第38話 魔導師

 ザガムに魔導師探しを命じられた数週間後、ハーゲンティは漸く一人の魔導師と連絡を取るまでに漕ぎ着けていた。

 正確に言えばそれまでにも数名の魔導師と密かに接触していたが、背後を調査させた結果、期待するほどの実力の持ち主では無いと判明したのだ。

 が、今回の相手はどうやら強力な力を持った魔導師だと判断して間違いないようだ。

 ハーゲンティはまず、その魔導師が、アグレウスがヨトゥンヘイムに派遣した魔導師と同一人物であるかどうかを確認しようとした。

 もし既にアグレウスの息の掛かっている魔導師であるならば、こちらの正体を明かすのは避けなければならない。

 魔導師を通じて、ザガムの動きがアグレウスに筒抜けになってしまう可能性があるからだ。

 それでハーゲンティは、城下の宿屋に魔導師を呼び、アグレウスが派遣した魔導師の顔を見知っている宮中護衛兵に、面通しをさせる事をエリゴスに依頼した。


 深夜になってから、ハーゲンティは目指す宿屋に着いた。

 宿屋の主人には金を渡して秘密を誓わせ、その日の宿は無人にするように指示していた。

 主人からは三つの合鍵を受け取ってあり、一つは魔導師、もう一つはエリゴスに渡してある。

 秘密裏に行動する為、ハーゲンティは従者も連れておらず、町外れまで辻馬車で来て夜が更けるまで身を潜め、そこから歩いて宿屋に着いたのだった。

 裏口の扉を開け、ハーゲンティは宿屋の主人から言われていた通り、地下の食料庫に下りた。

 薄暗い中に小さく蝋燭の灯りがともり、二名の男たちが木箱に腰掛けているのが見えた。

「…山鷸やましぎ殿か?」

 あらかじめ定めておいた暗号名で呼びかけると、相手はのそりと立ち上がった。

 頭巾で隠れて顔ははっきりしないが、エリゴスで無いのは判った。

かささぎです」

 低く、相手は言った。

 魔導師に間違いない。

「私は雷鳥だ。鵲殿は、一人で来られる予定の筈だが」

「この者の事ならば、どうかお気になさらず。信頼の置ける弟子です」

 低く呟くように魔導師は言ったが、ハーゲンティは眉を顰めた。

 単身で来るようにとの要請に魔導師が従わなかったのが、気に入らなかったのだ。

 ――こちらの意のままに動く駒でなければ意味が無いのだが、しかしこちらはまだ身分も明かしていないのだから、やむを得ないか…

 内心で呟き、ハーゲンティは相手の言葉に鷹揚に頷いて見せた。

 そして、エリゴスが到着するのを立ったまま待つ。

 窓のない地下室に小さな蝋燭一つだけなので、殆ど闇に近い暗さである。

 狭さも手伝って、息苦しさを覚える。


 ――エリゴス殿はまだか……

 平素ならば時間に正確なエリゴスの遅刻に、ハーゲンティは内心で苛立ちと不安を覚えた。

 魔導師が一人で来なかったのも、不安をかき立てる。


「…山鷸殿は少々、遅れているようだ」

 沈黙の息苦しさに耐えられなくなり、ハーゲンティは言った。

「様子を見て来よう」

「それならば」と、ハーゲンティをとどめて魔導師は言った。

「弟子に様子を見に行かせましょう。あなた様が自ら動く必要はございません」

 魔導師が言い終わらぬ内に、弟子が立ち上がって階段を上って行った。

 その後姿を見送りながら、不安が一層、増すのをハーゲンティは覚えた。


 ――これは……何かおかしい。エリゴス殿が約束の時刻に遅れるなど今まで無かった事だ。


 今夜の会見は中断すべきだとハーゲンティが思った時、扉の開く音がした。

「山鷸だ。遅れて申し訳無い」

 聞き慣れたエリゴスの声に、ハーゲンティは安堵を覚えた。

 エリゴスは予定通り、宮中護衛兵と思われる男たちを伴っている。

「これでは暗すぎる…」

 階段を降りながらエリゴスはぼやき、部下の一人に合図した。

 部下はカンテラに火を灯し、地下食料庫の内部を照らす。

「…これで役者が揃った。本題に入る前に、まずその頭巾を取って頂きたい」


 ハーゲンティが言うと、魔導師はのそりとした動作で頭巾を取った。

 声は老人のようにしわがれているが、意外にのっぺりした若い顔だ。

