第33話 交渉--後編--

 ヨトゥンヘイムからの急な密使に、アグレウスは強い警戒心を抱いていた。

 折りしも側室からレオポルドゥスとマクシミリアヌスの二大公爵が、オリアスに娘や孫娘を嫁がせようと画策しているとの噂を聞き、彼らの腹を探るための晩餐会を開いたばかりだ。

 それに、ヨトゥンヘイムの内情を探らせる為に祐筆として送り込んだアロケルから何の便りも無い事も、気にかかった。

 何より、スリュムがアグレウスの元に使者を遣わすのは初めての事だ。

 それも密使となれば、いやがうえにも疑惑が強まる。


 疑惑と警戒心を抱いて謁見の間に入ったアグレウスは、使者の姿を見て意外に思った。

 武官の装束を身につけてはいるが、若い女だ。

 だがそれを見てもアグレウスの警戒心は薄れる事無く、一層、強まった。

おもてを上げよ」

 アグレウスの言葉に、相手は顔を上げた。

 肌は浅黒いが、美しい女だ。

 銀色の髪や薄い瞳の色から察するに、妖精の血を引く者だろう。

 ――オリアスの側近護衛官だと申していた。ならばこの者をヨトゥンヘイム王の名の下に遣わしたのは、ヴィトルか…

 内心でアグレウスは呟いた。

 何を考えているのか判らないヴィトルの白皙の顔が、脳裏に浮かぶ。


「して、用向きは何だ?」

「恐れながら…私は密使として参りました故、お人ばらいをお願いしたく存じます」

 アグレウスの問いに、再び頭を垂れて、ヒルドは言った。

 アグレウスは侍従を下がらせたが、護衛官はそのまま残した。

 これは最初から厄介な交渉になりそうだと、ヒルドは内心で思う。

「王より第三者の臨席なき場での接見を果たすよう、命じられております。それゆえどうか…」

「護衛官は私のつるぎだ。このままで構わぬ」


 ヒルドは一旦、顔を上げ、アグレウスの両脇に控える護衛官を見遣った。

 四人とも無表情で兜で半ば顔が隠れ、石造のような印象を受ける。

 だが、彼らには耳もあれば口もあるのだ。

 オリアスに呪いがかけられた事は絶対の秘密であり、彼らの前で口にする事は出来ない。


「お言葉ではございますが、スリュム陛下は女皇フレイヤ様のご心痛を防ぐ為に、このような措置を取られたのです」

 ヒルドの言葉に、アグレウスは微かに眉を顰めた。

 そして、「まさか」と口の中で小さく呟く。

 その後、僅かに躊躇った後、手を振って護衛官たちを下がらせた。


「…オリアスの身に何事かあったのか?」

 護衛官たちが退出すると、単刀直入にアグレウスは訊いた。

「はい。二日前にお倒れになられ、未だ昏睡状態でおられます」

 そこまで言って、ヒルドは一旦、アグレウスを見た。

 アグレウスは微かに眉を顰めてはいるが、その整った顔から表情は読み取れない。

「侍医の見立てでは、昏睡の原因は病や毒物ではなく、呪詛である…と」

「呪いだと…?」


 それまで殆ど無表情だったアグレウスの顔に、驚きの色が現れた。

 が、それはすぐに別の不快そうな表情に取って変わる。


「ヨトゥンヘイム王がそなたをここに遣わしたのは、その事を知らせるだけの為ではあるまい」

「…呪いを解くには強力な力を持った魔導師の存在が必要と存じます。それ故スリュム様は、アグレウス殿下に魔導師を探す事をご協力頂きたいとお望みです」

 言葉を選びながらヒルドは言ったが、それでもアグレウスは不快気に眉を顰める。

「何故、私に?」

 ヒルドは一旦、口を噤み、息を深く吸った。

 それから、続ける。

「…ヨトゥンヘイムには魔術を使える者がおりませぬゆえ、魔導師を探すにはどうしてもヘルヘイムの方の協力が必要となります。されどスリュム様はフレイヤ様にご心配をかけるのは忍びないとお考えであらせられ、その一方でできるだけ早急に魔導師をヨトゥンヘイムに連れ帰る必要があります。魔導師はその存在を秘し世を忍んだ存在であると聞き及んでおります故、強力な魔導師を早急に探し出すだけの力を持ったお方は、アグレウス殿下の他にはおられぬと存じます」


 一息に言って、ヒルドは相手の反応を窺った。

 この口上はヴィトルから指示されたもので、言葉使いまで事細かく指定されていた。

 オリアスをアルヴァルディとは呼ばない事は勿論、ヘルヘイムの宮廷風の言葉使いやアクセント――ヒルドには、気取りすぎていて大仰に思える――を、ヴィトルの指示通りに忠実に再現した。

