第40話 文展三等賞に輝いた碌山の「文覚」だが…… 🥉



 かくて荻原碌山の帰朝第一作の題は「相克」と決まったが、いくらロダン仕込みでも人間の内面を具象として表現するのは至難の業で、いきおい気負いすぎ、時代を先取りするつもりが、形になったものは中世風の古めかしいシロモノでしかなかった。出来上がった作品を砕いた碌山は、いっそタイトルを「文覚」にしようと考え直す。


 創作意欲の再生を求めて再訪した鎌倉で、肉体労働で鍛え上げられた筋肉が隆々と浮き出る漁師に会った。その男をモデルに今度こその気迫で粘土に立ち向かい、少しでも思ったとおりの形が現われると狂喜乱舞し、駄目だと消沈し、モデルの存在も忘れて眠りこむ。芸術家の荒ぶる魂がアトリエに充満してはちきれんばかりだった。


(凄まじい気迫にたじたじとなるほど打ちこんでくれていることはなによりだけど、素人目にも力こぶが入りすぎているのは歴然としている。もっとフラットな気持ちで当たらないと、芸術のクォリティの高いものには仕上がらないのではないのかしら。自分で鑿を握らなくても勘という点では引けを取らないつもりだからね、わたし)


 結局、納得できるものは出来なかったが、間近に迫った文展(文部省美術展覧会)になにも出品しないわけにはいかず、気負いすぎの「文覚」とパリ時代に制作した「女の胴」「坑夫」の三点の搬入を友に託した碌山は穂高へ帰省する。というのも、秋蚕をあげた愛蔵が東京へ出てくる日が迫っているからだろうと黒光は推察する。



      *



 狐顔の女を遠ざけると約束した愛蔵が留守のあいだも、黒光と碌山の関係はこれという進展を見なかった。ただ、それは身体のうえのことで、精神的にはより深いつながりに発展したことを周囲もなんとなく感じていた。外出時には行き先と帰宅時間を黒光に告げ、そのとおりに帰って来ると、出先での出来事を話して聞かせる。


(まったく守衛さ、いや、碌山さんと来たら、一から十まで話さないと気が済まないんだから、それも、このわたしだけにね。ありがたくはあるけど、店の経営と子どもたちの世話と二足の草鞋の身は決して暇ではないのに時間を無視して……その点では碌山さんもふつうの男性の感覚と変わらないわね、女性の身になれないんだから)


 傍目には教師と生徒か仲のいい姉弟のように映った。ふたりの距離が縮まらないので家族や従業員の目が険しくならずに済んだことはみんなにとって幸いだったろう。けれども、思慕されていることにさほどの痛痒を感じていない黒光はともかく、自分だけのものになって欲しい碌山にとってはなんともやりきれない時間が過ぎてゆく。


 穂高の禁酒会活動以来のストイックな生活をつづけていた碌山が、珍しく酒を所望したことがある。友人の結婚式に招かれた夜のことで、「わたしも女学校のころ、友だちの結婚式で寂寥を味わったことがあるわ」黒光が水を向けると、果たして碌山は大きなハンカチを顔に当てて「かあさん、おれもさびしいのですよ」と号泣した。


 

      *



 満を持しての出品ではなくても入選を期待していた「文覚」は三等賞に入選する。一等は該当なしだったので実質的な二等だったが、それよりパリ時代の記念碑というべき「女の胴」「坑夫」の二点が落選したことが碌山には衝撃だった。しかも元仏師の審査員は、全身像でない二品を未完成と評したというのだからなにをかいわんや。


 女を遠ざけたと言いながらじつは……見えぬところでなにをしているか分からない愛蔵への嫉妬で黒光は夜叉になった自分を認識し、碌山がそんな黒光を抱きしめる。碌山はパリ住の高村光太郎への手紙に「盲目、恋のみに限らず、人生も盲者の如し。ぼくは頭が病んでいる。あるいは、永久に治らぬかも知れぬ」と胸中を吐露した。


(慕ってくれる碌山さんには申し訳ないけど、わたしにとっての伴侶はやっぱり愛蔵しか考えられない。女にだらしないとか茫洋としてつかみどころがないとかの欠点はあるけど、一家の主には安定感が必要だし、なにかとエキセントリックになりがちな碌山さんと連れ添ったあかつきには、いまとは質の異なる苦労が目に見えている)


 だが、なんということだろう、そう言いながらも黒光はまたしても妊娠したのだ。この夫婦はいったいどういうことになっているのだ。互いに疎んでいるように見えてそうではなかったのか。おれは、おれはいったいどうなる、どうすればいいんだ? そんな碌山が絶望の目を惹かれたのは五歳の次女・千香子の遊ぶポーズだった。


 無心に遊ぶ様子にロダンの「ダナイデ」を見出した碌山は「デスペア(絶望)」の制作に取りかかる。大人の女性のモデルを雇って、嘆きに身を投ずる女の姿態を一心不乱に仕上げる。友人たちはそこに黒光を重ねたが、訊かれてもさびしそうに笑っているだけだった。曖昧な態度で弟を苦しめつづける黒光を碌山の兄・本十は恨んだ。




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