第32話 交渉--前編--

 ヴィトルは他の者たちを下がらせると、ヒルドに幾つかの注意を与えた。

 アグレウスの性格やスリュムやオリアスとの距離感、ヘルヘイム皇宮内の勢力図、アグレウスの側室とその子供たちについて――等である。

 それらはヴィトルがヘルヘイムに赴いてアグレウスに謁見した時に受けた印象や廷臣たちから聞いた話、オリアスやスリュムの言葉や態度から判断した個人的な感想であって、二つの王家の内情に係わる事でもあるので一切の他言は無用だと、ヴィトルは何度か念を押した。

 そしてその話の内容はヒルドには全く想定外だった。

 ヘルヘイムとヨトゥンヘイムは連合王国であり、つい先日、スリュムとフレイヤの仲睦まじい姿を目撃したばかりである。

 価値観の違いから両国の住人が互いを蔑視する間柄である事はヒルドも知っているが、オリアスに呪詛をかけた首謀者がアグレウスであると、スリュムが本気で疑うほどに険悪だとは、思っていなかったのだ。


「時間が無いゆえ非礼を承知で言うが、アグレウス様は猜疑心が強く、自尊心が余りに高い事もあって血のつながった親族の事すら信頼していない。側室の産んだ御子たちを省みないのは勿論、スリュム様とは憎みあっていると言っても過言でない程に険悪な仲だ」

 ただ、とヴィトルは続ける。

「母君のフレイヤ様には敬意を表しているし、アルヴァルディ様とは、以前は仲の良いご兄弟であった」

「以前は……ですか?」

 訊き返したヒルドから視線を逸らし、ヴィトルは微かに眉を顰めた。

「アルヴァルディ様がご幼少の頃は、間違いなく兄弟仲は良かった。だが、アルヴァルディ様がスリュム様から絶大な期待を寄せられている事、アルヴァルディ様がアグレウス様とギリング様たち異母兄を隔てなく兄君として接しておられるお姿が、ギリング様たちを侮蔑するアグレウス様には気に入らぬのだ」

「そんな……」


 思わず、ヒルドは漏らした。

 ヴィトルはヒルドに視線を戻し、続ける。


「ヘルヘイムはアグレウス様、ヨトゥンヘイムはアルヴァルディ様が継承なさる事で合意ができているが、アグレウス様がヨトゥンヘイムの王位まで奪おうと画策するのは、考えられぬ事では無い」

「そんな酷いこと、絶対に許せません」

 強い口調で言ったヒルドに、ヴィトルは矢張り交渉にヒルドを向かわせるのは荷が勝ちすぎるのではないかといぶかしんだ。

 ヒルドは努力家だがまっすぐな性格で、感情をそのまま相手にぶつけるきらいがある。

 アグレウスの機嫌を損ねてしまったら、交渉にも何にもならない。

「……繰り返すが、自負心の強いアグレウス様の態度を硬化させるような発言や振る舞いは一切、してはならぬ。アグレウス様に嫌疑がかかっている事も、言外にほのめかすだけに留めねばならないのだ」

「それは心得ています。どうか、私を信じてください」


 ヴィトルは微かに眉を顰めたまま、ヒルドを見つめた。

 その表情にも口調にも、真摯さが表れている。


「本来ならば私が行くべきなのだが……今はアルヴァルディ様のお側を離れるわけにはゆかぬ」

「どうかお任せ下さい。必ず魔導師を連れ帰りますから」

 躊躇いを見せたヴィトルに、明るい口調でヒルドは言った。

 内心では自信がある訳ではなく、初めて会う事になるアグレウスがオリアスとは大分、性格の異なる男であるらしい事に不安すら覚えていたが、この任を外される事は耐えられなかった。

 オリアスが倒れたと聞いた時から、心配で胸が潰れそうな想いでいる。

 王城の内外で不審者捜索の任にはついていたが、その甲斐は無かった。

 だが魔導師を連れ帰りさえすれば、オリアスを救えるのだ。

 殆ど戦が起きなくなっており、功績を立てる機会が減っている今、主君を危機から救う為に全力を尽くして――それが必要であるのなら、自分の生命を賭けてでも――任務を遂行する。

