第42話 婚約--後編--

 オリアスから結婚の申し込みを受けたヒルドは、呆然とした表情で相手を見つめていた。

「あの…大変光栄なお話なのですが、ですが、あの…」

 口ごもりながら言って、ヒルドは思わず自分の腹に手を当てた。

 オリアスの実の兄とは言え、他の男の子を身篭っている状態での結婚の申し出など、文字通り青天の霹靂だった。

「急な話で驚いただろうが、私はこの三日の間、ずっと考え、そして下した決断なのだ。今すぐにとは言わぬが、良い返事を期待している」

「……はい、アルヴァルディ様」

 呆然としたまま、それだけヒルドは答えた。


 オリアスの去った後、すぐにアルネイズが部屋に入って来た。

「アルヴァルディ様はまたお見舞いに来て下さったのですか?」

「お見舞い…と言うか、その…」

 ヒルドは途中で一旦、言葉を切り、それから続ける。

「私の聞き間違いでなければ、結婚を申し込まれました…」

「結婚…!?」

 驚いて、アルネイズは訊き返した。

「それは…こんな時でなければとても名誉な話ですが、一体、どうして…」

「その…私の心の強さと美しさに惹かれたのだと、仰って頂きました…」

 平素の気丈な女戦士ヴァルキュリアとは別人のようにはにかんで、ヒルドは言った。

 アルネイズは微妙な表情を浮かべ、俯いている娘を見つめる。

「…お腹の子をどうなさるおつもりなのか、何か仰っていましたか?」

「子に罪は無いし、薬で安全に流すには、時期が遅すぎるのだそうです」

「では、アルヴァルディ様の御子として…?」

「ヒルド、入るぞ」

 ヒルドが頷いた時、扉の外から野太い声がした。


 扉を開けて入ってきたのは、ヒルドの父、ボルソルンだった。

 ヒルドは慌てて寝台に横になり、顎の上まで布団を被った。

 自殺未遂の傷に巻いた包帯を隠す為である。

 ボルソルンはヒルドが自害を図った日の朝から領地の視察に出かけており、たった今、戻った所だった。

「儂と行き違いにアルヴァルディ様が来ていたと聞いたが、本当か?」

 寝台の傍らの椅子にどっかりと腰を降ろし、ボルソルンは訊いた。

 ヒルドは困惑した表情を浮かべ、ボルソルンとは反対側に座っているアルネイズを見上げる。

 アルネイズは僅かな間、躊躇っていたが、すぐに決意して、笑顔で夫に向き直った。

「はい。ヒルドに結婚の申し込みにいらっしゃったのです」

「本当か? それは目出度い」

「母上…。私はまだ、お受けすると決めた訳では…」

 破顔 したボルソルンは、ヒルドの言葉に怪訝そうな表情を浮かべる。

「何を言っとるんだ。断るなんて選択肢があるものか」

「お断りするのが非礼にあたるのは承知しています。ですが――」

「ヒルド」と、ボルソルンは相手の言葉を遮った。

「この際だからはっきり聞くが、お前がこのところ体調を崩していたのは、子ができたからだな?」

「仰る通りです。ヒルドが隠していたので、私も知ったのはつい三日前の事です」

 ヒルドが口を開く前に、アルネイズは言った。

 ボルソルンは顎鬚に手をやり、にやりと笑う。

「正式に婚約する前に子ができたから、それを恥じて隠しておったんだな。だがもう隠す必要は無いし、恥じるような事でも無いぞ」

「ですが、父上…」

「お前まさか、アルヴァルディ様にまで隠しておったのか?」

「そうなのですよ」と、おっとりと微笑んでアルネイズは言った。

「三日前、アルヴァルディ様が侍医をお連れになってヒルドのお見舞いにいらした時、ようやく懐妊している事を認めたのです」

「いかにも箱入り娘らしいと言えばらしいが……どうしてそうまで頑なに隠しておったんだか」


 怪訝気な表情で、ボルソルンはぼやいた。

 ヒルドは父から目を逸らし、口を噤む。


「だがその事はもう良い。すぐに儂から承諾の返事をしよう」

「ですから父上、私はお受けすると決めた訳では…」

「断る理由がどこにある。お前は初めてアルヴァルディ様にお会いした時からずっとあの方に惚れておっただろうが」

「なっ…」

 ボルソルンの言葉に、ヒルドは頬に血が上るのを感じた。

「私はアルヴァルディ様を尊敬し、側近護衛官として身命を賭してお守りする所存ですが、それは忠誠心であってその…惚れるとかそういう感情では……」

 ヒルドの言葉に、ボルソルンはいっそう怪訝そうに眉を顰める。

「何だ、お前。自分の気持ちに気がついておらなかったのか」

「え……?」

「お前がアルヴァルディ様の事を話す時の自分の顔を鏡で見ていたら、いやでも気づいておったろう。最初は小娘のただの憧れかと思っておったが、お前はあの方の側近護衛官になる為、文字通り血の滲む努力をした。生半可な気持ちで出来る事じゃない」

