第34話 代償--前編--
ヒルドは呆然として、謁見の間から出て行くアグレウスの姿を見送っていた。
何を言われたのか、意味が判らない。
正確に言えば、頭で意味が判っているが、気持ちがついて来ないのだ。
アグレウスに多くの側室がいる事は知っているが、まさか自分が――アグレウスの実弟オリアスの側近護衛官である自分が――その対象として見られるなどと、思ってもいなかったのだ。
もしや聞き間違いではないかと思い始めたヒルドの僅かな希望は、すぐに打ち砕かれる事になる。
数名の侍女が謁見の間に現れ、ヒルドを別室へと
そこでヒルドは湯浴みをさせられ着替えをさせられ、侍女たちの手で化粧が施された。
それでもまだヒルドには、自分の身に降りかかった運命が信じられなかった。
鏡の中から自分を見つめている女は、しどけなく髪をたらし肌は白く唇は紅く、全く見知らぬ女のように見えた。
やがて支度が整うと、ヒルドは侍女たちに導かれて後宮への長い廊下を渡った。
頭に靄がかかったように呆然とし、碌にものを考える事も出来ない。
もしやヴィトルが自分を密使に選んだのはこれが狙いだったのかとの疑惑が一瞬、頭を過ぎったが、アグレウスの寝所の扉を見た瞬間に、僅かに残っていた全ての思考力が失われた。
その後の事は、文字通り悪夢のようだった。
気が付くと再び侍女に先導されて別室に下がらされたが、一睡も出来ずにそのまま朝を迎えた。
そして夜が明けると供に、アグレウスが前夜、選任していた典医たちと供に、ヨトゥンヘイムへ戻った。
ヒルドがヨトゥンヘイムに向けて出発した数時間後、アグレウスは平素通りの時刻に寝所で目覚めた。
そして、オリアスの秘密を暴いて弱みを握る試みが失敗した事を、残念に思った。
ヒルドはオリアスの秘された愛妾ではなかった。
まだ誰にも手折られていない花だったのだ。
それでも約束してしまった以上、魔導師を探してヨトゥンヘイムに派遣しなければならない。
たとえそれが単なる口約束であり他に聞いている者が誰もおらずとも、ヘルヘイム皇家の血族として交わした契約を守らなければ、家名に傷がつく。
――これはヴィトルにしてやられたか…
不快な思いと共に、内心でアグレウスは呟いた。
だがいずれにしろ、魔導師は探さなければならない。
オリアスに呪いを掛けた者が誰で目的が何であるか判らない以上、次に狙われるのは自分かも知れないのだから予防策としても強力な魔導師の存在が必要となるのだから。
ヨトゥンヘイムに帰り着いたヒルドは、医術と魔術に精通した典医を同行した事、アグレウスが早急に魔導師を探してヨトゥンヘイムに派遣するとの言質を取った事をヴィトルに報告した。
僅か一晩でヒルドがすっかし憔悴し、やつれ切っている事に、ヴィトルはすぐに気づいた。
それにヒルドは俯いたままで、こちらを見ようともしない。
初めヒルドのその様子を見た時、交渉が決裂して魔導師を探させる事に失敗したのだと、ヴィトルは思った。
だが、ヒルドの報告ではそうでは無い。
任務を無事、果たしたと言うのに、ヒルドはこの世の終わりのような
「…体調が優れないようだな」
何があった? と訊く代わりに、ヴィトルは言った。
何があったのか、ほぼ推測できたからだ。
「家に帰って休むが良い。大任を無事果たし、ご苦労だった」
ヒルドは黙ったまま頷き、そして踵を返した。
ヘルヘイムから派遣された典医たちはすぐにオリアスを診察し、昏睡の原因が呪詛であると断定した。
そして容態が急激に悪化する可能性は殆どないものの、術者の居所がわからない以上、自分たちに呪いを解く事は不可能であり、強力な魔導師の存在が必要だと述べ立てた。
ヨトゥンヘイムに魔導師が到着したのは三日後、オリアスが倒れてから六日後の事だった。
「殿下に掛けられた呪詛を解く事と、術者の正体と居場所を突き止める事、いずれを優先いたしますか?」
スリュムと接見した魔導師は、開口一番にそう、訊いた。
「無論、呪いを解く方が先じゃ」
「では、そのように…」
「いや、待て」と、スリュムは相手を引き止めた。
「呪いを解く事を優先したら、術者の正体は突き止められなくなるのか?」
「御意にございます。一通り術式を行って呪詛の系統を確認しなければ確かな事は申せませんが、殆どの場合、呪い返しを行って術者を呪殺する事が、呪詛を解く早道となります。しかしその場合、呪いが解けておりますので、術者へと辿る事が出来なくなります」
スリュムは口を噤み、やや考えてから言った。
「術者の正体を突き止める方を優先したら、呪いを解くのに時間がかかるのか?」
「御意。術者が遠くにいる場合は少なくとも一週間、巧みな術者であったり居場所を移していたりするのであれば、どうあっても居場所も正体も突き止められない事もございます」
「それでは話にならん」と、不機嫌そうにスリュムは言った。
