第41話 婚約--前編--

 二人きりになった部屋で、オリアスは改めて寝台の上のヒルドを見やった。

 ヒルドは喉と両手に包帯を巻かれた痛々しい姿で顔色も優れず、『女戦士ヴァルキュリアとしてはヨトゥンヘイムで一、二を争う』と謳われた女傑の面影が全く無いと言える程、脆弱に見えた。

「……そなたが謝罪すべき事など、何も無い」

 寝台の傍らに座り、静かにオリアスは言った。

「お言葉ですが――」

「そなたの母から、事情は聞いた」

 オリアスの言葉に、ヒルドは驚きの目を見張って相手を見た。

 それから、目を逸らす。

 何としてでも隠しておきたかったのに母が話してしまった事で、母を恨めしく思った。

 これでは、却ってオリアスを哀しませるだけだ。

「申し訳…ございません……」


 喉の奥から振り絞るような声で、ヒルドは言った。

 ここまで知られてしまった以上、もうどうにも言い逃れは出来ない。

 秘密を守ってくれなかった母を怨みに思う気持ちと、そもそも母に気づかれる前に身の始末をつけておくべきだったと自分の不覚を恥じる気持ちで一杯だった。


「ヒルド…」

 言って、オリアスはヒルドの手にそっと触れた。

 ヒルドは俯いて肩を震わせ、聞き取れるか取れぬか程の微かな声で、謝罪の言葉を繰り返している。

 堅く閉じた瞼からは、それでもとめどなく涙があふれ出ていた。

「……そなたは何も悪く無い。秘密を打ち明けたそなたの母も、そなたをヘルヘイムに遣わしたヴィトルも」

 宥めるように優しく、オリアスは言った。

 その口調は穏やかだったが、内心では冷たい炎のような憤りを覚えていた。

 呪詛事件の首謀者が誰であったにせよ、ヒルドがこのように理不尽に苦しまなければならない責を誰が負うべきかは明らかだ。

 そして明らかであるにも係わらず、その罪を問うことは出来ない。

 相手がヘルヘイムの皇太子という立場の者であるからだけでなく、こんな事が公になればヒルドが一層、傷つく事になるからだ。


 ――大切な家臣を、それも己の片腕とも呼ぶべき側近をこのような形で蹂躙されて、それでも何もできぬのか、私は…?


「申し訳…ございません…本当に、申し訳……」

 深く静かに憤るオリアスの傍らで、ヒルドは謝罪の言葉を繰り返し続けた。

「…謝罪せねばならぬのは私の方だ。そなたは私を救う為に理不尽な屈辱に耐えたというのに、私は何も気づかずにいた…」

「いいえ、そんな事は…!」

 顔を上げ、はっきりとした口調でヒルドは言った。

 そして涙を拭い、続ける。

「側近護衛官として、アルヴァルディ様をお護りする為に身命を投げ出すのは当然の事です。それなのに身の始末をつけるのに手間取り、ひと月もの間、床に就いてしまってお仕えできずにいた事、心よりお詫び申し上げます」

 ヒルドの言葉に、オリアスは哀しげに眉を顰めた。

「謝るのはもう、止めてくれ。何の罪も無い者が咎を負わねばならぬような事があるのは、余りに不条理だ」

「申し訳――あ…」


 再び謝罪の言葉を口にしそうになり、ヒルドは口ごもった。

 そして、改めてオリアスを見つめる。

 その哀しげな表情に胸が痛むのを、ヒルドは覚えた。

 自分が屈辱を与えられた事より、そのせいでオリアスを哀しませてしまった事の方が、辛い。

 思い余って自害を図ったが、もし死んでいればどれほどオリアスを嘆かせたかと思うと、改めて自分の不覚を呪いたくなった。

 だがここで自分が自責の念を募らせれば、元凶が何であるか知っているオリアスを、一層、哀しませるだけだろう。


 一旦、オリアスから視線を逸らし、深く息を吸って気持ちを落ち着けてから、ヒルドは再び主に向き直った。

 そして、口元に笑みを浮かべる。

「では、お礼を申し上げさせて下さい」

「――礼…?」

 鸚鵡返しに訊き返したオリアスに、ヒルドは頷いて続ける。

「アルヴァルディ様は覚えておられないかも知れませんが、私がアルヴァルディ様に初めてお会いしたのは十三歳の時でした。そしてその時に私は誓いを立てたのです。生涯を捧げてアルヴァルディ様をお護りする…と」

