第37話 国木田独歩をめぐる恋愛スキャンダル 🎩



 それから数か月後の九月、秋蚕を終えた愛蔵は、けろっとした顔でもどって来た。「いやあ、あの件では心配をかけた。みんなの待望論をどうしても断りきれなかったのだが、喜源治さや内村先生に言ってもらって村の衆にも分かってもらったよ」まるで他人事のような夫に黒光は複雑だったが、まあ一件落着ということにしておこう。


 なんとかこのひととやって行くしかない。あらためて覚悟した黒光のもとに仙台の祖母・定の他界が伝えられる。少女時代、祖母の口から繰り返し聴かされた祖父・雄記の高潔な武勇伝が、星家の末裔としての誇りを支えていたのだったが、いまの黒光に帰郷のゆとりはなく、はるか北方に向けて合掌して冥福を祈るほかはなかった。



      *



 豊壽叔母をめぐる因縁の人物である、国木田独歩のとつぜんの訪問を受けたのは、その年も晩秋に入ろうとする時節のことだった。仰々しく「鎌倉丸の艶聞」の見出しがついた報知新聞を携えて中村屋にあらわれた独歩は、無沙汰の挨拶もそこそこに「これは事実なんですか?! 本当にわたしの子どもなんですか」黒光を問い詰めた。


 ひょんなことから佐々城家に出入りするようになった独歩と豊壽叔母の長女・信子の恋愛は両親の大反対に遭い、駆け落ち同然に同棲したものの、独歩の偏執的な嫉妬と過度な束縛にいやけがさした信子はひそかに逃げ出した。腹に宿していた子は出産した病院名から浦子と名づけられて、豊壽叔母の手配で里子に出されていた。


 このころ佐々木家の世話になっていた黒光も、この一件に深く関わらざるを得ず、成りゆき上から逃げる信子と追う独歩の調整役をつとめることになったが、子どもの件は独歩に告げずじまいだった。いまごろになってそのことを興味本位の三面記事にすっぱ抜かれ、仰天した独歩が唯一の生き証人である黒光を問い詰めに来たのだ。


 あまりの愛しさにことごとくを支配せねばいられなかった恋女房に出て行かれた独歩はその苦しみを執筆に託したもようで『萬朝報』の懸賞小説の二年連続入選を発端に作家への道を歩み始めたことは黒光も承知していた。私的な痛憤を公にした『鎌倉夫人』『欺かざるの記』には、なんと卑劣な男だろうと侮蔑を感じてはいたが……。


 それはともかく、父親である自分に子の存在がひと言も伝えられなかったのはどういうことかと難じられれば、叔父叔母とも没し、信子自身も近くにいない状況では従姉の黒光が詫びるしか独歩の憤激を宥める法はないと思われ、素直に詫びると、二番目の妻と家庭を築いていた独歩も、だまって引き下がるしかないようすだった。



      *



 独歩が引きあげると、黒光はどっとばかりに疲労を感じた。豊壽叔母に似た華やかな美形で、性格も、コケティッシュというのだろうか、周囲の男性のだれかれの目を意識せずにいられないところがある。身持ちがかたく、恋愛はプラトニックを至上とする自分とはなにもかも正反対の信子という魔性がほとほと面倒に思われていた。


 独歩から逃げて知人の家に隠れていたころの信子は、たしかに純真だったと思う。それがどういう経緯であそこまで奔放な女に変容したのだろう。両親を亡くした信子の将来を案じた親せきが北海道の代議士の息子との縁談を進めていたが、その相手がアメリカ留学中で、信子は気乗りせぬまま日本郵船の豪華客船「鎌倉丸」に乗った。


 そこからの行動が黒光にはどうにも理解できかねるのだが、船がシアトルに着いても下船せずそのまま復路をたどるとは、大人としてどういうことだろう。さらに、一部始終を見ていた男につけこまれたのだろう、帰路、その船の事務長と恋仲になり、帰国するや妻子ある男と同棲を始めたというのだから呆れかえった話ではないか。


(それに、なんなの、この鳩山春子というひとは……元衆議院議員で法学博士でもある和夫氏の妻女で、自身も教育者として名を成していると紹介されているけど「船中の痴情と帰国後のふたりの憚らぬ所為」について、複数の新聞社に自ら通報したとはいったい全体どういう教育者なの?! 事件の登場人物の揃って下劣なことったら)


 売らんかなのブンヤが跋扈ばっこするなか、もっとも煽情的だったのが報知新聞で「不義の楽しみをつづけをる佐々城信子の心情も卑しむべし。聞くところによれば、信子には何人の種とも知れぬひとりの子あり。深く秘密を附して里子にやりおれりと……」文筆を業とする者の誇りもなにもあったものではない。ああ、気色がわるい。



      *



 浦子の里子の一件に自分が関わったことは事実だが、それもあの状況ではやむを得なかったのだと言いたかった。しかし、神経質に痩せた青白い顔を引きつらせている独歩に向かうとなにも言えなかった。箪笥の奥から出してやった浦子の写真を食い入るように見詰めていた独歩が「自分の子だ」と呻いたときは多少の同情も感じた。


 しばらくして今度は浦子の里親から手紙が届いた。やはり新聞記事を見て驚いたとのことで、愛蔵と一緒に滋賀県に赴いた黒光は懸命な謝罪を試みたが、ついに説得できず、そのまま六歳の浦子を連れ帰って、翌春、小学校へ入学させる。不遇を全身で感じる浦子は、二歳の安雄のように黒光をかあちゃんと呼ばせてと言って泣いた。


 一方、鎌倉丸の事務長は善人だったようで、船を降りてから故郷の佐世保で旅館を開業し、信子のふたりの妹も引き取ってくれ、今回の新聞記事で古傷を蒸し返されながらも浦子も引き取ると言ってくれた。けれども、迎えに来た信子は、ついに母親を名乗らずに姉で通したことが、黒光の気持ちにいつまでも引っかかることになった。




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