在りし日の手術室

 その病院の横を通りがかったのは、夏も終わりに近づいたとある夜のことだった。私は愛犬であるダックスフントを連れて、涼しくなった住宅街をゆっくりと散歩していた。

 

 普段はあまり通ることのない、住宅街の中でも奥まった一角に、その病院はひっそりと建っていた。いささか小ぢんまりとしているが、元は総合病院であったらしい。駅前にもっと大きくて便の良い市立病院が誘致されたために廃院となったというその病院は、暗闇の中でどこか寂しげに佇んでいた。


 常であれば通ることのない散歩道に、リードの先の愛犬は随分と興奮しているようだった。まるで踊るような足取りで跳ね回り、一時も落ち着かない様子の彼は、しかし病院の横に差し掛かった瞬間、ピタリ……とその動きを止めた。軽快な足取りは一転、息を潜めるように大人しくなった愛犬は、チラリチラリと右手を、廃病院のフェンスの向こうを気にするような素振りで足を進める。私はそんな彼の様子に何か背筋が寒くなるものを感じながら、こちらも足を止めないままに右手へと顔を向けた。


 病院が廃院となったのは、実に十年近く前のことである。長年放置された病院の敷地には大量の雑草が生い茂り、敷地を囲むフェンスも赤黒く錆びてところどころ大きな穴が開いている。そしてフェンスと雑草の向こう、ずんぐりとした姿を晒す病院の建物には……何故か一室だけ、ぼんやりと明かりが灯っていた。私は思わず息を呑んでその場に立ち尽くす。


 明かりが点いているのは建物の中でも少しばかり奥まった部屋だった。割れた窓ガラスの向こう、燐光のように淡く青白い光がぼんやりと灯り、部屋の中でゆらり、ゆらりと揺れている。生きた人間にしては機械的で、機械にしては規則性のないその動きに、私の頭には『幽霊』の二文字が浮かんだ。


「何、あれ……」


 呆然と呟く。愛犬は足を止めた私に抗議するように低く唸ってリードを引っ張っているが、私の体はぴくりとも動かない。金縛りにあったかのように固まったまま、明かりの灯る部屋から目を離せずにいた私は、しかし次の瞬間「あ!」と短く声を上げた。


 青白い光が急にその輝きを増して一気に部屋いっぱいに広がったかと思うと、影絵のように一枚のを私の目に焼き付けて、そのまま消えてしまったからだった。小さく呻いて目を押さえた私に、愛犬が駆け寄ってきて体を摺り寄せる。


「ごめんごめん、大丈夫だよ……」


 私は動くようになった片手で愛犬を撫でると、一つかぶりを振って歩き出す。愛犬は先程までの怖がっているような、逃げたそうな様子はどこへやら、跳ねるような足取りに戻って私の先を駆け出した。待って、と声をかけながら、私は網膜に焼き付いた画を思い返す。


 ――人が忙しく立ち働く手術室。オペをする筆頭医とその助手、何かの数値を測る看護師と、彼等全員をサポートするアシスタント……


 ――もしかしたら、あれは在りし日の病院の光景だったのかもしれない。まだ患者が沢山いて、この病院が地域の頼りにされていた頃の。


 どこか切なさを感じた情景に、私は深く溜息を吐く。愛犬が急かすように一声鳴くのにハイハイ、と言葉を返すと、私は最後にチラリと病院に目を向けた。


 夜の暗闇の中、まるで先程までの光景などなかったかのように、今は廃れた病院は重く、暗く、雑草の海の中に沈んでいた。



♢♢♢♢♢


使用お題:廃病院の手術室 犬 踊る

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