第40話 懐妊

 『事故死』したザガムの葬儀がヘルヘイム皇宮でひっそりと行われた半月後、第三王子マルバスの生母ミリアムが隠棲先の城で『病死』した報告がもたらされたが、アグレウスは特に気に留めなかった。

 実際にミリアムが死んだのはそれより一月も前の事だったが、呪詛事件との関連を疑われる事を恐れた侍女長が、報告を遅らせたのだった。

 アグレウスがミリアムの死よりも気に掛けたのは、それまでザガム派だった貴族たちがダンタリオン派に鞍替えする事により、宮中の勢力がダンタリオンに集まる事だったが、アグレウスの懸念を予測したダンタリオンは身を慎んで貴族たちとの接触を控えた為、アグレウスの懸念は杞憂で終わった。

 ヨトゥンヘイムの王城内で監視下に置かれたアロケルたち祐筆、ドロテアたち侍女は相変わらず軟禁状態だったが、祐筆たちは監視付きで仕事に戻る事を赦された。

 アールヴ付きの侍女の役目を事実上、解かれているドロテアたちはヘルヘイムに帰らせて欲しいと懇願したが、その願いは叶わなかった。


 そうして、オリアスへの呪詛事件から三ヶ月が過ぎた。

 ヘルヘイムとヨトゥンヘイムの間の信頼関係には小さな棘のようなくさびが残ったが、スリュムとアグレウスの不仲は以前からの事だったので、目に付くような変化は何もなかった。



 事件が起きたのは、互いを牽制しあいながら協力するという両国の関係が表面上は何も変わらず続いていたある日の事だった。


 オリアスの側近護衛官であるヒルドは、暫く前から体調を崩して休暇を取り実家で静養していたが、その体調不良の原因を、母であるアルネイズに見抜かれたのだ。

「そなた…まさか懐妊しているのではないでしょうね」

 自室の寝台に力なく横たわる娘を見舞い、心配そうな表情と、半ば確信を込めた口調でアルネイズは訊いた。

 その言葉に、ヒルドの血色の悪い頬は、一層、蒼褪める。

「なっ…にを言われるのです、母上。そんな事、ある筈が…」

 必死になって否定する娘の姿を、アルネイズは困惑した表情で見つめる。

「…そなたが軽はずみな真似をするような娘でない事は、この母が良く知っています。そのそなたが懐妊したのであれば、そしてその事をそうまで隠そうとするならば、相手はまさか――」

「だから違うと言っているのです。母上の言う通り、私はそんな蓮葉な女ではありません」

「望まぬ懐妊が原因で無ければ、数週間も寝込むほどの体調不良が続いているというのに、頑なに医師の診察を拒む理由は何ですか?」

 幾分か強い口調で、アルネイズは聞き質した。

 ヒルドは答えられず、ただ視線を逸らす。

「…こんな事は口にするだけで不敬だと判っていますが、そなたは側近護衛官として常にアルヴァルディ様のお側に仕えているのですから…」

「……!」

 アルネイズの言葉に、ヒルドは飛び起きるようにして寝台に半身を起こし、驚愕に目を見開いて相手を見た。

「母上、何と言う事を仰るのです? アルヴァルディ様にそんな疑いをかけるなんて、侮辱にも程があります」

「あの方でなければ誰がお腹の子の父親なのです? まさか他の王族のどなたか――」

「何度も同じ事を言わせないで下さい。私は妊娠などしておりません」


 強い口調でヒルドは言ったが、その語尾は微かに震えていた。

 アルネイズは娘の手に自分の手をそっと重ねる。


「私はそなたの身が心配なのです。このまま放ってはおけません。今日こそ医師を呼びます」

「…私は…」

「秘密は守ります。どうか、この母を信じておくれ」


 ヒルドは一旦、母を見、それから再び視線を逸らせた。

 これ以上は隠し続けられそうにないし、何よりヒルドは助けを求めていた。

 どうにか身の始末をつけなければならないと思いながらも、どうして良いか判らず途方に暮れていたのだ。


「……呪詛によって、アルヴァルディ様がお倒れになられた時……」

 俯いたまま、ヒルドは話し始めた。

「アルヴァルディ様をお救いする為、強大な力を持った魔導師を連れ帰る必要が生じました。それで、誰かがヘルヘイムのアグレウス様の許に密使として赴く事になり、私がその任に…」