 それがオリアスに対する忠誠を示し、十三の時に立てた誓いを守る確実なすべなのだ。


「では、今すぐ発ってくれ。飛竜で行ってもヘルヘイムに着くのは夕方になるだろうが、一刻の猶予もならぬのだ」

「はい……!」

 力強く、ヒルドは答えた。

 自分を待ち受けている運命がどれほど過酷で数奇なものなのか、ヒルドは予想だにしていなかった。



「エーギル殿…」

 自分の閉じ込められている牢を訪れた相手の姿に、アロケルは意外そうに目を見開いた。

「なぜ、あなたがこのような所に…?」

「いや…大丈夫かどうか気になってな」

 不自由な右手の代わりに左手でがしがしと頭を掻いて、エーギルは言った。

「お気にかけて頂き、ありがたく存じます。ですが…こんな所に来られてはエーギル殿にも不当な嫌疑がかけられるのではありませぬか?」

「さすがにそれは無いと思うが…だがかなりピリピリした雰囲気になってるからな。バレたら叱責くらいは受けるかも知れん」

「それなのに、わざわざ来て下さったのですか?」

 不安げな表情で問うアロケルの姿に、自分は軽はずみな行動をしてしまったのかも知れないと、エーギルは思った。

 彼としては純粋に――ある意味、単純に――従兄弟で自分の補佐役であるアロケルが捕らえられたので、その身を心配しただけなのだ。

「…見たところ、拷問はされていないようだな」

「はい」と、アロケルは力なく笑った。

「拷問道具を見ただけで恐れをなしてしまい、洗いざらい喋ってしまいましたから。拷問官には『拍子抜けした』だとか、『これだからヘルヘイムの軟弱者どもは』だとか、呆れられました」

 哀しげに目を伏せて、アロケルは自嘲気味に呟いた。


 この事がアグレウスの耳に入れば、自分のヘルヘイムでの将来は閉ざされる事になるだろう。

 これならばまだ、異母兄の侍従として使い走りをやらされている方がマシだった。

 その身分に甘んじていれば良かったのに、アグレウスに呼び出された時に、愚かにも身のほど知らずな期待を抱いてしまった。

 そしてそれが故に、こんな目にあう羽目になったのだ。

 あの時、自信がないからと言ってアグレウスの命を断っていれば、一生、使い走りのままであっても罰を受ける事は無かっただろう。だが一旦、受けた命令を遂行できなかったとなれば、アグレウスの怒りを買って、皇宮から追放されるかも知れない――


「…俺にできる事は何も無いが、アルヴァルディ様さえ無事に目覚めれば、きっとすぐに釈放される筈だ」

 宥めるようにエーギルは言ったが、アロケルの不安は募るばかりだった。

 釈放されてもヘルヘイムに送り返されればアグレウスに何らかの処分を受けるだろうし、何よりもし、このままオリアスが目覚めなければ、自分や他の祐筆たちがどうなってしまうのか、想像するだに恐ろしかった。