 それはヨトゥンヘイムの風俗習慣を野蛮と看做して嫌悪するアグレウスの機嫌を損ねない為の苦心であったが、それでもアグレウスは不快そうだった。


「魔導師と申すのは平民から依頼を受けて魔術を操る下賎な存在だ。なにゆえ私にそのような下賎の者を探す力があるなどと、ヨトゥンヘイムの王陛下はお考えなのか」

「…ヘルヘイムでは魔術が盛んに使われていると聞き及んでおります。それ故――」

「オリアスの元には宮中の侍医を遣わそう。貴族の出で、魔術の心得もある」

 ヒルドの言葉を遮って、アグレウスは言った。

「…その侍医殿であれば、オリアス様に掛けられた呪いを解く事が出来るのでしょうか?」

 ヒルドの問いに、アグレウスはすぐには答えなかった。

 視線を逸らし、口を噤む。


 オリアスはヘルヘイム皇家の血を引く高貴な生まれだ。

 そのオリアスを昏倒させるほどの呪いとなれば、相当強力な魔術が使われた筈だ。

 おそらく稀少な魔道具を使用しており、術者もそれなりの血筋の者だろう。

 そして魔道具も術者も特定できない状況で呪いを解く為には、かなり強力な力を持った術者と魔道具が必要となり、それには魔術を生業なりわいとする魔導師の存在は不可欠だろう――

 だが、と、アグレウスは内心で呟いた。

 ――そもそもオリアスが呪いを掛けられたなどというのはまことなのか? 真実だとして、誰が何の為に?

 オリアスは気さくで誰に対しても優しく、およそ人の怨みを買うような性格ではない。

 そのオリアスが呪いを掛けられたのであれば、それはオリアス個人ではなく、ヨトゥンヘイムの王太子の地位を狙ったものだろう。

 そしてヨトゥンヘイム王太子の地位を狙う者は誰か。


 客観的に考えて、真っ先に疑われるのは自分だと、アグレウスは思った。


 ギリングらスリュムの庶子たちも、ヨトゥンヘイムの次の王位を狙っている可能性はある。

 が、無骨一辺倒の彼らが呪詛などという手段を考えるとも、それを実現するだけの伝手があるとも思えない。

 ――疑われているのだ、この私が…。密かに強力な魔導師を利用してオリアスに呪いを掛けた…と。

 首謀者であれば使われた魔道具も術者の所在も知っているし、術者に命じて呪いを解くのも容易い筈だ。

 そう考えたからこそ、スリュムは密使を送り込んだのだ――


 黙り込んでしまったアグレウスの姿に、ヒルドは焦りを覚えた。

 そして、もしかしたら呪詛を行わせた首謀者は本当にアグレウスではないのかと、疑いを抱いた。

 改めて、ヒルドは上座に座るアグレウスを見遣った。

 顔立ちだけなら双子とみまごう程、オリアスに似ている。

 だが受ける印象はまるで異なる――と言うより、正反対だ。

 話し方は平淡でほぼ無表情で、薄い蒼の瞳は氷のような冷たい光を湛えている。

 ヴィトルから聞いた話では異母兄たちだけでなく、父のスリュムの事も軽蔑しているらしいし、幾つもの小国を攻めて王女たちを側室として支配する野心も持ち合わせている。

 何よりも猜疑心が強く自分の身や地位が脅かされる事を極端に恐れ、降りかかった火の粉を払うのではなく、火が立つ前に対処しようとする。

 そういう男であれば、かつて仲が良かった実弟であっても、自分の地位をより強固なものとする為には犠牲にする事も厭わないのかも知れない……


「…呪詛が解けるか否かなど、私の知りうる事では無い。侍医には全力を尽くさせる。私にできる事は、それだけだ」

 やがて口を開くと、冷淡にアグレウスは言った。

「ですがこのままではアルヴァルディ様が…!」

 思わず叫ぶようにヒルドは言ったが、すぐに冷静さを取り戻す。

「…恐れながら、アグレウス殿下におかれましても、オリアス様への呪いが一日も早く解かれる事を望んでおられると存じます。であれば、侍医の派遣だけでなく、魔導師を探し出す事にご助力賜りたく存じます」

