第41話 咲いている蔦の花は「かあさんみたいだ」 🌺



 その夏、明治四十二年の七月、三十四歳の黒光は、四番目の男子・文雄を産んだ。九月、穂高から愛蔵が帰京するのを待って、紀伊國屋薪炭店の向かいにあった支店を内藤新宿青梅口の手前、高野果物店のそばに移転させ、二六○坪の敷地のこの場所でパンや菓子を製造販売するようになった。本郷店はのち古株の従業員にゆずる。


「おれ、ずっとこっちにいるよ」ある夜、愛蔵から告げられた黒光は「あら、そう」と答えながら、ついにそのときが来たと思った。穂高の婚家をとび出て八年、相馬家の後継と目される愛蔵は春から秋まで信州へ帰っていたが、すぐに挫折すると思っていた中村屋の繁盛ぶりにさすがの安兵衛も期待を断念せざるを得なかったのだろう。


 黒光が嫁ぐ前に分家に出していた次兄・宗次を本家の跡取りとすることを何年か前から考え始めていたことを黒光もなんとなく知っていたので、いまさら異存はない。となれば人質に預けてある長女・俊子を返してもらわねばならないが、安兵衛夫妻がこよなく可愛がっている孫むすめでもあるので俊子の成長の節目を待つことにする。



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 上京当初、つましい生活を守って店を発展させるため、親子三人の生活費は穂高の養蚕の稼ぎを当てることにしていたが、黒光はもちろん在京中の愛蔵も懸命に働いた結果、中村屋の売上は右肩上がりになってその必要がなくなり、以前ほど身が入らなくなっていた養蚕を奪われてみて、呑気な愛蔵も思うところがあったものと見える。


 場末のさびれた宿場に過ぎなかった新宿は、ちっぽけな島国が大国に勝ったというので世界を驚かせた日露戦争この方、時代を先取りする急速な発展ぶりを見せ始めており、写真館、とんかつ屋、時計宝石店、洋装店などが先進の役割を果たしていた。中村屋とて負けてはおられぬ。見た目より意外と古い体質の女房に任せておけぬ。


 もともと算盤勘定が好きな愛蔵が目をつけたのは、猫も杓子も洋風に向かう世間と一線を画す、むかしながらの餅菓子だった。荻窪など近郊の農村の若者を雇い入れ、夫婦は帯も解かずに寝床に入る明け暮れの結果、名づけて「新兵衛餅」は搗きたてでやわらかくて旨いというので、近くの商店や民家に好評で、売上増に役立った。



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 そのころ碌山は本十兄が持って来てくれた注文制作に取りかかっていた。人妻への恋慕に苦しむ弟が不憫でならない兄の思いは、帽子屋仲間の北条虎吉氏の胸像として結実する。謹厳実直なモデルに心から共感を抱いた碌山は一か月で完成させ、文展で三等賞を受賞する。前回同様に一二等は該当なしゆえ、実質的な一等賞だった。


 彫刻の制作意欲は満たされたが、相変わらず不足なのは黒光の愛だった。どうしても穂高の狐女との一件を忘れられない黒光は、夜になると愛蔵を責め立て、いくら「すまん、このとおり」と詫びても許してやれずにいる。「あんな野卑な女のどこがいいのか、さあ、あなた、おっしゃいなさい」ぎりぎり歯を鳴らして口惜しがる。


 そんな翌日はアトリエから通って来る碌山に慰めてもらおうと甘える仕草を見せることもあるが、うしろから抱いてやればそれで満足し、さっさと店の仕事にもどる。中途半端な気持ちを持て余す碌山こそ哀れだったが、すべてを承知の愛蔵が咎め立てせず、むしろ芝居でも見物するような心持ちでいることが怪訝といえば怪訝だった。


 まるで黒光の身代わりとでもいうように、碌山は子どもたちを可愛がる。おじさんおじさんとまとわりつかれても、うるさがるどころか膝に乗せて遊んでやり、病気になると親代わりに通院に付き添った。幼い千香子をサポートしていると、その母親である黒光を間接的に守っているような気がして不思議なほど心が安らぐのだった。



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 ある夜、珍しく外で酒を飲んで帰って来た碌山は茶の間の黒光の前で寝ころんだ。両手を頭のうしろで組み「空にはまっかな雲のいろ 玻璃にはまっかな酒のいろ……なんでこの世がかなしかろ」北原白秋の詩を口ずさむ碌山の目が見る見る真っ赤に潤んで来る。そんなとき黒光は自分のために煩悶する年下の男を愛しく思ってはいた。


(アトリエの塀越しに隣家の蔦の花が咲いているところを指さして「ほら、かあさんみたいだ」と言って頬を赤く染めたことがあったけど、こんな大勢の子持ちのどこがいいのかしら。周囲のひとたちはわたしが彼の純真をもてあそんでいるというけど、とんでもない、こっちこそ困っているのよ、どうすればふつうの関係になれるの?)


 黒光が香道に興味を持ち始めたことを知った碌山は、黒光を彷彿とさせる香炉をつくってプレゼントしてくれたが、それもまた周囲の批難を呼ぶ因のひとつになる。そんなときだった「かあさん、いろいろ行き詰まっているみたいだから、奈良の仏さまに会いに行かないかい? おれとふたりで」碌山の友人の孤雁に誘われたのは……。


(碌山の奈良好きを百も承知のうえで、二枚目の孤雁とふたりだけの旅に出るとは、どう見ても碌山をやきもきさせる手練手管としか思えない。そう言って周囲から批難されたけど、わたしの夫は愛蔵で、その他は友だちに過ぎないんだから、だれと一緒でも同じなのよね。優男というけど、わたしからすれば愛蔵の方がずっといい男よ)


 人妻としてあまりの非常識を見かねてという名目で、様子うかがいのご注進に及びたがる世間に対して愛蔵は「若い孤雁と旅に出ようが碌山と可愛がりっこしようが、女房のすることなんざあ底が知れている。おれの女房はな、出来合いじゃねえんだ」ときり返し、その言葉どおりに飄々淡々としていた。摩訶不思議な夫婦ではあった。




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