第21話 噂
噂が立ち始めたのは、グレモリーとスロールの婚約が発表された直後だった。
それは怪文書のような直接的なものではなく、口から口へ、ゆっくりとだが確実に広がっていった。
根拠もなければ証拠も無い。
だが、それがフレイヤの耳にも入る程に広まると、放置してはおけなくなった。
フレイヤから相談を受けたアグレウスは、まず護衛兵長官のエリゴスを呼んだ。
「宮中に広まっている噂、そなたの耳にも届いていると思うが」
「御意にございます」
「そなたはどう、聞いている?」
片膝をついて控えたまま、エリゴスは口を開いた。
「噂の一つは、第四王子フォルカス様が妹君のグレモリー姫と商人スロールの婚儀によって影響力を得ようと画策したとの内容、いまひとつは、その為に邪魔となるベムブルを殺害したとの噂でございます」
躊躇いも無く、エリゴスは言った。
「根拠はあるのか?」
「ベムブルが殺害された日、フォルカス様が自室からお出にならなかった事、ベムブルとはなんらの接触も持たなかった事は、宮中護衛兵の証言から明らかとなっております」
「では、フォルカスが殺害犯ではありえぬ、と?」
「目に見える限りでは、不可能となります」
エリゴスの言葉に、アグレウスは黙って相手を見据えた。
ベムブル殺害に何らかの魔法が使われた可能性が高いのは、誰の目にも明らかだ。
フォルカスは二つの王家の血を引いているので、魔道具さえあればそれを使いこなす事はたやすいだろう。
が、フォルカスの母グレータの故国は滅ぼされており、故国の王家に伝わる魔道具は全て没収している。
それでも、何らかの方法でいずこかから魔道具を手に入れた可能性は否めない。
「フォルカスをここに呼べ」
そう、アグレウスは言った。
そして、その間にフォルカスの部屋を調べる事を、エリゴスに命じた。
アグレウスの執務室に呼び出されたフォルカスは、いつも通り、整った顔に柔和な笑みを浮かべていた。
「その様子では、呼び出された理由は判っているようだな」
アグレウスの言葉に、フォルカスは頷いた。
「申し開きをした方が宜しいでしょうか?」
相変わらず微笑を浮かべたまま、フォルカスは訊いた。
その落ち着き払った態度に、アグレウスは却って疑惑を強めた。
無実の者が濡れ衣を着せられたなら、もっと必死になって弁明するものだろう。
だがフォルカスの態度は、自分の罪が決して露見しないと確信している者のそれだと、アグレウスは思った。
「グレモリーに求婚してきたのはベムブルであって、こちらから働きかけた訳ではありませぬ。ましてやベムブルを殺害するなど、思いもよらぬ事です――と、もっと切々と訴えた方が無実らしく見えるでしょうか?」
アグレウスの心を見透かしたかのように、落ち着いた態度でフォルカスは言った。
「……失踪した侍女を
「侍女の失踪の話は存じませんでした。私が耳にした噂は、グレモリーとスロールの婚姻に関してのみでございますので」
アグレウスは、微かに目を細める。
「あの侍女は、アールヴ付きであった。であるならば、アールヴに届けられた菓子に毒を盛らせたのもそなたか?」
「その件であれば、ただの食あたりであったと伺っておりますが」
表情を変えるでもなく、澱みなくフォルカスは言った。
気に入らない態度だと、アグレウスは思った。
相手が親王の称号を持つ皇位継承者でなければ、証拠など無くとも何とでも理由をつけて処罰できる。
だが親王を厳罰に処するには女皇フレイヤの許可が必要だし、確かな証拠もなしに彼女が孫を処罰はしないのだと、フォルカスは判っているのだ。
「……そなたの母は、故国を滅ぼされた事を最期まで怨んでいたな」
「愚かしい感情だと存じます。母も、最期には後悔しておりました」
「スロールの財力を後ろ盾として、宮中の権力を握るつもりか?」
「そのような事は、全く考えておりませぬ」
相変わらず微笑を浮かべたまま、落ち着いた口調でフォルカスは答えた。
これ以上、尋問しても時間の無駄だ――アグレウスはそう思い、フォルカスを下がらせて沙汰のあるまで控えの間で待つように命じた。
エリゴスに率いられた宮中護衛兵は、フォルカスとグレモリーの部屋を徹底的に調べた。