 エリゴスの部下たちはその顔を確認し、エリゴスに向き直って小さく首を横に振った。

 アグレウスが派遣したのとは、別の魔導師だ。


「こちらは素性を明かしたのです。そちら様のご身分も、明かして頂きましょう」

 相変わらず呟くような、聞き取り難いくぐもった声で、魔導師は言った。

 ハーゲンティはエリゴスを見、エリゴスは軽く頷く。

「…私はヘルヘイム皇国皇太子殿下の第一王子であらせられるザガム様の側近、ハーゲンティだ」


 ハーゲンティが名乗っても、魔導師ののっぺりした顔には何の表情も現れなかった。

 その異様さに、ハーゲンティは眉を顰めた。

 皇太子の第一王子と聞けば、もう少し何らかの反応があっても良さそうなものだと思ったからだ。

 それに、階上に様子を見に行った弟子が帰って来ないのも気に入らない。

 エリゴスも裏口から入る手はずになっているので途中で行き会った筈なのだから、戻って来ないのは妙だ。


「第一王子の側近と仰せか。では私への依頼はあなた様個人ではなく、第一王子ザガム様からのご依頼と捉えて宜しいのですな」

「その通りだ。それより、そなたの弟子はどうした。何故、戻って来ない?」

「弟子? 弟子が一緒に来ていたのか?」

 ハーゲンティの詰問に、横からエリゴスが口を挟んだ。

「エリゴス殿の御出でが遅かったので、様子を見に行ったのだ。行き違いになる筈は無いのだが…」

 不安げに眉を顰めるハーゲンティの姿を、エリゴスは冷ややかに見遣った。

「この宿屋は完全に包囲してある。逃げられるものではない」

「包囲…だと? それは一体――」


 ハーゲンティが言い終わらぬ内に、魔導師はカラカラと軽く甲高い音と共にその場に崩れ落ちた。

 エリゴスの部下が衣服を剥ぎ取ると、倒れているのは傀儡くぐつだ。


「これは…何らかの魔術か? いやそれよりエリゴス殿、包囲とは一体どういう意味だ?」

「皇太子殿下のご命令で、魔導師と接触し、それを利用してオリアス様に呪詛を掛けさせた犯人を捕らえに来たのだ」

 エリゴスの言葉に、ハーゲンティの顔面が蒼白になった。

「裏切ったのか? 私を――いや、義兄にあたられるザガム様を…!?」

 答える代わりに、エリゴスは部下たちに合図し、ハーゲンティの身柄を拘束した。

 そして自分の顎を撫でながら、土間の上に組み伏せられたハーゲンティを見下ろす。

「ザガム様が義兄と言うなら、皇太子殿下は私の岳父にあたられるお方だ。何より、殿下のご命令は絶対だ」

「……身代わりという訳か。皇太子は己の罪をすべてザガム様に――」

 ハーゲンティの顔面を蹴り、エリゴスは相手を黙らせた。

 そして、手鎖を掛けくつわを噛ませるよう、部下に命じる。

「そなたと魔導師には証言をしてもらう。オリアス様に呪詛を掛けさせた首謀者はザガム様なのだ…とな」

 憤怒の形相で自分を睨みつけているハーゲンティに、冷淡にエリゴスは言った。


 宿屋は完全に包囲してあったが、エリゴスは魔導師を捕らえる事は出来なかった。

 魔導師を名乗っていた者が傀儡くぐつであっただけでなく、弟子を名乗って先に逃亡を図った者の正体も木偶だったのだ。

 エリゴスはハーゲンティを自らの館の地下室に監禁し、翌朝を待って、事の経緯をアグレウスに報告した。

「ザガムが魔導師と接触したのが事実ならば、それだけで証拠として充分だ」

「仰せの通りにござります」

「後の措置はそなたに任せる」

「……!」


 アグレウスの言葉は、エリゴスには意外だった。

 だがアグレウスによれば、スリュムは『相応の処罰が秘密裏に行われる事』を望んでいるのだ。

 ザガムの『罪』を暴き立てたり、表立って捕縛したりする事は出来ない。

 つまりアグレウスは、ザガムの暗殺をエリゴスに命じた事になる。

 厄介な事になったと、エリゴスは内心で呟いた。

 ハーゲンティが帰って来なければザガムは警戒するだろうから、早急にカタを付けなければならない。

 だが慎重に事を運ばなければ自分がザガムの暗殺者として糾弾される可能性も否めないし、そうでなくとも宮中で暗殺事件など起きれば宮中護衛兵長官として責任を問われる事となる。