 ヒルドの言葉に、アグレウスは表情を変えなかった。

 が、その瞳に浮かぶ光は一層、冷たくなる。

「それはつまり、魔導師探しに協力せねば、私がオリアスの回復を望んではいないと看做す、という事か」

「……」


 ヒルドは口ごもった。

 ここで肯定すればアグレウスの機嫌を損ねてしまうだろうが、嫌疑を晴らす為に協力せざるを得ない状況に、アグレウスを追い込む必要がある。

 だがあからさまにそれを口にすれば脅迫と看做されてアグレウスは態度を硬化させ、事態は悪くなるだろう。

 それは、避けなければならない。


「……アグレウス殿下とオリアス様は仲の良いご兄弟であらせられると伺っております。侍医殿の能力を疑うわけではございませぬが、強力な魔導師を探し出して確実に呪いを解かなければ、オリアス様は日々、衰弱してしまわれます。それにこの状況が長引けば、いずれは母君のフレイヤ様のお耳にも入る事となり、さぞかしご心痛あそばされる事になろうかと…」

 悲しみの表情を見せて、ヒルドは言った。

 アグレウスは情で動かされるような男には見えない。

 だが一旦は情に訴える振りをして、相手の出方を探ったのだ。

「だからヘルヘイムでも最高の典医を遣わすと言っているのだ。それでも治癒に向かわぬようであれば、改めて魔導師の件を考慮する」

「それでは遅いのです」

 ヒルドの言葉に、アグレウスは微かに眉を顰めた。

 ヨトゥンヘイム側がこれ程、急ぐ理由として、考えられるのは二つだ。

 一つは、ヨトゥンヘイムの豪族たちを抑えているのはオリアスであり、オリアスの身に異変があったと知れればその抑えが効かなくなって、豪族たちの反乱を招く恐れがある事。

 もう一つは、オリアスの容態が酷く悪く、一刻の猶予もならぬ事態である事だ。

「……オリアスの容態は、急を要するものなのか?」

「はい…! 極秘の事ゆえはっきりとは申せませぬが、火急の事態であると…」


 実のところ、オリアスの容態がどうであるのか、正確なところをヒルドは知らなかった。

 側近護衛官でも面会を許されるのはヴィトルだけであり、そのヴィトルはオリアスの容態について言葉を濁し、ただ危急の事態だと言っていたに過ぎない。

 だがオリアスに深い敬意を抱くヒルドに取って、オリアスに呪いが掛けられた事自体がおぞましい程に重大な事件であって、オリアスの昏睡状態がこれ以上、続く事など耐え難く思えた。


 アグレウスは再び口を噤んだ。

 ヒルドが嘘を言っているようには見えないが、ヘルヘイム皇家の血族であるオリアスを易々と呪殺するほどの力を持った魔導師がいるとも思えない。

 オリアス程、高貴な血筋の者でなくとも、呪殺にはある程度の時間がかかるものだ。

 倒れたのが二日前であるなら、まず侍医を送って診察と治療を試みてからでも手遅れになる可能性は殆ど無いだろう。

 であればヨトゥンヘイム側が解決を急いでいるのは豪族の反乱を防ぐ為であり、ヒルドはオリアスの実際の容態を知らされていないのだろうと、アグレウスは考えた。

 ヒルドはスリュムの命で遣わされて来ているが、彼女を密使に選んだのはまず間違いなくヴィトルだ。

 あの何を考えているか判らないしたたかな男が背後で糸を引いているなら、迂闊に動くべきではないだろう。

 何より呪詛の首謀者として自分が疑われているのに、魔導師をヨトゥンヘイムに送り込んだりすれば、スリュムは魔導師を復讐に利用するかも知れない――

 そこまで考えて、アグレウスは魔導師をヨトゥンヘイムへ送るのは却って危険だと判断した。

 スリュムが呪詛の首謀者として自分を疑っているとしても、何の証拠も無しに軍を動かす事は出来ない筈だ。

 だが魔導師が利用できるとなれば、どう動くか予想が付かない。


「私もオリアスの身は案じている。それゆえ今夜中に医術と魔術に精通した最高の典医を選び、明日早朝にも出発させよう」

 言って、アグレウスは席を立った。

 ――そんな……!

 去ってゆくアグレウスの後姿に、ヒルドは絶望を覚えた。


「お待ちください…!」

 思わず叫び、ヒルドはアグレウスに駆け寄った。

 アグレウスは歩みを止め、不快そうにヒルドを見る。

 この非礼な行いによって間違いなくアグレウスの機嫌を損ねるだろうとヒルドは思ったが、それに構っている余裕は無かった。

 一刻も早く魔導師を連れ帰って呪いを解かなければ、オリアスは衰弱死してしまうかも知れない――その不安は恐怖と言って良い程に強くヒルドの心を突き動かした。

 ――自分で志願して密使となったのに交渉を決裂させてしまったら、死んでもお詫び出来ない…!

