第43話 完璧な貴婦人
「二の宮様のご婚約の話、お聞きおよびかえ?」
「ええ、おばあ様」
レオポルドゥス公爵夫人の問いに、ファウスティナは作り笑いを浮かべて答えた。
二の宮とは第二皇子の旧称で、今では古風な言い回しを好む者しか使わない尊称である。
「お相手はヨトゥンヘイムの貴族の姫君とか聞きましたが、そなたは確か、先ごろ女皇陛下のお供でヨトゥンヘイムを訪れていたのでしたよね?」
「はい、おばあ様」
祖母の次の問いを予測しながら、ファウスティナはただ短く答えた。
この祖母を相手に下手に気を回しても「そんな事は訊いておりませぬ」と返されるのが常なので、相手が質問を口にするまで辛抱強く待つしかない。
女官としてフレイヤに仕えるファウスティナが宿下がりして公爵領の城に戻ったのは、話があるからと祖母に呼び出された為だ。
面倒な事になるのは予想できていたが、祖母からの呼び出しには逆らえない。
祖母のセンプロニアは先代の公爵の長女で、男兄弟がいなかった為、近縁の伯爵家の三男坊を婿養子に迎えて爵位を継がせた。
爵位を継承できるのは男子のみという法があるせいだが、彼女は使用人たちを
元々温厚な性格である夫は大人しく妻に従ったので波風は立たなかったが、公爵家の力関係を見誤った息子の妻(つまりファウスティナの母)は、その過ちを死ぬほど悔いる事となった。
そしてファウスティナはその母から、「おばあ様に逆らってはなりませぬ」と、幼い頃から繰り返し、言い聞かされて育ったのだ。
「して、そなたはその折にその姫君にお目もじ叶う事はあったのかえ?」
「ええ、二度ほどございました」
「二度ほど」
鸚鵡返しに言って、センプロニアは興味ありげな色をわずかに目の端に浮かべた。
ファウスティナ自身がそうであるように、祖母も感情をおもてに表すという事が滅多にない。
見る者によってはセンプロニアは全くの無表情に見えるだろうが、幼い頃から常に祖母の顔色を窺っていたファウスティナは、微妙な変化も気づくようになっていた。
「二の宮様のお妃になられるお方なのですから、さぞやお美しい姫君なのでしょうね?」
「はい。とてもお美しく…そしてとてもお健やかそうなお方でした」
慎重に言葉を選びながら、ファウスティナは答えた。
婚約が正式に発表された以上、オリアスの将来の妃となるのだから無礼な発言はできないが、かと言って通り一遍の無難な表現を並べただけでは、祖母を満足させる事はできないだろう。
彼女が内心、知りたがっているのは、何故ヒルドが婚約者に選ばれたのか、そして何故ファウスティナが選ばれなかったのか、その点に尽きるからだ。
無論、ファウスティナはヒルドがオリアスの妃に選ばれた理由など知らぬし、ヒルドについても殆ど何も知らない。
それでも、何故ヒルドが選ばれたのか――と言うより、何故自分が選ばれなかったのか――祖母が納得するように説明しなければならないのだ。
「『お健やかそうなお方』とは、どのような意味です」
「ヒルド様は、オリアス様の側近護衛官でらっしゃるのですわ。つまり、女兵士でいらっしゃるのです」
「女兵士…」
再び鸚鵡返しに、センプロニアは呟いた。
ほんの一瞬だったが目を細め、微かに眉根が寄って表情が険しくなる。
が、すぐにまた平素の無表情に戻って続けた。
「貴族の姫君が兵士としてお仕えするとは、一体どのような状況なのか、
「私も詳しくは存じませぬが、ヒルド様の父君のボルソルン様は大将軍としてスリュム王陛下に古くからお仕えしておられ、ヨトゥンヘイム建国に多大な功績があったので、貴族に列せられたのだと伺っております」
「…立派な功績を挙げられたお方なのですね」
センプロニアは言ったが、意訳すれば「生まれながらの貴族では無いのね」となるのだと、ファウスティナは内心で思った。
レオポルドゥス公爵家は皇家に匹敵するほど古く由緒ある家柄であり、公爵家の者は――家人はもちろんの事、使用人に至るまで――その事をとても誇りに思っている。
そして公爵家の事実上の主であるセンプロニアは、その誇りと矜持の権化のような存在だった。
それゆえ、他者の生まれや出自に関しても、敏感に反応する。
「ファウスティナ」と、センプロニアは改めて孫娘に向き直った。
「そなたが女官として女皇陛下にお仕えするようになった日の事、覚えておいででしょうね」
「はい。よく覚えております」
「あの時、妾がそなたに何を話して聞かせたかも?」
やはり来たか…とファウスティナは身構えた。
一旦、わずかに俯いてから、改めて作り笑いを浮かべる。
