第38話 穂高における愛蔵の相手は親せき筋の女 🦊



 明治三十七年二月、次女・千香子を出産した黒光が産後の身体を休める暇もなく店に出て接客や職人を手伝おうとすることを、愛蔵も従業員も止めたが、店主の黒光としてはようやく創業三年目に入ろうとする中村屋の発展の道を探りたくて、おちおち寝ていられなかった。言いたくないけど、春が来れば愛蔵はまたまた穂高だし……。


 新しもの好きの愛蔵は食パンやフランスパンの自家製に乗り出していたが、黒光は菓子パンの餡にクリームを入れたらどうかと思いつく。西洋菓子のシュークリームにヒントを得てのものだったが、得意客の東京毎日新聞社長・島田三郎から絶賛されたので自信を持って大々的に売り出し、ワッフルにもクリームを入れて名物とする。



      *



 次男・襄二に次いで出産した三男・雄三郎を早逝させて、店の奥の三畳間に臥していた黒光が、愛蔵に連れられて支店を出す場所の下検分に出かけたのは明治四十年、穂高から出て来て裸一貫で中村屋を起して六年目だった。ふたりは高遠藩内藤氏の屋敷跡が新宿御苑に変わって間もない新宿の、甲州街道の追分付近を最適地と決める。


 遊郭の客相手の一膳めし屋、うどん屋、豆腐屋、佃煮屋、魚屋、果物屋、薪炭商が軒を並べるなか、間口二間の三軒長屋の二軒を借りて、その年の十二月二十五日に支店を開いた。隣近所に引っ越しそばを配って挨拶を済ませた黒光は、翌朝から、夫より早く千駄木林町の家を発ち、本郷の店に寄ってから新宿へ出勤する生活を始めた。



      *



 翌年の春、中村屋は七年間の海外生活を終えた荻原守衛の訪問を受ける。穂高の洋間の木下杢太郎画『亀戸風景』に触発されて油絵画家を目指していたはずだったが、ニューヨークから渡ったパリでロダンの『考える人』に衝撃を受けて彫刻に転向し、そのロダンに師事したのち「碌山」を名乗る新進気鋭の彫刻家としての帰国だった。


 穂高で帰郷報告を済ませた碌山は上京して中村屋を訪ね、浅草で帽子屋を営む兄・本十の援助で新宿にアトリエを建てることを告げる。黒光が子どもたちを連れて仙台へ里帰りしているあいだ、碌山は奈良と京都の古美術を観に出かけたが、アトリエが建つまで中村屋に居候することになったものの、むっつり押し黙る日が多くなった。


 なにか気になることがあるのかと黒光が水を向けると、碌山は苦し気なようすで、新アトリエを「オブリヴィオン(忘却庵)」と呼ぶことにすると答える。バイロンの劇詩『マンフレッド』の一節の「忘れたいのだ」「なにを、だれを、なにゆえに?」「忘却を、自己忘却をくれい!」に重ねた黒光がさらに問うと、碌山は低く呻いた。


 ――シスターが身を粉にして働いているのに、穂高では……。((((oノ´3`)ノ


 怪訝なことがあり、だれにも告げず相馬家へ急行すると、春蚕の準備には間があるはずなのに早々と帰郷していた愛蔵にぴったりと寄り添う女がいた。まるで主婦然としたもの馴れた態度で接客し、時折り「このひとったら」愛蔵に流し目をくれたりするようすにすべてを察した碌山は、なにも知らない黒光のために義憤の塊になった。


「面目ないよ」と頭を掻いてみせる愛蔵が心から悔いているようには見えなかった。井口喜源治先生に次いで尊敬し、じつの兄のように思っていた先輩があばずれの女狐に騙されている。いや、本当のところどちらが騙したのか分からないが、俗に言う魚心あれば水心であるらしいことは、なんとも醜悪な両者を前にして、よく分かった。


 帰りに研成学校へ寄ったが、喜源治先生はひたすら困惑して、事を荒立てないよう碌山を諫めるだけだったので、なおさら失望し、なんとも気持ちのやり場がないまま東京へ帰って来た。かあさん(子どもたちの呼び方を真似て)が文字どおり粉まみれになって働いているのに、亭主が田舎で不埒に乳繰り合っているのは許しがたい。



      *



 仰天した黒光が取った行動は素早かった。その日のうちに子ども全員を連れて汽車に乗ると、一路、信州へ向かう。そのまま穂高の相馬家へねじこみ、とつぜんのことに慌てふためく愛蔵と相手の女狐、それに自分の愛人と弟の不貞を黙認していた安兵衛および哀れな義姉に帰京を宣言すると、有無を言わせず夫を帰りの汽車に乗せる。


 思えば、婚礼のときから(いや、その前からだろう)ようすがおかしかったのだ。妙にシナをつくって愛蔵にすり寄る女が遠い親せきの出もどりで愛蔵は愛蔵で満更でもないようだよとわざわざ囁いてくれる近所の女衆もいたが、やっかみ半分の告げ口だろうと気に留めなかった。その自分のうっかり加減がいまさらながら悔やまれる。


(それにしても汚らわしい。わたしのいない家で夫がよその女と夫婦同然の暮らしをしており、それをみんなが黙認していたとは、こんな不道徳が許されていいものか。いや、黙認どころかむしろ推奨してさえいたのではないか、勝手に出て行った嫁への意趣返しとして。そんな大人たちを十歳の俊子はどう見ていただろう、可哀そうに)


 黒光は田舎人の底意地のわるさを全身で感じずにいられなかった。安兵衛のそれには自分の思うようにならなかった嫁へのしっぺ返しが入っていることは言うまでもないだろう。だれもそれに気づかないだけで、あの粘っこい視線を知っているのは自分だけなのだから。返すがえすもあの体格のいい男の言うままにならなくてよかった。


 いろいろな思いが募った黒光は夜も眠れずに悔しさを堪え忍ばねばならなかった。有無を言わさず引きもどされた翌朝から新宿の店に出た愛蔵がまったく悪びれず、けろっとした表情でいつもどおりに働いているすがたもシャクの種だったが、愛蔵からすれば何をしてもしなくても妻は夜叉になるのだから……ということであるらしい。




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