「呪いを解く事を最優先しろ」
スリュムの言葉に、魔導師は深々と頭を下げた。
魔導師はすぐに儀式に取り掛かった。
集中したいと言って人払いを願い出たが、スリュムはヨトゥンヘイムの侍医と衛士の立会いなしに儀式を行う事を許さなかった。
アグレウスが派遣してきた魔導師を信用していなかったからだ。
魔導師は呪術を必要としながら自分たちの事を信用しない者たちの仕打ちに慣れているので、特に不満には思わなかった。
だがヨトゥンヘイムに来るに先立って、アグレウスに一族を人質として抑えられた事は、やりすぎであると不服に思っていた。
アグレウスがそこまでしたのは、スリュムが魔導師を利用して自分に『復讐』しようとするのではないかと危惧したからだが、魔導師はそれを知る由も無かった。
術式は三日三晩に亘って行われ、四日目の朝、オリアスは目を覚ました。
倒れてから十日後の事だった。
「…これは一体、どういう事なのだ…?」
自分の寝所に父スリュムを初め異母兄たち、侍医と見知らぬ者たち――ヘルヘイムからの典医たちと魔導師――がいるのを見て、不思議そうにオリアスは言った。
寝台から起き上がろうとして眩暈を覚え、こめかみに手をやる。
「暫くはおとなしく養生しておれ。十日も昏睡状態だったのじゃからな」
安堵に相好を崩し、穏やかな口調でスリュムは言った。
ヨトゥンヘイムの侍医とヘルヘイムの典医たちがすぐに脈などを確認し、暫くは静養が必要との診断を下した。
侍医を残して他の者たちは退出したが、オリアスはヴィトルを呼び止めた。
「正直、まだ頭がぼんやりしているのだが…何があったのだ?」
力なく寝台に横たわったまま、オリアスは訊いた。
「何者かによる呪詛によって、お倒れになられたのです。十日の間、昏睡状態でした。ヒルドが志願して急使としてヘルヘイムに赴き、魔導師を連れ帰って呪いを解く事に成功したのです」
再び主の声を聞けた事に感動を覚えながら、ヴィトルは言った。
「そうか…。ヒルドはどこだ…?」
まだ意識が不鮮明らしく、ぼんやりと視線を宙に漂わせながら、オリアスは訊いた。
「体調を崩したゆえ実家で静養させておりますが、アルヴァルディ様がお目覚めになられたと聞けば、すぐにも回復いたしましょう」
オリアスを安心させる為に口元に微笑を浮かべ、静かにヴィトルは言った。
「そうか」とだけ短く言うと、オリアスは再び目を閉じた。
オリアスが意識を取り戻した事でスリュムは大いに喜び、魔導師に気前良く褒美を与えた。
エーギルとアールヴ、それにヴィトル以外のオリアスの側近たちも見舞いたがったが、侍医の判断で、暫く面会は制限する事になった。
ヴィトルはオリアスが無事、目覚めた事を知らせる使いをヒルドの実家に送った。
が、それでも胸に棘が刺さったような感覚はぬぐえなかった。
ヘルヘイムから戻って以来、ヒルドはずっと床についていた。
日が経てばたつ程、記憶は却って鮮明に蘇り、屈辱は増すばかりであった。
碌に食事も採らず夜も眠れていないらしい娘を母は心配し、父はアルヴァルディ様に掛けられた呪いはすぐに解かれると言って宥めた。
二人とも、ヒルドがオリアスの身を案じ、心痛の余りに寝込んだのだと思っていた。
ヒルドが密使としてヘルヘイムに行った事は極少数の関係者しか知らず、ヒルドの両親でさえ、その事を知らされていなかったのだ。
昼近くになって、ヴィトルからの使者がヒルドの家を訪れた。
スルトだった。
「アルヴァルディ様は? お目覚めになられたのか?」
スルトの顔を見るなり、勢い込んでヒルドは訊いた。
スルトは「ああ」と短く答えた。
ヒルドのやつれ振りに、驚いたのだ。
「良かった……」
振り絞るような声で言って、ヒルドは安堵の溜息を、深く吐いた。
「それでアルヴァルディ様のご容態は?」
「俺たちも面会は許可されていないから詳しくは判らないが、まだ少し意識が混濁している状態らしい。だが魔導師の呪い返しで術者は死んだらしいから、危機は脱したってとこだろう」
「そうか…」
言って、ヒルドは再び深く溜息を吐いた。
安堵の笑みを浮かべた穏やかな表情だが、意外なほど憔悴しきっている。
無事に任務を果たしたのにこれ程、面やつれしてしまったのには、何か理由がある筈だとスルトは思った。
「…お前が密使としてヘルヘイムから魔導師を連れ帰って呪いを解いた事、ヴィトル殿からアルヴァルディ様に報告したそうだ」
「アルヴァルディ様に…?」
大きく目を見開いて、ヒルドは相手を見た。
それからやや俯き、両手で顔を覆う。
肩を小刻みに震わせ、声を押し殺して泣くヒルドの姿をスルトは暫く黙って見つめていたが、口を閉ざしたまま踵を返し、部屋を後にした。
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