「ですからそれは忠誠心であって――」

「だったら何でそう、顔を紅くしている?」


 ボルソルンの問いに、ヒルドは答えられなかった。

 頬が熱いのは自分でも自覚していたし、心臓の鼓動まで速くなっている。

 オリアスと初めて会った時にもそうだったし、任官して最初の挨拶をした時にも、側近くで仕えるのに慣れるようになるまでもずっとそうだった。


「それとも何か。小娘がよく口にする『幸せすぎて恐い』とかいう奴か? さもなければ嬉しすぎて頭がおかしくなったか?」

「あなた…。余りからかわないでやって下さいな」

 満面の笑みを浮かべて言うボルソルンに、アルネイズも微笑んで言った。

 ヒルドは顔が半ば隠れるように布団を引き上げた。

「……私が本当にアルヴァルディ様のお妃に相応しいのか、自信がありません…」

「たわけた事を」

 呆れたように、ボルソルンがぼやく。

「儂はアルヴァルディ様のお妃に相応しい娘となるようにお前を育てた。側近護衛官に仕官を願い出たのもその為だ」

「その為…?」

 驚いて、ヒルドは訊き返した。

 ボルソルンは頷いて続ける。

「さもなければ何で男の王族に女の側近護衛官がついていると思っておるんだ? 儂も、他に娘を護衛官に差し出している他の親たちも、女戦士を側近護衛官に認めたスリュム様も、皆、同じ心づもりでいる筈だ」

「…私はそんなつもりだった訳では――」

「スリュム様はたおやかな姫君をお妃になさったが、本来ヨトゥンヘイムの国母に相応しいのは身も心も強い女だ。アルヴァルディ様の好みが判らないから大人しい娘を侍女に差し出している親たちもいるが、女戦士ヴァルキュリアからお妃が選ばれるのが一番だと、大概の戦士エインヘリャルは考えている。お前は儂のしごきに耐えて強い女戦士となったし、母親に似て美人だ。お前が相応しくないと言うなら、一体、誰ならアルヴァルディ様のお妃に相応しいと言うんだ?」


 ボルソルンの言葉に、ヒルドの脳裏に浮かんだのはファウスティナの姿だった。

 とても笑っているようには見えない冷たい作り笑いを浮かべたファウスティナと、無表情で淡々と話すエレオノラの姿が。

 ――もし私がお断りすれば、いずれあの二人の内のどちらかがお妃に選ばれるのだろうか…?

 そう考えると、胸がずきりと痛むように、ヒルドは感じた。

 ――さもなければ私以外の女戦士の側近護衛官か、アルヴァルディ様付きの侍女の誰かから…?

