月夜に独り

 ――ダメだ、今日も描けない。


 青年は一つ溜息を吐くと、握っていた鉛筆をそっとイーゼルに戻した。アトリエの蛍光灯の下、青年の眼前には真っ白なキャンバスが広がり、責めるように白々と光を反射している。彼はその白さに押されるようにもう一度鉛筆を握ったものの、結局はまた力無くそれを置いてしまった。此処半月程のいつもの光景だった。


 青年の職業は画家である。狭いアトリエには所狭しと完成した絵画が並べられ、そのうちの幾つかは既にきっちりと油紙に包まれている。個展が近いのだ。今から約一月後、それまでに青年はメインとなる絵画を完成させなければならず、けれど現実は青年の目の前に在る通りに、彼は未だ作品のラフすら完成させられずにいた。


 ――最悪、以前に出した作品をメインで据えて仕舞えば。


 そんなことすら考えるものの、今回の個展のイメージにそぐわない作品を出すのは、彼としても躊躇われるものがあった。であれば何も気にせずにがむしゃらに描けば良いのだろうが、これがどうして筆が乗らない。ふわりとしたイメージは頭の隅にあるのに、いざそれを捕まえようとすると雲を掴むように散ってしまうのである。青年はぐしゃぐしゃと髪を掻きむしると、もう一つ大きな溜息を吐いて、乱暴な仕草で立ち上がった。傍らに置いていた煙草を手に取ると、アトリエを出ながら火を付ける。後ろ手に扉を閉めて寄りかかると、傍らの灰皿に煙草の箱とライターを置いて、煙を一口吸い込んだ。


 青年がキャンバスと戦っている間に、外は既にすっかりと日が暮れていたらしい。丸い月を見上げながら、青年は半ば自暴自棄に胸中で吐き捨てる。


 ――いっそ、これを機に筆を折ってしまおうか。


 ハ、と短く、自嘲的な笑みが零れる。晩秋の夜風は冷たく、煙草を吸う青年を容赦なく突き刺して過ぎて行く。秋風に体を震わせながら、けれど青年は瞬く間に吸い終わった一本目を灰皿に捩じ込むと、躊躇いなく二本目に火を付けた。今度はゆっくり、味わうように苦い煙を吸い込んで、口から吐き出す。白い煙が夜の町に漂って行くのを、青年は静かに見つめる。


 ――どうして描けないのかなんて、そんなこと、理由はとうの昔に分かっていた。


 白く煙る月の輝きが、青年の脳内に忘れられない光景を呼び起こす。一瞬で目の前を染めた真っ白な光。甲高いブレーキ音と、タイヤが路面を擦る耳障りな響き。必死に青年を呼ぶ女性の声。刹那の後、ドン、と腹に響いた、鈍い、ひどく不快な湿り気を帯びた音。顔に飛び散った生温い赤色と、鉄の匂いのする人型の塊――


 ――半月前、青年の妻は事故で亡くなった。信号無視したトラックから青年を庇って、彼の目の前で。


 それ以来、青年は何一つ絵が描けずにいる。それまで描こうと思っていたものをなぞることすら出来ない日々は、青年の心を静かに摩耗させていた。


 ――愛する者を失ったのだから当然だと、世の人は言うかもしれない。


 だが、と青年は冷たい路上に目を落とす。今にもそこが真っ赤に染まりそうな錯覚に、彼は慌てて煙草を吸い込んだ。勢い良く気管に入った煙にむせ返りながら、青年は涙目でキツく地面を睨み付ける。


 ――だが、その程度で描けなくなるなら、僕にとっての絵とは何だったのか。


 芸術に命をかけるというのは、そういうことであるはずだ。普通の社会人が家族を失っても一週間も経てば仕事に戻って働くように、彼にとっては絵を描くことが仕事であり、生き甲斐である。そのはずだ。そのはずだった。


 青年は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、ズルズルとその場に座り込む。閉じた瞼の下、フラッシュバックするあの日の情景に、彼の描く世界が塗りつぶされていく錯覚を覚える。


 ――僕は、どうしたらいい。


 途方もない疲労感に、腹の底から息を吐いた。その時だった。


 リン……と、柔らかな鈴の音が、青年の耳を打った。


 青年はノロノロと顔を上げる。暗闇の下、変わらず輝く月明かりだけがその場を青白く染めている。狭い路地裏には向かいのビルのポリバケツと青年の置いた灰皿があるきりだったが、右手にはビルとビルの切れ目があり、そこだけが僅かに広い空き地のような空間となっていた。


 その、都会の空隙のような場所。遮るもののない月明かりに照らされた、小さな舞台で。


 いつからそこにいたものか。女が一人、クルクルと夢のように踊っていた。


 女は、インドのサリーのような艶やかな布を体に巻き付けて、裸足で路地裏を舞っていた。音楽はない。ただ手首と足首に付けられた小さな鈴が、女の舞に合わせてリン、と音を立てている。


 くるり、くるり、月の下で女が舞う。

 くるり、くるり、薄布が風をはらんでふわりと広がる。

 それは夢のように。幻のように。歌うように。


 呆然と女を見ていた青年は、しかし彼女が踊りを止めてこちらを向いた瞬間、ハッとして立ち上がった。細面の顔立ち。どちらかと言えば素朴な、けれど黒々とした小鹿のような瞳がとびきりに美しい女。


「……友梨佳……?」


 青年はぽつりと、震える声で女の名を……彼の妻の名を呟く。女は、友梨佳は、信じられないという顔で見つめる青年ににっこりとえくぼを作って笑うと、役者が舞台でするように優雅に頭を下げた。さらりと肩口までの黒髪が揺れ、顔を上げると、彼女は小さな唇を動かして音もなく呟く。


 ――どうか、描いてね。


 青年の瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がった。それにまたにっこりと笑うと、友梨佳は瞬きの間に霞のように溶けて消えてしまう。青年は地べたに力なく座り込むと、溢れる涙をそのままに何度も頷いた。


 ――あぁ、描くよ。描くさ。だって僕にはそれしかないんだ。それしか、もう。


 嗚咽を必死にこらえて、青年は地べたに額を擦りつける。ふと強く風が吹いて、月を雲が覆い隠す。暗闇の中、背中を丸める青年の背に、温かな掌が一瞬触れて、消えた。



♢♢♢♢♢


使用お題:月 画家 舞い

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花が咲くように、夢眠るように アルストロメリア @Lily_sierra

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