「…では、まさか…」

 アルネイズは愕然として娘を見つめたが、その表情は驚きから沈痛なそれへと変わった。

「そなた…代償を求められたのですね」

 アルネイズの言葉は、問いではなく事実の確認だった。

 ヒルドは俯いたまま唇を震わせていたが、そのまま泣き崩れた。



「…薬が必要なのです」

 暫く母の腕の中で泣いていたヒルドは、やがて俯いたまま、小さく呟いた。

「子を流す為の薬が…。ですが、誰にも知られること無く手に入れるには、どこでどうやったらよいものか、見当もつかなくて…」

 ヒルドは顔を上げ、自分を抱きしめている母の顔を間近に見つめた。

「母上の伝手で何とかなりませんか? 時期を逃せば手遅れになると聞きます。そうなってしまう前に、身の始末をつけなければ…」

 ヒルドの言葉に、アルネイズの両眼から涙があふれ出た。

「なんという理不尽、なんという酷い仕打ちなのでしょう…! 弟君を救う為に魔導師を遣わすなど、兄として当然の行いではありませんか? それなのに使者であるそなたに無体な代償を強いるなど、まさか…まさかアルヴァルディ様に呪詛をかけた首謀者は――」

「母上」と、ヒルドは相手の言葉を遮った。

「もしも首謀者が兄君であれば、アルヴァルディ様がどれ程、お悲しみになられる事か…。それが判っていて、そんな不用意な憶測を口にするのですか?」

「ヒルド、そなた……」

「私はアルヴァルディ様の側近護衛官であり、アルヴァルディ様に身命を捧げた身です。それであのお方をお護りする事が出来るのならば、私の生命でも身体でも、喜んで差し出します」

 ただ、とヒルドは続けた。

「こんな事がアルヴァルディ様のお耳に入れば、きっと酷くお嘆きになります。だから誰かに知られてしまう前に、どうしても始末をつけてしまわなければ…」


 アルネイズは口を噤んだまま娘を見つめた。

 ヒルドの決意は固いようだし、そうでなくともこんな事を公にできる筈が無い。

 ヒルドの言う通り、誰にも知られないように処置してしまわねばならないのだ。

 だが、どうやって? と、アルネイズは自問した。

 アルネイズはヴィトルの母たちと一緒に祖国アルフヘイムから逃れてきた妖精の一族で、この国には夫と娘の他に親族はいない。

 知人の多くは同じ境遇の妖精たちだが、彼らに堕胎薬の事など聞いて回れば、母ベイラを通じてヴィトルの耳に入る事になってしまうだろう。

 それ以外の知己は夫であるボルソルンの友人知人なので、そちら方面を頼れば夫に知られる事になる。


 堕胎薬の他にも子を流す方法はあり、堕胎薬を買えない貧しい平民の女達は主に薬以外の方法を用いていたが、ヒルドもアルネイズもそんな方法は知らなかったし、またそれらは危険であり無理な堕胎で生命を落とす女は後を絶たなかった。

 それ故、貧しい女たちは危険な堕胎を行う代わりに望まぬ子を懐妊した時には生んですぐに間引き――すなわち嬰児殺し――を余儀なくされていたが、王族に直接仕えるほどの上流階級に属するヒルドやアルネイズには、考えも及ばぬ世界だった。


