第5章 彫刻家・荻原碌山に熱烈に恋される

第33話 安兵衛のセクハラを愛蔵も知っていたはずで 🐄



 夕方、上野停車場の近くの旅館に荷物を運び入れた愛蔵は、部屋の真ん中に安兵衛似の身体を大の字に転がし、大きな伸びをしながら「ああ、なにもかもこれからだな。四年半か……おまえもよく堪えたが、おれも大変だったよ」と呟いた。それを言われれば返す言葉もない。ごめんなさい。素直に詫びる妻は激しく抱き寄せられる。


 夫は夫なりに妻は妻なりに、ぎゅうぎゅうに縛りつけられていた蔓から一気に解き放たれた思いだったが、黒光には愛蔵に言えていないことがあった。いや、夫だってうすうす知っているはずで、その点、ずるい兄弟と内心で思っている。夫も義兄も、たぶん義姉も、みんなずるい。あの広くて狭い屋根の下で……おお、ぞっとする。


(義兄さんがわたしを見る目、あれはたしかに男のものだった。あの家のどこにいても粘りつくような視線に絡めとられる気色わるさに身ぶるいし、何度も手を洗いたくなった。風呂へ入るとき、さらには御不浄へ行くときも、あの目が執拗に追いかけて来た。授乳のとき孫の髪を撫でるフリで乳房に触れられたことも一再でなかった)


 だから、あの目から逃れることも、出郷の大きな理由であることに思い至らないはずがない。それだけに自分から逃れる嫁がいっそう憎く、新生活の資金を一文も出さないという、子どもじみた振る舞いになった。愛蔵だって、気づかないはずがない。だが、尊敬する兄のことだし、嫂を傷つけることにもなるから黙っているのだろう。



      *



 もうひとつ、義兄に関しては遠戚の女との関係に疑いをもっていた。そういうことに疎い黒光といえど、夫を信頼しきっている義姉が気づかないのをいいことに真昼間からふたりで奥座敷に籠もっていたり、もの憂げに髪を乱し、顔を上気させて畑からもどって来たりする狐目の女の図々しさに、呆れを通り越し悍ましさを覚えていた。


(まったくあの田舎人の無教養を媒介にする淫乱ぶりといったらないわ。なにが美しい自然なものですか、住んでいる人間の醜悪さを知ったら、さすがの山岳も目を背けるでしょうに。愛蔵の禁酒会活動や芸妓置屋設置反対運動だって、いつの間にか白い眼を向けられるようになったけど、所詮、欲望のおもむくままに生きたいんだから)


 同じ兄弟でも愛蔵はそういうことに淡白なことが黒光はうれしかった。男はみんないやらしい、さかりのついたけだものと身ぶるいするなかに自分の夫だけは入れたくなかった。そんなご都合主義をと思わないでもないが、いやいや、なかにはそういう男がいてもおかしくはない、自分のような女がいるように……と解釈したかった。



      *



 東京へ妻子を置いた愛蔵がとんぼ返りで穂高へ帰ったのは、井口喜源治の研成義塾を会場にする内村鑑三講演会の発起人代表としての挨拶を述べるためだった。上京はそのあとでもよかったのに、無駄な汽車代を承知で出郷を急いだのは、もうこの家の家族ではないと言わんばかりの義兄夫婦との軋轢が相当に深まっていたからだった。


(愛蔵が安兵衛に上京を申し出て十日もせずに出郷したのは、それからの時々刻々が文字どおり針の筵だったからだが、隣近所へは若夫婦の、とりわけ嫁のわたしの身勝手の証しとしてさんざんに喧伝されているはず。村の女衆の鵜の目鷹の目が目に見えるようだが、もうあのモヤモヤに悩まなくていいのだからなんと幸せなことだろう)


 愛蔵が穂高へ帰っているあいだ黒光は安雄を連れて仙台へ帰省した。愛蔵の再上京を待って本郷千駄木林町に貸家を借り、親子三人水入らずの生活がスタートしたとき九月も下旬にさしかかっていた。子ども用に貯めておいた三百円しか資金がないので倹約に倹約を重ねて当面をやり繰りするしかないが、それすら心弾むことだった。


(いまに見ているがいい、書生あがりの夫婦になにが出来ると嘲笑っていた人たちに目にモノ見せてやる。愛蔵とわたしと、持てる知恵と工夫を存分に出し合って、身を粉にして働く努力を惜しまなければ、成して成せないことなどあるはずがない。あの陰鬱な穂高での日々を思えば、どんな苦労だって苦労のうちには入らないのだから)


 あれほど辛かった喘息や頭痛や腰痛も、まるで一気にお引き取り願いましたとでもいうように、すっきりと快復した黒光は「病は気から」を身をもって痛感し、まさにこれから始まる輝かしい未来を見据えて、明治女学校時代、それがお良さんの一番の魅力だよと言われることもあった情熱的な漆黒の眸をきらきら輝かせるのだった。




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