 ヒルドは既に、冷静さを失っていた。

「医師は魔術の専門家ではない筈です。何故、魔導師を探す事をそうまで頑なに拒絶なさるのですか?」

「無礼者。控えよ」

 ヒルドの問いには答えず、冷淡にアグレウスは言い放った。

 ヒルドは数歩、後ずさったが、最早引き下がる事は出来なかった。

「私はこのまま無礼討ちで処刑されても一向に構いません。ですがどうか魔導師を探し出して、アルヴァルディ様をお救いください…!」


 必死で訴えるヒルドの姿に、アグレウスは微かに眉を顰める。

 そして何故、ここまで必死になるのかといぶかしんだ。

 改めてヒルドを見遣ったアグレウスは、最初に受けた印象以上にヒルドが美しい事に気づいた。

 顔立ちが整っているだけでなく、手足がすんなりと長く胸はほど良くふくらみ腰は引き締まって細く、武官にしておくには惜しい容姿をしている。


 まさか…と、アグレウスは内心で呟いた。

 それから上座の椅子に再び腰を降ろし、もう一度、ヒルドを見た。

 薄い蒼に見えた瞳は今は翠に見え、髪と同じ銀色の長い睫毛に縁取られて、全く化粧をしていないにも拘らず華やかに見えた。


「己の生命をなげうってでも、オリアスの為に魔導師を連れ帰るつもりか?」

「はい…! 私の生命などで引き換えにできるものならば、喜んで生命を捧げます」

「何故だ?」

 アグレウスの問いに、ヒルドは意外そうな表情を見せた。

「アルヴァルディ様――いえ、オリアス様は私の主であり、私はオリアス様の側近護衛艦です。オリアス様をお護りする為であれば、自分の生命など惜しみません」

「ヴィトルに何を聞かされているかは知らぬが、オリアスの容態がそこまで悪いとは、私には到底、考えられぬ」

 だからまず典医を遣わして様子を見るのだと、アグレウスは付け加えた。

 だがヒルドは不安そうに首を横に振った。

「お言葉ですが万が一、という事もあります。もしもその万が一の事が起きてしまったら、私は死んでも死に切れません」

「…それ程までにオリアスが大事か」

「はい…! 十三の時に初めてお会いした時から、オリアス様の側近護衛官になる事だけを考えて生きてきました。武芸を磨いたのも教養を身につけたのも全てオリアス様のお側近くでお仕えする為で、私の全てはオリアス様の為だけにあります…!」


 アグレウスは口を噤んだ。

 他の護衛官であっても、オリアスの生命が危険に晒されているのならば自らを省みずに護ろうとするだろう。

 だがオリアスは呪いを掛けられたとは言えただ昏睡しているだけで、さほど危険な状態には思えない。

 ――それでも己の生命を捧げると申すこの女は、単なる護衛官ではあるまい…

 必死の表情でまっすぐにこちらを見つめるヒルドの姿に、アグレウスは嗜虐的な興味を覚えた。

 オリアスには一人の側室もいないが、幼い子供ではなく成熟した男だ。

 その側近くに若く美しい女がいれば、心が動く時があっても不思議では無い。

 だが側室とはしていないのだから、その関係は秘密のものであって、スリュムにも隠しているのだろう。

 面白い――とアグレウスは思った。

 オリアスが父にも隠している秘密を暴き、共有する事ができれば、オリアスは今まで以上に自分に対して協力的にならざるを得まい。

 そしてオリアスの協力を得る事は、アグレウスの身や地位を護る上で、何より心強い力となる。


「魔導師を連れ帰る為ならば、己の生命を棄てると、そう申すのだな?」

「はい。生命であれ何であれ、惜しみはしません。私に出来る事ならば、何でもいたします」

「何でも…か」

 アグレウスは肘掛に肘を付き、頭をやや傾げてヒルドを見た。

「だがそなたは単なる護衛官であって、ヴィトルのように片腕として重用されている側近ではあるまい」

「それは…私がまだ護衛官になって日が浅い為にヴィトル殿のようには信頼して頂けていないかも知れませんが、精進を続けていずれは…」

 視線を落とし、やや口ごもってヒルドは言った。

 単なる護衛官以上の勤めを果たしていたとしても、オリアスがその関係を公に認めていない以上、否定し、隠そうとするだろうとアグレウスは思った。

 ならば言葉で尋ねても、秘密は暴けない。

 しか無いのだ。


「良かろう。早急に魔導師を探し、見つけ次第、ヨトゥンヘイムに遣わす」

 但し、とアグレウスは続けた。

「引き換え条件として、そなたに夜伽を命じる」

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