 側近護衛官の見習いになった頃、他の女戦士たちからは冷たくあしらわれた。

 侍女たちとは余り交流が無いので良くは知らないが、自分よりもアルヴァルディの妃に相応しい女が侍女や他の女戦士たちの中にいるとは思えない。

 と言うより、思いたくない。


「…判りました、父上。アルヴァルディ様からの結婚のお申し出、謹んで受けさせて頂きます」

 心を決めた娘の言葉に、ボルソルンは笑みを浮かべ、何度か頷いた。



 ボルソルンは身なりを整えてすぐに王城に向かい、アルヴァルディに結婚の申し出を受ける旨を伝えた。

「ヒルドは百年来の望みが叶ってとても喜んでおります」

「そうか」

 微かに微笑して、短くオリアスは答えた。

「今から父上に話してくる。父上の許可が得られれば、正式に婚約だ」

「ではお話が済むまで待たせて頂きます。こういう目出度い話は早い方が良いですからな」

 言ってボルソルンは、そのまま控えの間で待つ事になった。



 オリアスはすぐにスリュムを訪れた。

 スリュムはゲイルロズとベルゲルミルと共に私室にいた。

 ベルゲルミルはアールヴを連れて狩りに出ていた。

「父上。大切な話があるのだが」

「おう。何じゃ、改まって」

「すぐに兄上たちにも伝える事になると思うが、まずは父上だけに話したい」

 オリアスの言葉に、スリュムは手を振ってゲイルロズたちを下がらせた。

「単刀直入に言うが、妃を娶る事にした。ボルソルン大将軍の娘で、私の側近護衛官を務めているヒルドだ」

 スリュムと二人きりになるなり、オリアスは言った。

 スリュムは怪訝そうに眉を顰める。

「…それだけ聞けば目出度い話に聞こえるが、わざわざ人払いをしたからには目出度く無い理由があるんじゃな?」

「ヒルドは懐妊しているのだ。三ヶ月になる」

 オリアスの言葉に、スリュムは一瞬、意外そうな表情を見せたが、その表情はすぐに険しいそれに変わった。

「儂の記憶が正しければ、ヒルドというのは密使としてヘルヘイムに行った女戦士じゃな。それも三ヶ月前に」

 オリアスは黙って頷いた。

 スリュムの表情が、一層、険しくなる。

「…まさかとは思うが、ヒルドを孕ませたのはアグレウスか?」

 再び、オリアスは黙ったまま頷いた。

「あの腐れ外道が…!」


 低く、唸るようにスリュムは言った。

 そして傍らの小卓から酒盃を取り上げ、一気に飲み干して荒々しく小卓の上に置く。


「それで、何でお前がヒルドを娶る事になるんじゃ?」

「事を荒立てて兄上を非難すれば、ヘルヘイムとヨトゥンヘイムの関係を悪化させる事になるし、母上も悲しむだろう」

「じゃがアグレウスはお前の側近護衛官に手を出したんじゃぞ? それを――」

「その通りだ」と、オリアスは相手の言葉を遮った。

「ヨトゥンヘイムの王太子である私の側近護衛官を、ヨトゥンヘイム王である父上の使者であるヒルドを、兄上は陵辱したのだ。これはヨトゥンヘイムに対する侮辱であり、これ程の汚辱を受けながら、何事も無かったかのように水に流す事などできぬ。だが表立ってヘルヘイムの皇太子を詰責するとなれば、戦の覚悟も必要となろう」


 厳しい口調でオリアスは言ったが、その表情はむしろ哀しげだった。

 スリュムは口を噤んだまま、ただ低く唸る。

 オリアスは一旦、口を噤み、やがて改めて父に向き直った。


「ヒルドの懐妊を公表する事で、私は兄上に知らしめるつもりだ。私が兄上のした事を知っている事、それを赦すつもりが無い事。だが、今は事を構えるつもりは無い事を」

「…つまりは、あいつに対する最期通告か」

「そうだ。二度とこのような事があってはならないし、もしも起きた時には、ヨトゥンヘイムに対する敵対行為と看做すつもりだ」

 スリュムは厚い胸の前で太い腕を組み、わずかの間思案していたが、すぐに口を開いた。

「お前の言う事は判った。そして今は事を荒立てないが、奴に対する最期通告が必要なのも同じ考えだが…ヒルドを妃にする必要があるのか?」

「ヒルドやボルソルン将軍の不名誉にならない形で懐妊を公表する為には必要な措置だ。それに私もいずれ妃を娶らねばならない。まだ早いと思っていたから今まで真剣に考えた事は無かったが…。真剣に考えれば、ヒルド以上に妃に相応しい者はおるまい」

 スリュムは暫く考えるように口を噤んでいたが、やがて訊いた。

「じゃが、子供が男だったらどうする?」

「幸い、と言うべきか、ヨトゥンヘイムでは長男が世継ぎになるとは決まっていない」

「婚約と懐妊だけ公表して、子はすぐに流せば良いんじゃないのか?」

「父上と母上の孫なのだから無体な真似はしたくない。それに、ヒルドの身も危険に晒す事になる」

「じゃがもし…ヒルドの胎の子の父親がアグレウスだと、誰かに勘付かれたらどうする?」

 スリュムの問いに、オリアスは僅かに間を置いて言った。

「それを防ぐ為にも敢えて今、公表するのだ。ヒルドが三ヶ月前に密使としてヘルヘイムに赴いた事は極秘だが、城を出る姿は誰かに見られているだろうし、ヘルヘイムの侍女の幾人かは、あの夜に起きた事を知っているだろう。そしてヒルドが出産する時になって月が足りぬとなれば、様々な憶測が流れる事になる。だが今、婚約と共に懐妊を公表すれば、子供の父親が誰なのか勘ぐる者はおるまい」


 スリュムは尚も暫く黙って思案していた。

 それから盃に半分ほど酒を注いでゆっくりと飲み干し、口を開いた。


「…ボルソルンは儂の古くからの盟友で、ヨトゥンヘイム建国に多大な功績があった男じゃ。妻はアルフヘイムからの落人おちうどじゃが、由緒ある家柄の出だと聞く。娘のヒルドは女戦士としてはヨトゥンヘイム一とも呼ばれる女傑で、お前と並んでもみすぼらしく見えない程度には美しい――確かに、妃としてこれ以上の候補はおらんな」

「『みすぼらしく見えない程度』とは、酷いな」

 苦笑して言ったオリアスに、スリュムはフンと鼻を鳴らした。

「仕方あるまい。お前はフレイヤに似ておるんじゃ。フレイヤ以上に美しい女も、フレイヤ並みに美しい女もこの世にはおらん」



 その日の内に、オリアスとヒルドの婚約が発表された。

 ヒルドの懐妊も同時に公表され、使者が豪族たちの元に遣わされ、国中に布令ふれが広められた。

 王太子の婚約と婚約者の懐妊は、二重に目出度い事として、国中が祝賀に沸きかえった。

 婚約を伝える使者はヘルヘイムにも遣わされ、すぐに慶賀の準備が始められた。


 だがこの婚約を喜ぶ気になれない者は、ヘルヘイムに少なくとも二人はいた。

 一人はアグレウス、もう一人はファウスティナだった。

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