第32話 上京は許してやるが、俊子は置いてゆけ 🛣️



 愛蔵から上京の件を告げられたとき、黒光は自分の耳を疑った。「え、ほんとに?! よく許してもらえましたね」「なあに、おれだって本当は自由に羽ばたきたいのさ」「それは知っていましたけど、それにしても、よくもまあ……」「兄きも肚をくくっていたのだろう、ただし、資金は一文も出すつもりがないようだ」「そうですか……」


 つまり、跡取り夫婦の身勝手をひとまず許してはやるが、決して賛成するわけではないということを知らしめたかったのだろう。愛蔵からそう言われて黒光はかえって闘志が湧いた。なに、ここでの苦労を思えばなんでもできる、いや、やってみせる。それよりここというとき男気を見せてくれた愛蔵をあらためて見直す思いだった。


「あにさから条件をつけられた」「ほう、いかような?」「安雄を相馬本家の相続人にすることと、養蚕が忙しい春から秋までを、おれが穂高で暮らすこと」「まあ、義兄さんとすれば当然でしょうね」「それからもうひとつ……俊子をのこしてゆくこと」「えっ、そんな、ひどい!!」黒光は絶句する。あまりの非情に身体がふるえて来た。


「大丈夫だよ、兄さと義姉さが、ちゃんと見てくれるから。手がかかる子をふたりも連れて行くよりおれたちも助かるし。なに、ずっとというわけじゃない、そのうちに折りを見て返してもらうようにするから」「でも、父母と離れる俊子が不憫で……」「もともと年寄りっ子じゃないか」「だってあの子と簡単に会えなくなるんですよ」


(人徳者と讃えられる義兄さんのなさることはひどい。母親から子どもを取り上げるほどの仕打ちがあろうか。夫はああいう性格だし、自分の身内のことだからいいようにしか考えないけど、わたしには分かる、安兵衛義兄さんの冷酷な心のなかが……。はっきり言えば、底意地がわるいのだ。それはこの村の衆に共通のものだけれど)


 上京の喜びと子別れのさびしさに苛まれながら一夜を明かした黒光は、のほほんとしている愛蔵に救われて荷物をまとめ始める。愛蔵の言うとおり、俊子は置いてゆくほうがあの子のためだと無理やりにも思いながら、米の研ぎ水を捨てたとき以外には叱られたことがない義兄の芯の氷に触れた思いで、寒々しい気持ちになっていた。



      *



 明治三十四年九月十日、愛蔵と黒光夫妻は、新天地となる東京へ向けて出発する。生後十か月の安雄をおぶった女中、行李を背負った養蚕の研究生が途中まで同道してくれた。傷ついた心身をゆだねた花見の榛の木林に至る坂をくだり、水車小屋と湧き水のあたりでそっと振り返ってみたが、捨てて来た窓には人影が見えなかった。


「いいな、俊子にはなにも知らせずに発てよ」きびしく義兄から言われていたので、いつもどおり祖父母と遊んでいるおかっぱ頭に別れを告げることもできなかったが、父母のいないことに気づいたあの子は……なみだが滂沱と流れて足もとを滲ませる。ごめんねごめんね、冷たいおかあさんをどうか許してね、俊子……。(´;ω;`)ウゥゥ


 鉄道の延長の恩恵で保福寺峠越えの必要はなくなっていた。新宿発の中央線はまだ松本まで届いていなかったが、穂高から安曇野をまっすぐ東方に横ぎれば西条駅で、そこから篠ノ井に出れば信越線が上野まで運んでくれる。黒光の体調を案じる愛蔵の配慮で、その夜は篠ノ井の先の長野で一泊して、つぎの朝早く、東京へと出発した。



      *



 途中の小諸で下車したのは、木村熊二主宰の小諸義塾で教師をしている「石炭ガラ」こと島崎藤村を訪ねるためだった。黒光は気乗りしなかったが、いま巷で評判の詩集『若菜集』の作者を尊敬している愛蔵がぜひ恩師を訪ねよと言う。それならばと気を変えて、明治女学校の寄宿舎で後輩だった妻の冬子を訪ねるつもりになった。


 藤村は生徒を連れて修学旅行中ということだったが、むしろ幸いと黒光は冬子との談笑を楽しむことにする。「あの人、新婚間もないときに『いったいおまえはどんなつもりでおれなんかのところに嫁に来たんだい』なんて言うのよ、ひと晩を泣き明かしたわ」と言いながら冬子が見せてくれたのは第四詩文集『落梅集』だった。


 どうやら石炭ガラ先生は詩人を脱して作家を目指しているらしい。失恋の痛手から腑抜けのような授業をしていた明治女学校でつけたあだ名の妙を思い出して、黒光はまたしても出遅れを感じていた。山国の山や人間たちに圧迫されて暮らすうちに文学やらアカデミックやらとすっかり縁遠くなっている。でも、なに、これからだわ。


(布施淡に振られた腹いせに嫁いだような愛蔵だけど、がつんとした手ごたえはないものの悠揚迫らぬふところであることが分かっただけでも儲けもの。淡さんは貧乏のなかで早逝したし、いまとなってはどっちがよかったか分からない。よおし、いまに見ていらっしゃい、田舎に負けた惨めな敗残者から雄々しく立ち直ってみせるわ)


 冬子とそれぞれの子どもたちを褒め合ったりして、なごやかな母親らしいひとときを過ごした黒光は「よくしゃべるなあ。旧友と一緒だと、そんなに話が弾むんだな、おまえさんは。よくよく穂高の水が性に合わなかったものと見えるなあ」愛蔵に呆れられる自分を否定せず、むしろ、そのとおり!! 高く胸を張りたい気持ちだった。





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