「もちろん、忘れてはおりませぬ。おばあ様は私をどこに出しても恥ずかしくないよう、教育し、躾け、育てて下さいました。その為に教育係や侍女を厳選して下さいましたし、交流する貴族の方々も、おばあ様のお目に叶った特別に気品と教養のある方に限られ、私が自然と品位と優雅さを身に着けられるよう、計らって下さいました」
それがどれほど退屈で気詰まりな日々であった事かと、ファウスティナは内心で溜息を吐いた。
好奇心旺盛な少女の頃、社交の場で他家の少年と微笑みを交わしただけで「思慮が足りない」と咎められ、年の近い少女たちとお喋りに興じれば「落ち着きがない」と非難された。
かと言って黙っていれば「社交性が無い」とけなされ、目立ちすぎる事も、目立たなすぎる事も許されなかった。
日頃から正しい姿勢で優雅に座り、美しく歩く稽古をさせられ、教養を身につける為に数百篇もの古臭い詩を暗唱させられた。
普段の生活が窮屈なので園遊会や舞踏会といった日には羽を伸ばしたかったが、そういった社交の場では祖母の目は一層、厳しく光り、ファウスティナが理想的な貴婦人として振る舞う事を過剰なまでに期待した。
そしてその理由は明らかだった。
センプロニアは、レオポルドゥス公爵家から国母を挙げる事を強く望んでいるのだ。
その為にファウスティナは、アグレウスかオリアス、どちらかの妃にならねばならない。
フレイヤの女官として宮中で仕えさせるよう仕向けたのもその為だ。
それなのにオリアスは、ファウスティナを選ばなかった。
センプロニアの失望は察して余りある。
失望だけでなく、憤りも。
完璧な貴婦人に育て上げたはずの孫娘が、成り上がり者の娘である女兵士に後れを取ったのだ。
自らの血筋と家柄を誇るセンプロニアに取って、殆ど屈辱的な出来事と言えるだろう。
「そなたが
溜息交じりに言った祖母の言葉に、ファウスティナは答えに詰まった。
否定すれば高慢と取られるし、肯定すれば祖母のこれまでの『努力』を無駄にした事になってしまう。
「…まだまだ未熟な身ですので至らぬところはございましょうが、おばあ様がこれまで私に教えて下さった事、私の為にして下さった事は、一つも無駄にせぬよう、日々務めております」
ですが、と、祖母が口を開く前にファウスティナは続けた。
「ご存じの通り、ヨトゥンヘイムとヘルヘイムとでは気風と申しますか文化と申しますか、とにかく価値観が大きく異なっているのでございます。かの国では、武芸に秀でている事が何よりも重視されるのだそうです」
「…貴族の姫君が兵士として二の宮様お仕えしているのも、それが理由だとお言いかえ?」
「お言葉の通りだと存じます」
ですが、と、センプロニアが二の句を告げる暇を与えずファウスティナは続けた。
平素ならば訊かれた事に答える以上の事を自分から話すのは祖母に対してはタブーなのだが、今は何とかして祖母の憤りを宥めなければならない。
さも無ければ夜更けまで繰り言を聞かされる羽目になるだろう。
「東宮様におかれましては、二の宮様とは異なる価値観をお持ちの事と存じます」
ファウスティナの言葉に、センプロニアは口を噤み、孫娘をまっすぐに見つめた。
祖母が黙ってしまったので、ファウスティナはどうしたものかと迷ったが、そのまま作り笑顔を浮かべて沈黙を守った。
やはり喋り過ぎるのは良くない。
オリアスの妃には選ばれなかったがアグレウスに選ばれる可能性はまだ残っているし、過ぎた事を思い悩むより先の事を考えた方が建設的だと、センプロニア自身が結論付けるのを待つべきだ。
「…そなたは東宮様のお妃に選ばれねばなりませぬ」
やがて口を開いて言った祖母の言葉は、ファウスティナが予想した以上に直接的だった。
ファウスティナの口元から、笑みが消える。
センプロニアがこんな風にはっきりと物を言うのは珍しい事であり、それはつまり、絶対に譲れないのだという決意の表れだ。
「…心得ております、おばあ様」
再び作り笑いを浮かべてファウスティナは言ったが、内心では殆ど泣きたい気持ちだった。
退出を許されて祖母の居間から自分の居室に戻り、長椅子にきちんと座ってからファウスティナは溜息を吐いた。
それから長椅子の上に身を投げ出して寝そべる。
祖母に見られたら、三日間は小言を言われ続けるだろう。
――オリアス様は自由なのよ。私と違って……
心中でぼやいたファウスティナの脳裏に蘇ったのは、アールヴの成人の儀式での出来事だ。
あの時は皇族や主だった貴族の全てが列席する荘厳な儀式だと言うのに、オリアスは遅刻した上、広間に駆け込んで来たのだ。