 いっそ、夫にだけは打ち明けようかとアルネイズが考えを巡らせていた時、扉を叩く者があった。

 アルネイズが出ると、侍女が来客を伝える。

「ヒルドお嬢様にお客様です」

「…お見舞いの方かしら。今は都合がよくないので、できれば後にして頂きたいと――」

「それが、いらっしゃったのはアルヴァルディ様なのです」

 侍女の言葉に、アルネイズとヒルドは驚いて顔を見合わせた。

「まさか…アルヴァルディ様ご本人がこの家になんて、そんなまさか…」

「…とにかく、お待たせする訳にはいきません。私が応対しますが…」

「お嬢様のご病気のお見舞いに、侍医を連れていらっしゃったのだそうです。何てお優しいお方なのでしょう」


 ヒルドとアルネイズの苦悩を知らない侍女は、誇らしげに微笑んで言った。

 ヒルドの父ボルソルンは元は豪族の長で、早い時期からスリュムに協力し、ヨトゥンヘイム建国に功績があったとして貴族の位を授与されている。

 とは言え、その屋敷に王族の来訪があるなど初めての事で、侍女は幾分か頬を染めてこの栄誉を喜んでいた。

 対照的に、ヒルドは絶望に近い気持ちを味わっていた。

 アルヴァルディ本人が侍医を連れて来たのなら、診察を拒める筈が無い。

 そして診察など受ければ、懐妊が発覚してしまう――


「…私がアルヴァルディ様にご挨拶をしておくので、その間にそなた、ヒルドの髪を整えてやっておくれ」

 侍女にそう言って、アルネイズはヒルドの部屋を出た。



 アルネイズが応接間に入ると、ヴィトルと侍医と思われる男女を伴ったアルヴァルディがそこにいた。

「このような陋屋に我が娘の見舞いの為にアルヴァルディ様ご本人にお越しいただき、もったいのう存じます」

 内心の動揺を抑え、アルネイズは深々と一礼した。

「余り病欠が長引くので心配になってな。これからすぐに会えるか?」

「…お気にかけて頂き光栄に存じますが、暫く臥せっておりましたゆえヒルドは面やつれが酷く、アルヴァルディ様にお目通り願うのは却ってご無礼にあたるかと…」

 アルネイズの言葉に、オリアスは心配そうに形の良い眉を顰めた。

「そんなに悪いのか? ならばすぐにでも侍医に診察をさせよう」

 断る口実が見つからずにアルネイズが口ごもっていた時、家の奥から悲鳴が聞こえた。

 オリアスは一瞬、ヴィトルと顔を見合わせ、そして殆ど反射的な動作で家の奥へと駆けて行った。

 アルネイズが止めるいとまも無かった。


 扉が半開きになっていたので、その部屋の場所はすぐに知れた。

 オリアスとヴィトルが駆け込むと、ヒルドは割れた鏡を手に血だらけになって床に崩れ落ち、その傍らで侍女が恐怖に引きつった顔で立ちすくんでいた。

「ヒルド…!」

 オリアスはすぐにヒルドを抱き起こして寝台に横たえ、やや遅れて部屋に駆け込んだ侍医たちに手当てを命じた。

 それから、何があったのかと侍女に訊く。

「お嬢様のおぐしを整えて差し上げようと…お嬢様は自分で出来るから私に出て行けと…鏡の割れる音がして、様子を見に戻ったらこんな事に…」

 動揺して激しく泣きじゃくりながら、侍女は説明した。

 侍医たちより更に遅れて駆けつけたアルネイズは、呆然とした面持ちで扉の側に立ち竦んでいる。

「鏡の破片で喉を突いたようですが、致命傷ではありません」

 侍医は報告したが、オリアスは安堵する事は出来なかった。

 ヒルドが何故、こんな事をしたのか、知らなければならない。

 オリアスは侍医たちに手当てを任せ、アルネイズと共に別室に入った。

 その間、ヴィトルはずっと無表情で事態を見守っていた。


「何があったのだ?」

 オリアスに問われ、アルネイズはその場に泣き崩れた。

 ヒルドは自分の生命を犠牲にしてでも秘密を護ろうとした。

 その気持ちと、側近護衛官として何を優先すべきなのか、理解は出来る。

 理解は出来るが、受け入れられなかった。

 こんな形で娘の尊厳を踏みにじられたというのに、それを隠して極秘裏に堕胎などすれば、何も無かった事になってしまう。

 それが、耐えられなかったのだ。

 アルネイズはむせび泣きながら、ヒルドが懐妊し、そしてそれを必死で隠そうとしているのだと話した。

「己の生命を犠牲にしてでも、か? そうまでしてまで隠そうとするのは、それが――」


 途中で、オリアスは一旦、言葉を切った。

 三ヶ月前にヒルドが密使としてヘルヘイムに赴いた事と、ヒルドが生命を賭してでも懐妊を隠そうとした事から、元凶が何であるのかはすぐに判った。

 そしてそれは疑惑と言うより確信で、内心で湧き上がる憤りに、喉元を締め付けられたかのように感じる。


「それが…兄上に係わる事だから…か?」

「お赦し下さいませ…!」

 否定も肯定もできず、アルネイズはただむせび泣いた。

「ヴィトル…!」

 アルネイズに問う代わりに、オリアスは扉の外で控えている側近を呼んだ。

 すぐに扉が開き、ヴィトルが姿を現す。

「そなた…知っていたのだな。ヒルドが密使としてヘルヘイムに赴いた時、何があったのか」

「…勘付いてはおりました」

「ならば何故、私に黙っていた? ヒルドが懐妊しなければ、何事も起きなかったとして済ますつもりだったのか…!?」


 ヴィトルは黙したまま、主の瞳をまっすぐに見つめた。

 明るく美しい翠色の瞳に、激しい怒りの光が浮かぶ様を。


「御意にございます。アルヴァルディ様への呪詛が解かれた以上、いたずらに事を荒立てるつもりはございませんでした」

「ヒルド一人を犠牲にして、それで口を拭っていれば良いと言うのか?」

「犠牲になったのは、おそらくヒルド一人ではありますまい」

 ヴィトルの言葉に、オリアスの表情が変わった。

 怒りから、不審へと。

「…どういう意味だ。まさか…先ごろ事故死したザガムと何か関係が……」

「その件に関しては、ご報告できる程に確かな事は誓って何も存じませぬ。ただ…スリュム様は初め、呪詛の首謀者がアグレウス様ではないかとの嫌疑を抱いておられたようです。そして、事件の折に捕らえた間者が、ザガム様の手の者であったと判明しております。その者はスリュム様の監視下にあるので私は詳細を存じませぬが、その後、何らかの動きがあったようです」

