜がはらはら散っていくのが無性に寂しくて、早く彼に帰ってきてほしい、そばにいてほしいなと思いながら待っていた。東の空が少し明るくなってきた頃、やっと彼は帰ってきた。いつもは使わない裏口から、真っ青な顔をして。駆け寄った僕を強く抱きしめて、震える声で彼は言った。

『すまない、急いでここを離れないといけなくなった』

 言われたことをすぐには理解できなかった。やがて意味がじわじわ頭に染み込んできて、体がガタガタ震えた。勝手に涙が出てきた。

 嫌だ。行かないで。僕も連れていって。あなたと一緒じゃなければ、もう生きられない。

 たくさんのことを伝えたいのに、口が動かなくて何も言えなかった。腕の中で彼を見上げたら、唇を噛み締めた辛そうな顔があった。彼もこんな顔するんだなあって、ちょっと意外に思った。

『あなたを絶対に迎えにくる。だから、待っていてくれ』

 最後にそう言って、僕のことをもう一度ぎゅっと抱き締めて、彼は僕に――くちづけをした。触れるだけのささやかな、でもとても優しいくちづけだった。唇を離すと、彼はそのまま行ってしまった。僕はずるずる床に崩れ落ちて、遠ざかる背中を眺めていた。それが彼を見た最後になった。

 夜が明けてやって来た隣の奥さんに、彼が急用で村を離れたこと、しばらくは来なくても大丈夫だってことを何とか普段通りの顔で伝えて、僕は布団に倒れ込んで泣いた。全身の水分が枯れ果ててしまうぐらいに泣いた。

 隣に彼の体温がないのが辛かった。耳に馴染んでいた落ち着いた声が聞こえないのが苦しかった。僕と一緒に笑ってくれた、あのあたたかい顔が見られないことが寂しかった。あんなに鮮やかだった家から一気に色が消えていった。彼のいない世界が、おそろしくてたまらなかった。

 わんわん泣いて疲れて寝て目を覚まして、彼がいないことに気づいてまた泣いてを何度繰り返したかな。ある日、村長が家を訪ねてきたんだ。多分、彼が姿を見せなくなったのが気になってたんじゃないかな。

 よっぽどひどい顔をしてたのか、僕を見た村長は慌てて医者を呼んできた。また病気になったんじゃないかって思ったんだろうね。急いでやってきた医者はまず僕の脈を取って、すぐ真っ青になって言った。

 心臓が、動いていないと。

 僕も村長も耳を疑った。だって、明らかにおかしいからね。目の前で起きて動いて喋っている人間の心臓が止まっているなんて。死んでいるだなんて。

 とにかく詳しく調べないと何もわからない。医者はそう言って、夜になるのを待って僕をこっそり診療所に連れていった。検査をしたり実験みたいなことをいろいろやって、ようやく僕の体は死んでいると結論が出たんだ。食事をしなくていい。水も飲まなくていい。汗も流さない。なのに動いている。この世のものではない存在になっているんだと。

 そして村長と村の顔役が散々話し合いをして、僕をこの洞窟に閉じ込めることが決まったんだ。

 え、ひどい? 同じ村の人なのにって? 君は優しいね。けど僕はあの人達の気持ちもわかるよ。隣で普通に暮らしていた人間が、ある日突然おかしいものになってしまう。それは見ず知らずの人がそうなることよりも、ずっとずっと恐ろしいことだ。だから閉じ込めて、なかったことにして。平和な暮らしを取り戻したかったんだと思う。多分僕も逆の立場だったら同じことをしただろう。

 せめてもの情けだったんだろうね、彼らは僕の家にあった家具とかを持ち込んで、僕がなんとか生活の真似事ができるようにはしてくれた。最初は蝋燭とかも定期的に差し入れてくれていた。ただ僕がここに入ってから、なぜか周りのものが減ったり壊れたりしなくなってしまった。僕の死が、移ってしまったのかな。

だからすぐ誰も来なくなった。僕のことを知っている人がみんないなくなっただろう後も、誰も来なかった。山ごと入れなくした決まりをみんな守っていたんだろうね。そして僕はこうやって本を読み返して、彼の好きだった髪を梳かして、ここでずっと死んだまま過ごしているんだ。君が来たのはびっくりしたけど、とても嬉しかったよ。久しぶりに人と話せて、君の楽しい話が聞けたから。

 ……どうして僕がこうなったのか、か。

 多分僕は、もう死にたくなかったんだろうね。彼と出会って生き返って、やっと取り戻した綺麗な世界を失いたくなかった。彼のいない世界で生きていたくはなかった。だからあの時、彼に最後に触れられた時。生きたいと思った僕はこの体から抜け出して――彼についていったんだと思う。体を置き去りにしてでも、彼と一緒にいるために。

 うん。寂しいこともあるし、つらくなることもあるよ。けどそれでもね、僕は満足してるんだ。だって生きていたかった僕はきっと、ずっと彼の側にいたんだから。きっと形は持てなかっただろうけど、彼の横で一生を過ごせたんだから。

 だから、僕は。抜け殻の僕は、これでもいいんだよ。

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