 ――よもや皇太子殿下はザガム様を身代わりにするだけでなく、私の口も封じてしまうおつもりでは…

「これはそなたの手腕を示す好機だ」

 疑心暗鬼になるエリゴスに、アグレウスは言った。

「そなたの働き次第によっては、今以上の地位を得る事も可能となるだろう」

「…御意のままに」

 平伏して、エリゴスは言った。



 前日の夜。

 エリゴスとハーゲンティが魔導師との密会の為に町外れの宿屋に向かっていた頃、テレンティウス伯爵家では、華やかな舞踏会が催されていた。

 出席者の中に、グレモリーとスロールの姿もあった。

「ようやく招待に応じてくれたのだね。ともあれ、会えて嬉しいよ」

 整った顔に温和な笑みを浮かべ、フォルカスは妹に言った。

 フォルカスの傍らには妻のマグダレナ、グレモリーの傍らには夫のスロールが控えている。

 グレモリーはマグダレナを瞥見し、思っていたよりもっと醜いと、内心で毒づいた。

「こちらも結婚したばかりで色々と忙しかったのよ。お兄様もそうでしょう?」

「そうだね…。忙しかったよ」

「詳しい話を聞きたいわ。できれば兄妹水入らずで」

 言って、グレモリーはスロールを見遣った。

 スロールは商人らしい愛想笑いを保ったまま、マグダレナに向き直る。

「それでは奥方様のお相手は、私が勤めさせていただいて宜しいでしょうか?」

「いえ、私は……」

 舞踏に誘うために手を差し伸べたスロールに、マグダレナは幾分か困惑気に言った。

 そのマグダレナに、フォルカスは優しく微笑みかけて言った。

「踊っておいで。軽い運動は却って身体に良いと、医師も言っていた事だし」

「はい、フォルカス様」

 幸せそうに笑って、マグダレナは答えた。



「……さっきのはどういう意味よ」

 二人だけで人気ひとけのない露台に出ると、幾分か眉を顰めてグレモリーは訊いた。

「もう、気づいたのかい。流石だね」

「まさか本当に? 妊娠しているの、あの蟇蛙」

「蟇蛙は酷いな…。私の愛する妻、君の義理の姉上なのに」

 苦笑して、フォルカスは言った。

 グレモリーはその兄の顔を、まじまじと見つめる。

「……別に意外では無かったわね。お兄様は目的の為ならば、何でもするのでしょうし」

「君だって平民の妻という立場を受け入れているじゃないか」

「私たち二人ともお父様の命令で結婚したのよ。受け入れるとか拒むとか、そんな選択の余地は無かった」

 でも、とグレモリーは続ける。

「甘んじて受け入れている訳では無いわ。利用できるものは利用する――そうでしょう?」


 強い意志を表情と口調に表して、グレモリーは言った。

 フォルカスは温和な笑みを浮かべたままだったが、その琥珀色の瞳に浮かぶ光が、微かに鋭くなる。


「単刀直入に訊くわ。お兄様がこの前、『面白い話』を知りたいって文を寄こした事と、その直前にオリアス叔父様がご病気だったらしい事、無関係では無いわね?」

 グレモリーの問いに、フォルカスは肩を竦めた。

「相変わらず君は口が悪くて困る…。そんな話を万が一、誰かに聞かれたら、どうなると思っているんだい?」

「お父様に八つ裂きにされるわ――比喩ではなく、言葉通りの意味で」

「もし仮に私が叔父上のご病気に何らかの係わりを持っているなら、私を八つ裂きにしようとするのは父上だけでは無いだろうね」

 穏やかな口調で、フォルカスは言った。

 グレモリーの表情が、硬くなる。

「覚悟は出来ている……という事ね?」

「もしも行動を起こすのならば、先に覚悟を決めなければね」

「でもどうしてオリアス叔父様なの? 叔父様はお母様が亡くなった時、私たちに優しい言葉をかけてくれた唯一の方なのに…」


 半ば咎めるように訊く妹の顔を、フォルカスは暫く黙ったまま見つめた。

 それから、口を開く。


「あの時の事は私もよく覚えているよ。多分、一生忘れない――いや、忘れられないだろうね」

 フォルカスはグレモリーから視線を逸らし、美しく整えられた庭園を見遣った。

「君に内親王の宣下が無かった事で母上は酷く落胆して床に就いてしまったけれど、それ以前から父上は母上に関心を失っていて、顧みられる事も無いまま母上は亡くなった。元は王女であっても故国はとうに滅び、寵愛を失った側室やその子供たちになど、宮中の誰も関心を示さなかった。葬儀に参列したのは私たちと母上の以前からの侍女だった数名のみで、これから自分たちはどうなってしまうのかと不安で心細くて胸が潰れるような思いだった……」


 フォルカスが妹に視線を戻すと、その時の事を思い出したのか、哀しげに表情を曇らせて俯いている。

 生来、気の強いグレモリーだが、母の死後暫くは、毎日泣き暮らしていた。


「叔父上はそんな私たちに会う為にわざわざヘルヘイムまで来てくれて、『何か困ったことがあればいつでも力になる』と仰ってくれた。それだけでなく、母上の墓があまりにみずぼらしいのを知って、父上に働きかけて立派な廟を建てさせてくれた。あの時ほど嬉しく思った事は、私の生涯には他に無いくらいだ」

 だから、と、温和な微笑を浮かべ、フォルカスは続けた。

「私が叔父上に害を為すなんて、絶対にありえないよ」

「だったら…ただの偶然だと言うの?」

「その通りだよ。それに私は『面白い話』が知りたいと頼んだのに、まさか叔父上のご病気の噂を聞かされるとは思ってもみなかった。ちょうどマグダレナの懐妊が判った時だったので、気持ちが不安定になりがちな妊婦の心を安らげるような、そういう楽しい話が聞きたかっただけなのに」

 グレモリーは表情を強張らせて暫く兄の顔を見つめていたが、やがて視線を落として溜息を吐いた。

「ただの偶然だったのなら、それで良いのよ…」

「誤解が解けたようで嬉しいよ」

 温和な微笑を浮かべたままフォルカスは言ったが、その琥珀色の瞳に浮かぶ光は猛禽のそれのように鋭く、そして冷たかった。

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