「ではまさか――」


 途中まで言って、オリアスは口を噤んだ。

 驚愕の表情でオリアスの方を見ていたアルネイズは慌てて顔を伏せたが、話は聞かれてしまっている。

 アルネイズは許可なく退出する事もできず、その場で蹲っていた。


「…そなた、アルネイズにも聞かせるつもりで今の話をしたのだな」

 やがて、低くオリアスは言った。

「必要があれば、ヒルドにも聞かせるつもりか?」

「ヒルドには既に覚悟ができております故、その必要は無いと存じます」


 オリアスは口を噤んだ。

 ヴィトルの冷静な態度と確固たる口調から、ヴィトルにも覚悟ができているのだと判った。

 事を荒立てれば、ヘルヘイムとヨトゥンヘイムの両国間の関係に亀裂が入るのは明白だ。

 と言うより、既に兄に対する不信感はもはや拭いようもなく、今後、父スリュムと兄アグレウスの間に何らかの軋轢が生じた時に、今までのように兄を擁護するなど出来そうにない。

 とは言え、両国間に諍いが起きる事など望まないし、それは呪詛事件の首謀者がアグレウスではないかと疑ったスリュムも同じだろう。

「…ヒルドの側についていてやるが良い」

 言って、オリアスはアルネイズを下がらせた。

 扉が閉まってから、改めてヴィトルに向き直る。

「父上が呪詛の首謀者が兄上ではないかと疑っていたのなら、兄上はその疑惑を逸らす為にザガムに罪を着せて暗殺した…という事か」

 形の良い眉を顰め、低くオリアスは言った。

 ヴィトルは、口を噤んだままでいた。

「…私がザガムやヒルドの事を兄上に聞き質すなどして騒ぎを大きくすれば、凪いでいた海を荒らすだけの事になってしまうのだな…」

 視線を落とし、半ば独り言のようにオリアスは呟いた。

「父上も私もそして兄上も、両国の間に諍いが起きる事など望んではいない」

 だが、と、ヴィトルをまっすぐに見、オリアスは続けた。

「私は、ヒルドをこのまま泣き寝入りさせるつもりは無い」


 オリアスのその言葉に、ヴィトルはヒルドを密使に選んだ自分も非難されているのだと感じた。

 実際、若く美しい女であれば交渉が有利になるかも知れないと考えたのも、ヒルドを選んだ理由の一つなのだ。

 そして、想定しうる事態が起きてしまった。

 その事で罪悪感を覚えたが、後悔はしていなかったし、時が経つと共に罪悪感も薄れていた。

 だがヒルドの病欠が長引くにつれ、もしかしたら…という不安が脳裏に浮かぶようになった。そして敢えてそれを否定し、考えないようにしていた。

 ヒルドの病状を案じたオリアスが、侍医を連れて自ら見舞いに行くと言い出した時、抑圧していた不安がはっきりと頭をもたげた。

 ヒルドが既に身の始末をつけていてくれれば良いと願ったが、その願いは叶わなかった。

 そして主を助ける為とは言え非情な決断を下し、部下を犠牲にした自分は、その無情さを非難されているのだ――


 扉を叩く音がし、ヒルドが意識を取り戻したと、侍医が扉越しに報告した。

 オリアスはすぐにヒルドの部屋に向かう。

 ヒルドは力なく寝台に横たわっていたが、オリアスの姿を見るや、何とか半身を起こそうとした。

「申し訳ございません…」

 無理をせずに横になれとオリアスが口にする前に、ヒルドは言った。

「このような騒ぎを引き起こし、ご迷惑、ご心配をおかけしてしまい、何とお詫び申し上げてよいやら……」

 声を震わせて謝罪するヒルドの姿に、オリアスは眉を微かに顰めた。

 悲しみと憤りが綯い交ぜになった表情だった。

「…暫くの間、ヒルドと二人だけにしてくれ」


 オリアスの言葉にアルネイズはヴィトルを見たが、ヴィトルはオリアスしか見ていなかった。

 そして「御意」と短く答え、侍医たちを促して部屋を出た。

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