部屋だけでなく、侍女の私物にいたるまで調べは及び、余りに調べ方が徹底していた為に、フォルカスとグレモリーはその夜、寝室が使えず、予備の間で眠る事を強いられた程だ。
侍女たちも一人ずつ取調室に連れてゆかれ、厳しい尋問を受けた。
だが、何も出なかった。
怪文書にせよ、ベムブル殺害にせよ、また失踪した侍女とフォルカスの間に何らかのつながりがあった事を示す証拠も証言も、何も得られなかった。
それを不満に思ったのは、捜索の翌朝早く、義弟から情報を得たザガムである。
「そなたが捜索の権限を得たのであれば、証拠となりそうな品をフォルカスの部屋に隠せば良かったであろうに」
声を潜めて言った義兄に、エリゴスは重々しく首を横に振った。
「捜索の折には、皇太子殿下の命で、女官が立ち会っておりました」
ザガムは眉を顰める。
「何と用心深いお方だ……。だがそうなると、父上はそなたを、ひいては私の事もお疑いになっておられるという事か?」
「残念ながら、お言葉の通りかと」
エリゴスの言葉に、ザガムは不満気に呻いた。
「では今回も、証拠不十分で誰も罰せられぬまま有耶無耶に終わるのか?」
エリゴスは暫く考えてから、口を開いた。
「全ては皇太子殿下の御心次第なので断言はできませぬが……スロールは大貴族を上回る莫大な財産と私兵、複数の鉱山を相続いたしました。多くの兵器工場も相続財産に含まれます。それ程の影響力を持つ者と公女の婚姻をお決めになられたからには、殿下には何らかのお考えがあるものかと」
ザガムは義弟から視線を逸らし、窓から外を見遣った。
そして、問題はこの婚姻が宮中の勢力図にどう影響を及ぼすかだ、と心中で呟いた。
ヘルヘイム皇宮が不穏な空気で満ちていた頃、ヨトゥンヘイムでは武術競技会の準備が着々と進められていた。
暇を持て余している兵士や、何らかの功績を上げたい戦士たちがこぞって参加を希望し、その数は当初の予定の数倍に膨れ上がった。
その日ヒルドは、競技会への出場を許可してもらうべく、オリアスを訪れていた。
が、勢い込んで出場許可を願い出たヒルドに、オリアスは首を横に振った。
「私の側近護衛官には、監視と審判の役目を与えるつもりでいる」
「……!」
オリアスの言葉に、ヒルドは自分の不明を恥じた。
側近護衛官である以上、護るべき持ち場があり他の護衛官と交代で日夜、勤務にあたっているのだ。
出陣に備えて待機中である兵士や戦士たちとは、立場が違う。
オリアスに同行して警護を命じられる時以外は控えの間に詰めているだけの退屈な任務とは言え、大切な役目である事に変わりは無い。
「申し訳ございません。心得違いをいたしておりました」
深く頭を下げたヒルドに、オリアスは宥めるように微笑した。
「そなたは私の側近になったばかりゆえ、功を焦る気持ちは判るが……」
焦りは禁物だと、オリアスは続けた。
「そなたには競技会の監視の他にも、頼みたい事がある」
また失態を演じてしまったと内心、
ヒルドは顔を上げ、相手を見る。
「近いうちに母上が静養のため、ヨトゥンヘイムに来られる。その時の警護を頼みたい」
「ヘルヘイムの女皇陛下が……?」
ヒルドの問いに、オリアスは軽く頷いた。
「なるべく競技会とは時期をずらして調整するつもりだ。日程が決まったら、そなたにも知らせる」
「光栄に存じます。この生命に代えましても、女皇陛下をお守りいたします」
「そなたが生命を賭けるほどの危険は無い筈だが……その時には頼む」
オリアスの言葉に、ヒルドは深々と一礼した。
フレイヤのヨトゥンヘイムでの静養は、まだ決定事項ではなかった。
文箱に紛れ込んだ謎の手紙、二度にわたる怪文書事件、親王が商人殺害にかかわったとされる噂など、不穏な事件が宮中で相次いだ事を、オリアスはフレイヤからの文で知っていた。
そして母が不安がっているだろうと思い、ヨトゥンヘイムでの静養を勧めたのだ。
フレイヤはオリアスの勧めに従おうとしたが、アグレウスが難色を示した。
静養ならばヘルヘイム国内の離宮でも可能だし、一連の不穏な事件が未解決の状態で、君主が宮廷を離れるのは好ましくないと意見したのだ。