「…じゃあ、俺はこれで」

 他にかける言葉がみつからず、エーギルは言った。

 アロケルは力なく俯くばかりで、その姿は寄る辺のない少女のように、か弱く見えた。



 ヒルドは支度が整い次第、飛竜に乗ってヘルヘイム皇宮を目指した。

 極秘の密使であるので、単騎である。

 連合王国とは言えヨトゥンヘイムとは風俗も習慣も全く異なる国をたった一人で初めて訪れるのだから、不安が無いと言えば嘘になる。

 増してや、これから会いに行くアグレウスはヴィトルから話を聞く限り、かなり接しにくい男のようだ。

 それでも、オリアスに掛けられた呪いを一刻も早く解く為に全力を尽くすだけだと、ヒルドは決意を新たにした。


「ヨトゥンヘイム王スリュム様より命を受けて参った。取次ぎを願う」

 皇宮の大門に着くと、ヒルドは衛兵に言って、国璽の刻印で封印された命令書を示した。

 王の使者が供を連れていないなど異例な事で、衛兵たちは怪訝そうな顔を見合わせていたが、それでもすぐに上官に取り次いだ。

 上官は刻印をあらためるとヒルドを宮中に招じ入れ、自衛の為に身につけていた剣を預かると、侍従に控えの間まで案内させた。

 それから侍従は退出し、やがて宮中護衛兵が数名の部下を伴って部屋に現れた。


「使者殿はいかなる用向きで参られたのか、お聞かせ願いたい」

 位の高そうな宮中護衛兵に問われ、ヒルドは皇太子アグレウス様への謁見を賜りたいと答えた。

 そして、これは機密を要する任務であり、自分は密使なのだと付け加える。

 護衛官は微かに眉を顰め暫く思案していたが、やがて部下に何事かを申し付けた。

 暫くして文官らしき男が現れ、命令書を開封して中身に目を通した。

 そして護衛官同様にかすかに眉を顰め、暫く思案する。

 命令書には、この命令書を持参した者をアグレウスに謁見させるようにとのスリュムの要請がしたためられているだけで、理由や背景など、何も説明されてはいなかった。


「…皇太子殿下には、廷臣たちとの会議のあと、公爵家の方々と御会食の予定がおありだ。取り次ぐのは明日の朝――」

「それでは遅すぎる」

 文官の言葉を遮って、幾分か強い口調でヒルドは言った。

「詳細は説明できないが、これは機密と緊急を要する命なのだ」

 ヒルドの強い口調と真剣な表情に、文官と護衛官は当惑気に顔を見合わせた。

「…では会議が終わるのを待って殿下に事の次第をお伝えしよう。だが謁見が叶うのは早くとも御会食が済んでからになるだろう」

「…承知した」

 渋々、ヒルドは言った。

 こうしている間にもオリアスが少しずつ衰弱していくのかと思うといても立ってもいられない気持ちだったが、ここで焦っても事態は悪くなるばかりだ。


 二時間近く待たされた後、ヒルドを控えの間に案内したのとは別の侍従が現れ、アグレウスへの謁見が許可された事を伝えた。

 が、やはり公爵たちとの晩餐が済むまで待たねばならないとの事だった。

「公爵」という言葉にヒルドはふと、ヨトゥンヘイムの離宮で会ったファウスティナの事を思い出した。

 女皇フレイヤの上級女官であり、公爵家の姫であり、オリアスの妃候補であるとも言っていた。

 確かに美しい事は美しいし家柄も充分なのだろうが、それでもあんな冷たい作り笑いを浮かべた女がオリアスの妃に相応しいとは、ヒルドには思えなかった。

 だが、王族――それも次の王となるべき身分の者の婚姻は極めて政治的な事柄であり、いずれはオリアスも、自分の立場に相応しい女性を妃に迎える事になるのだろう。

 そしてそれは本人の言っていた通り、ファウスティナかエレオノラのどちらかになるのかも知れない――


 そう思った時、胸の奥が鈍く疼くのを、ヒルドは感じた。

 あの優しいオリアスに心が氷で出来ているような女を添わせるのは、酷な事に思えた。

 だがそれは、側近護衛官であるヒルドが口を挟むべき事柄では無い。

 ――余計な事を考えるな、ヒルド。今は魔導師を連れ帰ってアルヴァルディ様をお救いする任務に集中しろ。

 自らを戒めるように言い聞かせ、ヒルドはすっかり暗くなった窓の外に目を転じた。


 暫くして侍女がヒルドの為に簡単な夕食を運んで来たが、ヒルドは手を付ける気にならなかった。

 待たされている時間が長引けば長引くほど、緊張が高まっていたのだ。

 普段はオリアスの側近護衛官として、比較的親しく接する事が許されているが、それはオリアスの気さくな性格やヨトゥンヘイムのおおらかな気風の故であって、格式を重んじるヘルヘイム皇宮にあっては、皇太子に謁見を求めるというのは、これ程までに手間と時間がかかり、骨が折れる事なのだと思い知り、改めて自分の任務の重要さを痛感した。



 夜も大分、更けた頃、先ほどとは別の侍従が現れ、ヒルドを謁見の間に案内した。

 謁見の間は広く厳かで寒々しい雰囲気があり、一段高くなった上座にヒルドの目には仰々しく映る豪華な椅子が置かれていた。

 侍従はヒルドに下座で控えて待つように伝えると、壁際に下がった。

 ヒルドは片膝をついて跪き、そのまま暫く待った。

「皇太子殿下、おなりでございます」

 やがて上座の扉の向こうから声がし、ヒルドはこうべを垂れた。

 重い扉が静かに開き、部屋の中に人が入ってくる気配がした。

「そなたがヨトゥンヘイム王からの使者か?」

 暫く間を置いて、上座から声がした。

 少し、オリアスの声に似ているようだと、ヒルドは思った。

「オリアス殿下の側近護衛官を勤めております、ヒルドと申します」

 ヒルドが答えても、相手はすぐには反応を示さなかった。

おもてを上げよ」

 ヒルドが内心、苛立ち始めた時、相手は言った。

 顔を上げたヒルドの目に入ったのは、左右を護衛の武官らしき四名に護らせて椅子に座るアグレウスの姿だった。

 そしてその瞳を見た瞬間、背筋がぞくりとするのを、ヒルドは覚えた。

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