「あの時の事ならば覚えている。そなたは父のボルソルン将軍に連れられて、王城に来ていたな」

「覚えていて頂けて光栄です。そして私は呪詛事件の折に、密使としてヘルヘイムに赴き、アルヴァルディ様をお救いする為に魔導師を連れ帰るという大役を任され、無事それを果たすという栄誉に浴す事ができました」


 ヒルドの言葉と先ほどまでの焦燥が信じられない位の落ち着いた態度に、『ヒルドには既に覚悟ができております』というヴィトルの言葉を、オリアスは思い起こした。

 三ヶ月前に事件が起きた時に、ヒルドは覚悟を決めたのだろう。

 だがその予想外の残酷な結末に再び動揺しただろうが、自害を図ったのは動揺したからではなく、何としてもこの事を秘密にしておかなければならないという使命感の故なのだ。


「その上、アルヴァルディ様ご自身が見舞いに来て下さるなど、身に余る光栄です」

 健気な微笑を浮かべて言うヒルドの姿を、オリアスは暫く黙ったまま見つめていた。

 それから、「ならば」と、口を開く。

「自害する事など二度と考えてはならぬ。そなたは私の側近護衛官なのだ。勝手に死ぬ事など、赦さぬ」

「はい…!」

 力強く、ヒルドは言った。

 その双眸に浮かぶ光の輝きは、側近護衛官に任官し、着任の挨拶に来た時のそれと同じだった。


 オリアスはヒルドの部屋を出、別室で待っていた侍医たちにヒルドの引き続きの看護を命じた。

 そして、その場にいた侍医たち、ヴィトル、アルネイズと侍女に、ヒルドの身に起きた事とその病状に関し、他言無用を守るように誓わせた。

「そなたとボルソルン将軍は、そなた達の娘を誇りに思って良い」

 屋敷を去り際に、戸口まで見送ったアルネイズに、オリアスは言った。

「もったいないお言葉…ありがたき幸せに存じます」

 目に涙を浮かべ、アルネイズは深く頭を下げた。



 三日後。

 オリアスは再びボルソルンの屋敷にヒルドをおとなう為、ヴィトルに供を命じた。

「…ヒルドを心配なさるお気持ちは判りますが、側近護衛官の一人に過ぎぬ者をアルヴァルディ様御自ら幾度も見舞いに行かれるのは――」

「ただの側近護衛官ではなくなる」

 相手の言葉を遮って、オリアスは言った。

「今日は見舞いではなく、結婚の申し込みに行くのだから」

「……!」

 ヴィトルは驚愕して主を見つめた。

 オリアスの言葉は、全く予想だにしていないものだったからだ。

「…ヒルドを、妃に娶られると仰せですか…?」

「反対か?」

 正面からまっすぐにヴィトルを見、オリアスは訊いた。

 殆ど反射的に、ヴィトルは視線を逸らした。

「…アルヴァルディ様のお決めになられた事ならば反対などいたしませぬが、一体、何故……」

「ヒルドは自分が一番、辛いはずなのに、私を気遣って健気にも笑顔を見せ、密使としてヘルヘイムに遣わされた事に礼まで述べたのだ。それほど強く美しい心を持った者を、私は他に知らぬ」

