第39話 彫刻家・碌山に熱烈に恋される子持ちの黒光 💚



 六月、碌山のアトリエが完成した。十二畳の画室に六畳の居室、流し付きの土間の簡素な造りだったが、風流な枝折戸が設えられ、芝を敷いた縁先にはデージー、萩、芒、芭蕉などの植栽が植えられて、朗らかそうでいてじつはナイーヴな主とともに、海外で知り合った芸術家たちや帰路の日本郵船のスタッフなどの来客をもてなした。


 碌山はここから中村屋へ通い、黒光と紅茶を飲みながら文学や時事の話をしたり「荻原のおじさん」とまとわりつく子どもたちの相手になってやったりしていたが、心に煩悶を抱えていることは傍目にも見て取れた。パリの友人・高村光太郎に「われ心に病を得てはなはだ重し」という書簡を送ったことは日本のだれも知らなかった。


 碌山の苦悶は、当初、潔癖な若者にありがちな義侠心に近いものだったが、どこでどういう作用が働いたのか、妻に不実な愛蔵への怒りは、踏みにじられた菫のような黒光への強烈な思慕に変わっていった。この不可解な心の動きに翻弄される身をどうしようもできずに……。独身の碌山二十九歳、五人の子を産んだ黒光三十三歳の夏。



      *



 アトリエという願ってもない環境が整ったのに彫刻の制作に手がつけられずにいる碌山に、当の黒光が、文覚上人という道ならぬ恋のため出家した中世の人物のことを話したのはどういうつもりだったのだろう、のちに事情を知った人たちは訝しんだ。自分への思慕を再認識したかったのだろうとうがった推論まで飛びかったが……。


 そのあたりのプロセスは、じつのところ黒光自身にも曖昧模糊としている。目の前で行き詰まっている彫刻家に道を拓いてやりたかった事実にはちがいがなく、美貌の人妻・袈裟御前への懸想で破滅した北面の武士・遠藤盛遠のセンセーショナルな逸話から制作のインスピレーションが得られればという親切の発露からと言えば言えた。


 まず星野天知を訪ねるよう勧めたのは、黒光が文覚上人を知ったのは星野の著書からだったし、星野自身、明治女学校の教え子と結婚するまでに紆余曲折があったと聞いていたからだった。若い碌山にすでに中年の星野は多くを語らなかったが、相模湾を見渡す半島の突端の古刹・成就院に設置されている文覚像の存在を教えてくれた。


(星野先生もお歳を召されたようね。かつて『女學雑誌』の編集を負っていらしたころは、きりりしゃんとした対応をなさった方だったのに、せっかく訪ねた碌山さんになにもご示唆くださらないなんて……そういえば、わたしの恋愛小説もどきを一瞥で否定なさったことだって、どこまで正鵠を射ていたのか、いまとなっては不明だわ)


 日をあらためて黒光を誘い出すことに成功した碌山は、鎌倉停車場から由比ガ浜へ出て江ノ島方面へと向かう極楽寺坂の切り通しを肩を並べて歩きながら、星野の著作『怪しき木像』の描写の妙を思って期待を高めていたが、実際の像は極めて貧弱で、お道化たような顔の表情にも煩悶はうかがわれず、ほとんど幻滅しか感じなかった。



      *



 それでも制作の端緒にという黒光の願いは無駄にはならず、ふたりだけの逢い引きにも似た鎌倉行から東京にもどった碌山は「Love is art , struggle is beauty. 愛は芸術なり、相克は美なり」とつぶやきながら、帰国以来といっていい粘土をこね始める。かくてロダンに直接師事した若き彫刻家の鳴り物入りで帰国した第一作が始動した。


 未明に起きて冷水で全身を浄め、アメリカ製の縞のワイシャツにネクタイの正装で制作台に向かい、昼のドンが鳴ると絣の着物に着替えて中村屋へ歩いて行く。慕ってもどうしようもない女が弱く小柄な身体をきびきび動かして働いている情景を横目にしながら子どもたちの相手になってやり、夕食後にアトリエへもどるという暮らし。


 愛蔵の素行問題から頭が離れられないらしい黒光はときどき癇癪を起こし、家族や従業員の前もかまわずに泣いたり喚いたりの修羅場を演じたが、それも碌山にとって深刻な苦痛の種だった。かあさんは、あのけものめいた男に嫋々たる未練があるからあんなに暴れるのだ。いっそおれにすべてを委ねてくれたら、もっと楽になるのに。


(年下の青年に想われていい気なものだと思われていることは、わたしも百も承知。碌山さんの美術仲間から「思わせぶりな態度がわるい」と言われていることも。でも、どうせよと言うの? 中村屋はわたしの店で、そこに夫がいてそこへ通って来る彫刻家がいて、なんとか均衡を保っていかなきゃならない店持ち子持ちの身を……)


 黒光は自分が悪者になるしか事を起こさず日常を送る方法はないと覚悟していた。うわさを承知の鎌倉行きも、思い詰めがちな青年の熱情を逸らせてやりたかったからだし、なにかにつけて「かあさん、アメリカへ逃げよう。そこで一緒に暮らそう」と危険な幻想を誘って来る熱情を紛らわせるには、その場をやり過ごすしかなかった。



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☆ふ~ん、どうなんだろうね、このあたりは。先達男性作家の筆はいずれも各種資料で裏づけしたと思われる出来事を淡々と伝えているだけのようだけど、自分への恋心のために苦しんでいる青年によりにもよって文覚像を勧めるとは黒光さんもどういうつもりでと、中村彝さんや高村光太郎さんならずとも考えるのがふつうでしょうね。


 のちに、あの女は自分中心に物事がまわらなきゃ気が済まないんだとか、もったいぶった素振りで周囲の男全員を自分に惹きつけておいて捨てるのだとか、故人に代わってさんざんなことを言いふらした画家や詩人彫刻家でなくても訝しむでしょうね。一方からは加虐、他方からは嗜虐と思われそうな駆け引き……。    by真理絵




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