第35話 パン店『中村屋』を居抜きで買い取ってスタート 🍞



 それならばと着目したのがパンの店だった。維新後に横浜から入って来たパン食は都会のハイカラな家庭では米に代わる主食になって来ているようだが、果たしてこの傾向は一時的なものか、それとも時代の転換の象徴として定着するだろうか……夫婦で試してみると、米とちがって煮炊きの手間が省けるし、意外なほど飽きも来ない。


 ――食パン製造および道具一切譲り受けたし 本郷千駄木林町十八 相馬


 東京一の発行部数『萬朝報』に広告を出してみると数軒から申し込みがあったが、なかの一軒は、黒光が毎朝パンを買いに行く帝大正門斜め前の中村屋だったことには夫婦で驚く。大竈をはじめとする製造具一式、配達用箱車、それに従業員をふくめた居抜きで総額七百円は、資金に余裕がある愛蔵の友人が貸してくれることになった。


 

      *



 明治三十四年十二月三十日、夫婦にとって大きな節目となった年もわずかとなった小晦日、相馬黒光の店『中村屋』がオープンした。店主名を夫でなく妻にしたのは、安兵衛との約束で一年のうち半分を穂高で暮らすことになる愛蔵の意見によったが、結果的に、女将さん社長の選択が、のちに絶大な経営効果をもたらすことになった。


(愛蔵の言うとおりではあるけど、安兵衛が知ったら、また出しゃばり嫁のやつがと苦い顔をされることだろう。でも、ま、いいか、思えば同じ屋根の下にいればこその憂いであり、こう遠く離れていては、いくら安兵衛でも口出しも手出しもできまい。いつまでも田舎の亡霊に取りつかれていずに、そろそろ自由に泳ぎ出さなきゃね)


 自分の店といっても、広々とした田舎の家屋に比べればおかしいほど小さく狭い。一階は商いスペースが大半で、窓のない、昼間でも暗くてじめつく三畳間に辛うじて安雄を寝かせておく状態、同じく窓のない二階の四畳半には、数人の店員が寝起きしている。手仕事を億劫がらない愛蔵は、屋根の瓦を剥がして天窓をつくってやった。



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 庄屋の嫁さんから一転してパン屋の女将さんになった黒光は、穂高時代の筒袖で、髪は櫛で巻いて頭頂でまとめ、食べもの商売ゆえ清潔に見えるように気をつかった。愛蔵は銀座木村屋の餡パンをヒントにジャムやクリームを入れた菓子パンを考案し、黒光はそれを木箱に入れて自ら明治女学校へ出向き、在校生全員にプレゼントした。


 結婚式で勝海舟の色紙を贈呈してくれた巌本善治校長をはじめ、職員室にいた教師たちはとつぜん現われた卒業生に驚き、もの問いたげな視線を送って来たが、黒光は気にしなかった。半生を支えて来た仙台藩士の末裔の誇りを忘れたわけではないが、いまは封印しておこう。穂高では能無し扱いだった身が自分の腕で生き始めたのだ。


(日本中の選り抜きの才女の集まりと言われる明治女学校出身者が下賤の商いをする。突拍子もない生き方、邪道と思うひともいるかも知れないが、案外、自活する職業婦人の先駆けになるかも知れない。店が学士や博士が集う文教地域にあることもなにかの導きかも知れない。よし、わたしは性根を据えて日本一の女将さんになろう)


 奇異な視線をものともせず、黒光は小柄な身体をきびきびと動かしてパン屋の女将さん稼業に徹した。自家製のパンを売って日銭を稼ぐ喜びは、無為徒食だった嫁時代の失われた四年を補ってなお余りあるものがあった。桑畑の桑摘みとか花見の水汲みなどなにひとつ一人前に出来なかったが、いまはこれ、このとおりと胸を張りたい。



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 居抜きで中村屋を譲ってくれた(このとき屋号を相馬に変えなかったのは、気持ちの余裕がなかったからだが、のちに仮称が大きく成長することになる)旧主夫妻は、素人の若夫婦が心配だと言ってしばらく手取り足取りで教えてくれた。とりわけ妻のお初さんの倹約ぶりと住み込みの店員たちへの労り方に見習うところが多かった。


 黒光には人知れぬ悩みがあった。「いらっしゃい」「毎度ありがとうございます」の挨拶がスムーズに出て来ないのだ。そんなことぐらいと笑われそうで、店を閉めたあと、外の暗がりでひそかに練習してみて克服する。客から「お女将さん」「おまえ」と呼ばれることにも少なからぬ抵抗があったが、それにも少しずつ慣れていった。


(この期に及んで無用なプライドを捨てきれないんだからいやになるわね。その点、愛蔵はまことにすかっとしたもので、もともと飄々淡々としているけど、旧店主から譲り受けた配達用箱車の「陸軍御用」の墨字をまず消したときは、このひとは性根が座っているとあらためて驚いたわ。そこへ行くと、わたしはまだまだ青くて……)


 ある日、いつもどおり紺の前垂れをつけて配達に行った愛蔵が帰って来て言うには「官吏になった同級生に道で会ったら、小僧の真似なんかしやがって同窓生の面汚しだと面罵されたよ。だけど、こいつにはおれの気持ちが分からないのだと思ったら、かえって清々しかったよ」天晴れと思いながら、黒光はわが夫を見直す思いだった。




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