第42話 代表作『女』をのこし三十一歳の碌山逝く ⛪



 明けて明治四十三年、次男・襄二が小児結核に罹患して寝こむと、伝染を心配する愛蔵や黒光の制止をふりきり、碌山はつきっきりで看病する。あまりの入れこみ用に口さがない人たちは「もしや自分の子ゆえなのでは?」とうわさしたが、そんなことは気にもかけず、鎌倉に転地後も付き添い、じつの両親も及ばない世話を全うする。


(あの子が碌山さんの子? そんなわけないでしょう、いっさい身に覚えがないんだから。何度も言うけど、わたしの夫は愛蔵で、それ以外の男性に肌を見せるなど、このわたしが自分に許すわけがない。身体の一心同体はひとりだけど、プラトニックなつながりは何人の老若男女と持とうと他者にあれこれ言われる筋合いはないしね)


 三月、襄二が四年の短い生涯を閉じると、嘆き悲しむ両親に代わって、碌山は黒光が尊敬する若松践子(巌本善治の妻)の墓地を探し出し、小さな骨壺を収めるように取り計らった。熱を出した子が母の胸に抱かれている小品『母と病める子』は、描いた碌山にとっても、描かれた黒光にとっても、見るのも辛い忘れ形見となった。



      *



 その譲二の看病と並行して進めていたのが『デスペア』と対を成す『女』だった。「あなたのようにくよくよしているだけでは前に進めないでしょう。その苦悩を制作の糧にするべきよ」と叱咤する黒光の勧めに「シスターの言うようにはいかないよ」弱々しく抵抗しつつもしぶしぶ取りかかった作品は、襄二の葬儀のあと完成した。


 碌山から知らせを受けた黒光は何人かを連れてアトリエへ駆けつける。両手を腰のうしろで組み、膝立ちの上半身をのけぞらせた等身大の像を見た千香子が「あ、かあさんだ!!」驚きの声を発すると、ほかの人たちも黙って一様にうなずいた。黒光への恋煩いに加え重い皮膚病にも悩んでいた碌山も、さすがにうれしそうだった。


 みんなの視線を避けながら黒光は、譲二の納骨のあと中村屋へ帰って来たときに、とつぜん頓狂な声で歌い出した碌山を思い出していた。画家・渡辺与平と妻・文子を謳う戯れ歌「与平可愛いやおふみに惚れて秋のサロンに撥ねられた」は画学生たちに流行していたが、自分の不甲斐なさを、そんな俗謡で表現したかったのだろうか。


(困るわね、守衛さにも。いまだに、かあさん、一緒にアメリカへ行こうなんて熱にうかされたように言うけど、愛蔵はともかく、大事な子どもたちを残してそんなことが出来るわけないじゃないの。せっかく育てたこの店だって、わたしがいなくなれば狐女が主婦然として乗りこんで来るに決まっている。そんな屈辱だけは絶対にいや)


 自他共に芸術に理解があるとされながらも、じつのところ働いただけレスポンスがある日銭稼ぎの商売に面白さを見出している現実派の黒光の思いをどう受け留めているのか、冷静な目で眺めれば、碌山は滑稽なひとり相撲をどっているに等しかった。はた目にはなぜよりによって? と不審がられのが恋の魔性の常道ではあるが……。



      *



 パン店の経営に専念するようになって大旦那の風格が出て来た愛蔵は、店に隣接する写真館を買い取り、碌山の年下の友人画家・柳敬助のアトリエを建ててやったが、桜も満開を過ぎた四月二十日はその竣工日に当たり、後輩のために自ら陣頭指揮をとっていた碌山は、中村屋にやって来ると、炬燵のある茶の間にごろりと寝ころんだ。


 針仕事をしている黒光を見つめ「やっぱり、かあさんは女原人だ」元気のない声で呟いていたが、十時前、気分がわるいから帰ると言い出した。愛蔵ともども泊まっていくように勧めたが「帰らせてくださいよ。ぼくにはそのほうがいいんだよ、かあさん」英語で答えた。ならばとお茶を煎れて話しているとき、とつぜん喀血する。


 往診に来た近所の医者も何度もの吐血に手を出しかねているふうだったが、浅草から兄の本十が駆けつけると、少し容体もおさまり「腹が減ってたまらない」「ついにぼくもこんなことになった」と黒光に言って、笑ったり泣いたりした。早稲田の病院の医師が立ち去ると、黒光の知らせでやって来た孤雁と親友同士の筆談が始まった。


 手配した大学の医師が帰ってからまた吐血したので、近所の医師が呼ばれて注射を打つ。孤雁「苦しくないか」碌山「苦しくない」そんな会話のあと、碌山は、黒光ではなく孤雁のほうに手を差し伸べると、そのまま、ことんと眠るようにみまかった。明治四十三年四月二十日午前二時三十分、三十年四か月の苦悶に満ちた生涯だった。




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