その姿を見た時、ファウスティナは初め驚き、そして次には不安になった。
こんな厳粛な儀式の場をそんな不作法でかき乱して、どうなってしまうのか我が事のように心配になったのだ。
その少し前にアールヴがアグレウスに駆け寄っていたが、アールヴは周囲から知恵遅れとして認識されているので、幼子のように振る舞う姿もそれ程、奇異では無かったが、オリアスは聡明で教養があり、しかもヨトゥンヘイムの王太子である。
礼儀作法の点で『おおらか』な面があるのはファウスティナも知っていたが、まさかこんな正式な儀式の場で子供のように振る舞うとは思ってもいなかったのだ。
だがファウスティナの心配は杞憂に終わった。
オリアスはそんな風に勝手に振る舞っておきながら、その居住まいは皇族に相応しい気品を少しも欠く事なく、誰の目にも優雅に映った。
フレイヤはそんなオリアスにおっとりと微笑み、礼儀作法にうるさいアグレウスでさえ、咎める素振りも見せなかった。
儀式の厳粛さをかき乱しておきながら不問に付されたのでは無く、何も乱されなかったのだ。
その事に気づいた時、ファウスティナは鳥肌が立つのを覚えた。
彼女自身は幼い頃から座る姿勢や歩き方を厳しく躾けられ、毎日何時間も鏡の前で練習させられた。
ヒルドから「笑顔には見えない」と評された作り笑いも、そうやって身に着けたのだ。
その不自然さ、不自由さに比べ――と言うより比べ物にならない程――オリアスの振る舞いは優雅でありながら自然で、何より自由だった。
深い深い井戸の底で、遥か上空の碧天を見上げたような気持だった。
哀しくなる程に妬ましく、同時に激しく憧れた。
そしてもし自分がオリアスの妃に選ばれたなら、あの自由を自分も享受できるのではないかと思うと、身震いがした。
祖母からはアグレウスかオリアス、いずれかの妃に選ばれる事を期待されているし、家柄と身分を考えればその可能性は十分にあると思った。
だが平素はヨトゥンヘイムで暮らしているオリアスに近づく機会は殆どなく、自分とほぼ同じ立場のエレオノラというライバルもいる。
フレイヤの供でヨトゥンヘイムに行った時も、オリアスは多忙な為に僅かな時間、母を訪れただけで、ファウスティナはオリアスと言葉を交わす機会も得られなかった。
ライバルのエレオノラの手前、あからさまな態度を取る訳にはいかない。
オリアスの側近護衛官のヒルドに話しかけたのは、ファウスティナに取って、あの場でできた精一杯の事だった。
――まさか女兵士にお妃の座を横取りされるなんて、おばあ様でなくても
長椅子の上に起き上がり、ファウスティナは内心で毒づいた。
だが自分は碌にオリアスと会う機会すら無いのに、ヒルドは常に側近くに仕えていたのだから、どう考えても分が悪い。
しかもヨトゥンヘイムの価値観はヘルヘイムのそれとは全く違うのだから、最初から望みは薄かった――
そこまで考えて、ファウスティナは再び溜息を吐いた。
こんな風に理由を並べて自分を慰めようとするなんて、余りに惨めだ。
ヨトゥンヘイムとヘルヘイムの価値観がどれ程異なっていようと、スリュムがフレイヤに一目で心を奪われたのは事実だし、完璧な貴婦人というのはフレイヤのような女性の事であって、自分やエレオノラのような厳しく躾けられた箱入り娘の事では無いのだと、内心では分かっている。
それが分かっているからこそ、ライバルがエレオノラであれば自分にも十分、勝機はあるのだと思っていた。
「…そうよ、アグレウス様のお妃候補なら、私たち二人の他にはいないわ」
口に出して、ファウスティナは言った。
血筋や家柄を重視するアグレウスが同じ考えでいるのはまず間違いない。
そしてアグレウスが今まで多くの側室を持ちながら正妃を娶らなかったのは、ファウスティナかエレオノラいずれかを選んだ場合、選ばれなかった公爵家がオリアスに近づき、その権力がオリアスに移る事を警戒したからだろうというのも想像に難くない。
そしてそうであれば、オリアスの妃が正式に決まった今、アグレウスは自分かエレオノラのいずれかを妃に選ぶ事を考えている筈だ――
ファウスティナは姿勢を正し、長椅子の上で美しく座りなおした。
それから、作り笑いを浮かべる。
「アグレウス様のお妃の座。何としてでも手に入れてみせるわ…」
呟いたファウスティナの表情は、人形よりも無機質だった。
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