第36話 付属高女の海老茶式部も小僧の文久銭も同じ ⚖️ 



 早くも生き甲斐となりつつある中村屋の経営に専心する黒光はパンを置いてくれる小売店の新規開拓も自ら行った。その一軒が小石川竹早町の女高師前の文房具屋で、買い食いを咎められない店先で菓子パンをかじる娘たちを微笑ましく眺めていると、絵に描いた餅の文学とちがい直接腹の足しになる食べ物を商う身が誇らしくなる。


(数が減った分だけ確実な売上につながる。リアルな手応えのある商売はおもしろい。評価が相対的な文学では味わえなかった醍醐味がある商いは、もしかしたらわたしの天職になるかも知れない。見つけた、ようやく見つけたわ、わたしの生涯を賭して悔いのない仕事。だれになにを言われようと、わたしたちは信じる道を歩むのよ)


 少しずつ様子が分かって来ると、あんなに繁盛していた旧店主が店を手放した事情も推察できるようになった。倹約そうに見えてじつは毎晩の酒肴を奢っていたとか、米相場に手を出したとか、夫婦そろって遊山好きとか、店員の話を聞いているうちに反面教師とすべき教訓を見出した黒光と愛蔵はふたりで話し合って五か条を決める。


 一、経営の目鼻がつくまで衣服は新調しない。

 一、食事は主従の別なく同じものをとる。

 一、米相場や株にはいっさい手を出さない

 一、仕入れは現金取引のみとする。

 一、最初三年間の親子三人の生活費(月五十円)には養蚕の収益を当てる。


 書生夫婦の素人商いという大方の懸念をよそに、店は少しずつ繁盛し始めていた。といってもパン一個売っても儲けは僅少な小商いにはちがいない。弛みだすときりがなくなりそうな生活を引き締め、毎日の食事は全員が味噌汁と漬け物、昼は総菜屋の二銭のお菜、売上が伸びた日には洋食屋からフライを取り寄せて大入りとした。



      *



 友からの借金で買ったパン店の材料の仕入れには、子どものための貯金を当てた。当面の資金繰りが楽になるツケを選ばなかったのは、買掛金が嵩むことを警戒する憶病な心持ちからだったが、結果的に、現金仕入れは商売の信頼と材料費の倹約につながり、素人夫婦は「これで案外、書生商売もわるくない」晴れやかに笑い合う。


 明治女学校から世話になった星野天知が来店したとき、黒光は行商に出ていて愛蔵ひとりが粉だらけになって働いていた。後日ふたたび来店した天知の目に黒光は面やつれして映った。巌本善治も素人商売を案じて様子を見に来てくれた。ふたりの厚情で母校で講演を行った黒光は、新鮮な生き方として後輩たちに鮮明な印象を結んだ。


(これからの時代の生徒たちに特異な苦労や希望を話してやってくれと言うから話はしたが、さてさて、あのお嬢たちがどこまで分かったことやら。わたしのような苦学生でない限り、たいていは裕福な両親の言うがままに結婚してそれなりの人生を歩むひとたちなんだもの。でもまあ、わたしとしても考えをまとめる機会にはなったわ)


 黒光経営の中村パン店はすべての客に平等に接するスタンスを第一義としていた。学生も教師も官吏も主婦も、みな同じお客さま、おれがおれがと威張り返った紳士も人力車夫も、東京女高師付属高女の制服の海老茶式部も、文久銭を握りしめて来る小僧も、いっさいの分け隔てをしないところに自然に人気が出たし、誇りでもあった。



      *


 

 創業翌年の春、愛蔵はかねての約束どおり穂高へ帰った。黒光としては、まだまだこれから軌道に乗せていかねばならない大事な時期に、身体を半分にされるような気持ちだったが、愛蔵は例によって淡々と旅立つ。あとのことは妻任せにする気らしい様子に、このひとはまあ頼り甲斐があるやらないやらと、あらためて気が揉める。


 そんな黒光を呆然とさせたのは、養蚕に打ちこみ一家三人の生活費を稼いでいるはずの愛蔵が衆議院議員選挙に担ぎ出されるらしいという風のうわさだった。あの田舎特有の濃密なつながりから、ことの顛末の見当は、ほぼつくような気がするが、いろんな思惑がらみの煽てに乗って分不相応な出馬なんて、まったく冗談じゃない。


 黒光は夫の親友の喜源治に手紙を書いて「わたしはパン屋の女将でけっこうです。夫にはフロックコートの外出ではなく中村屋の配達に行って欲しい」と愛蔵の無節操を止めてくれるように懇願した。衆議院の門を一度でも越したら人間が駄目になるという黒光の願いは内村鑑三に伝えられ、無謀な出馬をやめるよう説得してくれた。


(これまでもいざというところで体を交わされたり、どことなく芯が通らない様子に人知れず心を痛めて来たが、やっぱりそうだったのか、あのひとは……東京にいるときはおくびにも出さなかったのに、心の奥底に政治への野心を抱いていたとは、まったくもってなんたる不信をわたしに呼び起させるのだろう。情けない限りだわ)


 喘息の発作と頭痛を再発させた黒光は、しばらく店にも出ずに寝こんでいた。この風来坊気質にどこまで振りまわされねばらないのか。幼い子どもがふたりいて新しく店を始めたばかりなのに、まだ緒にかかったばかりの人生、なにを頼りに生きていけばいいのだろうと、穴の底に引きずりこまれるような気持ちに駆られるのだった。




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