その事を母からの文で知ったオリアスは、飛竜を駆って、ヘルヘイム皇宮に飛んだ。
兄に、直談判する為である。
「母上の静養に、兄上が難色を示していると聞いたが?」
アグレウスの私室を訪れ、オリアスは言った。
「ご静養に反対している訳では無い。だが未解決の事件があるのに、君主が国を離れるのは適切ではなかろう」
「フォルカスへの嫌疑は、晴れたのでは無いのか?」
オリアスの問いに、アグレウスはすぐには答えなかった。
怪文書事件にしろベムブル殺害にせよ、フォルカスが何らかの事件にかかわったという証拠は一切、見つからなかった。
だが宮廷中にそんな噂が流れたというのに、フォルカスの態度は余りに落ち着いていた。
それは潔白であるがゆえの平穏さというより、完全に証拠を隠滅した咎人の傲慢さに思えた。
何より、アグレウスがグレモリーとスロールの婚姻を決めたのは彼自身が豪商の影響力を手に入れる為であり、妹を通じてフォルカスが権力を握るなど、容認できる事では無い。
フレイヤが反対しないような穏やかな、だが徹底的な方法を以って、フォルカスを権力から遠ざける必要があった。
「これだけ噂が広まってしまった以上、何らかの措置は取らねばならぬ。そしてそれが済むまでは、母上には皇宮にお留まり頂きたい」
「何か策はあるのか?」
「今、思案しているところだ」
アグレウスの言葉に、オリアスは一旦、口を噤んだ。
艶やかな黒髪を軽くかきあげ、それから、口を開く。
「アールヴの事だが、兄上に会いたがっていた。毒殺未遂事件からだいぶ日も経ったし、一旦ヘルヘイムに返そうと思う
「一旦だと?」
眉を顰め、アグレウスは言った。
「アールヴは私の子だし、ヘルヘイムの親王でもある。ヘルヘイムに住むのが当然ではないか」
「だがアールヴ付きだった侍女が失踪したままだそうだな。毒殺未遂事件は、完全に解決したとは言えぬのではないのか?」
オリアスの言葉に、アグレウスは口を噤んだ。
確かに事件は――単なる食あたりとして強引に調査を打ち切ったが――未解決のままであり、失踪した侍女の懐剣でベムブルが殺害された事で、事態はいっそう錯綜している。
「何より、アールヴはヨトゥンヘイムに来てから乗馬を覚え、弓が上達し、顔色が良くなったしとても元気にしている。アールヴにはヨトゥンヘイムの暮らしが合っているようだ」
だから、と、オリアスは続けた。
「暗殺未遂事件の事は別としても、このままずっとヨトゥンヘイムで暮らすのが本人の為にも良いと思う。私が後見として、大切に預かる」
アグレウスは、沈黙を保ったままでいた。
オリアスをアールヴの後見に定めたのはフレイヤであり、それは公式な決定事項なのだ。
不服ではあるが、皇太子の立場で女皇の決定には逆らえない。
「……アールヴの一時帰国と母上のヨトゥンヘイムでのご静養、引き換え条件か?」
低く、アグレウスは言った。
「まさか」と、オリアスは軽く笑う。
「それではまるで人質交換だ。そんな筈が無かろう?」
屈託の無いオリアスの微笑に、アグレウスは胸に刺さった棘が溶けるような感覚を覚えた。
そして、小さく溜息を吐く。
ヘルヘイムの皇宮にいると、常に権力闘争の渦中だ。
いつもどこかで駆け引きがあり、密約があり、裏切りがある。
だから迂闊に他者を信じてはなりませぬと、それが乳母だったドロテアに、アグレウスが最初に教えられた事だった。
そんな環境で暮らしていると、常に相手の顔色を伺い、言葉の裏を読もうとしてしまう。
特にこのところ不穏な事件が続いたので、一層、疑い深くなってしまったのだろう。
だが、オリアスがアールヴを、ましてやフレイヤを、駆け引きの材料として利用する筈が無い。
「母上のヨトゥンヘイムでのご静養、準備を進めるよう、女官長に伝えておこう」
但し、と、アグレウスは付け加えた。
「フォルカスに対する措置を決めるのが先だ」
「判った」
短く、オリアスは言った。
フォルカスが再びアグレウスに呼び出されるのは、十日後の事だった。
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