「……」


 ヴィトルは視線を落としたまま、口を噤んでいた。

 ヒルドは彼女を密使に選んだ自分にも、笑顔で礼を述べたのだ。

 その時の罪悪感が、再び見えない手となって喉元を締め付けるかのように、ヴィトルは感じた。


「だから私はヒルドを守りたいと思ったし、側にいて私を支えて欲しいとも思った」

 それに、と、オリアスは続ける。

「言った通り、私はヒルドをこのまま犠牲にするつもりは無い。事を荒立ててヘルヘイムとヨトゥンヘイムの平和を乱すつもりは無いが、兄上のした事は赦せないし、何事も無かったかのように水に流すつもりも無い」


 ――私のした事も、赦せないと仰せなのですね……

 黙したまま、ヴィトルは内心で主に問いかけた。

 そして、自分は間違っていたのだろうかと自問する。

 主君を救う為に身命をなげうつのは側近護衛官として当然の責務で、それが戦士に相応しくない犠牲であっても厭うべきではないのだと思った。

 誰がどんな犠牲を払う事になろうと、それでオリアスが救えるのであれば、次にも同じ決断を下すだろうと、そう考えた。

 そしてヒルドもそれを納得したから、自分に礼を述べたのだ。


 だが、本当にそれが正しい判断だったのだろうか?


 オリアスはヒルドを犠牲にするつもりは無いと言い、ヒルドを犠牲にした自分を暗に非難している。

 そしてオリアスに非難されるのならば、それは間違った判断だったのだと、ヴィトルは思った。

 呪詛に詳しく無いが故に取り乱してしまったが、事件の折に取り寄せた書物から得た知識によれば、オリアス程の高貴な血筋の者が、遠隔から掛けた程度の呪詛ですぐに生命を落とす可能性など、殆ど無かったのだ。

 密使を遣わしてアグレウスと交渉する事は確かに不可欠だったが、ああまで焦る必要は無かったし、オリアスの容態についても、ヒルドを含めた側近たちに、大袈裟に伝えすぎた。

 全てはヴィトル自身の不安と焦燥の結果であり、本当に正しい判断だったのかと問われれば、是とは言い難い。

 何より、あの時、密使としてアグレウスとの交渉に赴くべきだったのは他ならぬ自分なのだ。

 万が一、オリアスの容態が急変して死に目に会えなくなる事を恐れて、謂わば私情を優先させて、ヒルドに犠牲を強いた。

 心から正しい判断だったと確信しているなら、そもそも罪悪感など覚えなかった筈だ。


「急な話ゆえ驚いたと思うが、そなたにも賛同し、祝って欲しい」

 オリアスの言葉に、ヴィトルはゆっくりと目を上げて相手を見た。

「…ご結婚自体は喜ばしい事と存じますが、胎の子はどうなさるおつもりですか?」

「子に罪は無かろう」

 ヴィトルの予想通りに、オリアスは言った。

 そして、オリアスが誰に対しても優しいのだと言っていたベイラの言葉を思い出す。

「父上と母上の孫に当たる子なのだから無体な真似も出来ぬし、侍医に聞いた話では薬で安全に流せる時期は過ぎてしまっているらしい」


 ――アルヴァルディ様はとてもお優しい。そして、誰に対してもお優しい。

 母ベイラの言葉を、ヴィトルは脳内で反芻した。

 ――赦しがたい行為の結果として生まれてくる子に対しても、着任してわずか数年しか経っておらず、戦を供にした経験すらない側近護衛官に対しても…


「もう一度訊くが、そなたは反対か?」

 ――これは部下に犠牲を強いた私への罰なのですか?

「アルヴァルディ様のお決めになられた事に、反対などいたしませぬ」

 ――僅か数年前に任官したばかりの側近護衛官に最高の栄誉を与え、アルヴァルディ様がご幼少のみぎりからずっとお仕えしてきた私を言外に非難なさるのは…

「反対でないのなら、祝ってくれ」

 微かに微笑し、オリアスは言った。

「御意」

 再び目を伏せ、短くヴィトルは答えた。

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