第6話


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 本来、熊はヒトを襲わない。

 臆病な性格で、人間が近くにいることに気づけば、熊の方が逃げていく。もし襲ってきたのなら、それは己や子の命を守るためだ。もしくは、不適切な反応をしたため、本能を刺激してしまったのだ。


 あの日、僕達を襲ってきた熊からは、狂犬病によく似たウイルスが検出された。熊はその影響で異様に興奮し、攻撃的になっていたのだという。

 あれは本当に特殊で、本当に不幸な出来事だったのだ。


 幸い、あれ以来同じウイルスに感染した熊による人身被害は起きていない。

 あの事件をきっかけに犬の放し飼いは糾弾され、狂犬病ワクチンの重要性が改めて周知された。




 熊は雑食だが、植物性のものを主食にしている。例えば、タケノコ、キイチゴ、ドングリ等だ。これらの食料となるものは、勿論その年々によって量が増減する。

 特に冬眠前の主食であるドングリは重要だ。しかし、周期的に豊凶を繰り返すため、凶作の年には熊は食べ物を求めて行動範囲を広げる。その際に、人里に食料があると学習してしまう熊もいる。


 熊は学習能力が高い。とわかってしまえば、或いは――


 また、雌熊の体は、十分に栄養を蓄えなければ妊娠出来ない仕組みになっている。だから、豊作の年には子熊が産まれやすい。

 そうして個体数が増えた次の年は注意が必要だ。子どもを連れている母熊は、攻撃的になりやすい傾向にある。

 そして、熊の数が増えても、自然界の豊凶は巡る。



 さて、僕の視線の先には子熊がいる。

 母熊の息は既にない。駆除隊の先輩が撃ち取った。ヒトを襲うことを学習した熊を、生かしておくことは出来ない。

 熊は母親だけで子育てをする。ヒトを恐れない母親に育てられた子熊は、やはりヒトを恐れず成長し、やがて母親がしたようにヒトを襲うのかもしれない。


 お母さん、か。


 目を閉じ、しばし思案する。

 事切れている母熊も、ヒトを害するきっかけは子熊を守るためだったらしい。そこから偶然ヒトの味を覚えてしまったのだという。


 目蓋の裏の暗闇の中で、あの日嗅いだお母さんの匂いがよみがえった気がした。

 静かに目を開き、子熊を見つめる。その幼い瞳は恐怖に染まっているように見えた。


 あの子熊にとって、ヒトは、僕は、黒いケダモノなのかもしれないな。


 そう思いながら、僕は引き金に触れている指に力を込めた。

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熊事件 きみどり @kimid0r1

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