第34話 教師も作家も、実践派の自分には向かない 👘



「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた千駄木林町は、その名のとおり郊外の雑木林の未開の地で、電気も引かれていなかったが、第一高等学校と東京帝国大学、森鴎外の観潮楼もあって文教の香が漂っていた。この地で平塚らいてうが『青鞜』を創刊するのは三十歳の愛蔵と二十六歳の黒光が家を借りて十年後のことになる。


 子どものために積んでおいた貯金はあるものの郷里からは一文の援助もない夫婦は裸一貫の出発だった。大事な跡取りと思えばこそ東京の学校へも出してやり、卒業後ほとんど衝動的に北海道へ渡ったときも大目に見てやり、たまたま興味を持った養蚕が当たれば「よくやったぞ」と褒めそやし、ここまで大事に育てて来たのだ。


 それをなんだ、武家の誇りばかり強くて家事も農事もろくに出来ない嫁の差し金で東京へ出奔とはふざけるにもほどがある。おれの庇護のもとでなければ生きて来れなかった事実も忘れ、自分の力でやって来たと思い上がっているから、ああいう戯言が吐けるのだ。よし、おもしろい、出来るものならやって見せてもらおうじゃないか。


 銭を得ることがどれほど大変なことか、こっぴどく思い知るがいい。なんの実績もない書生あがりのままごと夫婦の無様な顛末、じっくり見せてもらおうじゃないか。半年もせずに逃げ帰って来て、ふたりでおれの前に両手をついて詫びるだろう。そのときこそおれの太っ腹の見せどころというわけだ。俊子という人質もあることだし。


 安兵衛はそう考えているだろう。黒光には手に取るように分かるような気がした。夫には言えないが、人徳者と言われることをなにより喜ぶ、義兄はそういうひとだ。でなければ、疑いを知らない義姉に言い含めて田畑へ行かせ、そのすきに狐目の女と戯れ合うなどという不道徳をはたらくわけがない。思いはまたそこへ帰ってゆく。


(突き詰めてみれば、無教養が襤褸ぼろをまとって野良稼ぎしているような村人のなかにあって、もっともひとがわるいのが義兄さんなのかも知れない。なまじ徳があるふうを装っているから始末がわるいが、庄屋も小作百姓も、人間ひと皮むけばみな同じということか。武家とちがって見栄がないだけ正体が剥き出しになりやすいのだろう)


 男はけだもの、すきさえあれば女に触れようと虎視眈々と狙っている。思春期から青春にかけて培われた黒光の潔癖症な男性観は、安兵衛という表裏一体を間近にして決定的になった。おお、いやだ、全身を舐めまわす視線を思い出すだけでも鳥肌が立つ。それにしても、よく毒牙にかからずに済んだものだ。よくやったよ、お良さん。



      *



 義兄には申し訳ないが、その期待には絶対に応えてやれない。再びあの陰鬱な暮らしにもどるくらいなら愛蔵と別れて仙台へもどった方がどんなにいいか分からない。かといって決して愛蔵がきらいというわけではないから、ここはひとつ、書生あがりなら書生あがりらしい斬新なアイディアで、東京に根を張ってみせようじゃないの。


 つい先ごろまでの体調がうそのように体力を快復した黒光の漆黒の眸は、工夫でいかようにも道が拓けるであろう未来をきらきら見詰めている。明治女学校の卒業生が就く仕事といえば教師が大半、その気になって伝手を頼ればなんとかなりそうに思われたが、アクの強い性格を承知している黒光は、生徒に教える柄ではないと考える。


 もうひとつ『女學雑誌』にたびたび投稿して来た、その文才を活かして生きて行く道もないわけではないが、自分の書いたものが評価を受けた記憶がなく、星野天地が苦い顔をした例の恋愛小説もどきは新聞のスキャンダル記事のもとになったし、世間が褒めそやす一葉の浪漫主義に比すれば、自分は実践の女だと認識せざるを得ない。


 口惜しいが創作の才は自分にはない。かといって評論で立てるほどの力量もない。第一、二児の母になってなお文芸だの小説だのの見果てぬ夢を見つづけているより、さっさと頭を切り替えて有能な生活者に徹するべきではないか。望んでも持てぬものをいつまでも欲しがっていず、発想を転換させ、自分の長所を伸ばす道を考えよう。



      *



 田舎生活に馴染めない妻のために一大決心で出郷したことになっている愛蔵自身、じつは東京暮らしの方が性に合っていることを黒光はとっくに見抜いていた。義兄はあれもしてやったこれもしてやったと恩着せがましいが、自分で望んだわけではない相馬家の跡取りという立場で我慢せねばならないことが愛蔵にはたくさんあった。


 思いがけないかたちでそこから解放されることになったうれしさは隠そうとしても隠しきれるものではなく、偉丈夫のわりにひょいひょい軽い身のこなしや、穂高では聴いたこともなかった安曇節の鼻唄からもうかがい知ることができる。そして、腐っても鯛、ひとに使われたくない愛蔵がまず考えたのはミルクホールの経営だった。


 仕事といえば養蚕しか知らない身で商いに手を出そうというのだから冒険にはちがいない。古くからの伝統に客の信頼が集まりそうな呉服屋とか履物屋、書物屋、蕎麦屋などは避け、新時代の匂いが若い世代を呼びこむ洋風の店がいいという結論に至った。だが、さすがは生き馬の目を抜く東京、ひと足早く先手を打つ人物があった。



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☆黒光さんの性への過度とも思われそうな潔癖症、すこし分かるような気がします。ただ、安兵衛さんの性向が実際はどうだったか、いまとなっては……。 by真理絵




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