第22話 血の祭典-前編-

 父の執務室に呼び出されたフォルカスは、テレンティウス伯爵の長女と結婚し、伯爵家を継ぐ事を命じられた。

 テレンティウスには娘が三人いるが息子がおらず、爵位を継ぐ者がいないのだ。

 それで彼は、以前からアグレウスの公子の誰かを婿養子に欲しいと願い出ていた。


「つまり親王の位を剥奪し、皇宮から追放する……という事ですね」

 相変わらず穏やかな微笑を浮かべたまま、フォルカスは言った。

「テレンティウス伯爵家はさほど古い家柄では無いが、広大な領地を有し貴族の中でも裕福な部類に入る」


 平淡な口調で、表情を変える事もなくアグレウスは言った。

 フォルカスは笑みを広げた。


「そのような寛大なご処置を賜り、幸甚に存じます」

「寛大……と申すか。つまり、己の罪を認めるという事か?」

 アグレウスの言葉に、フォルカスは曖昧に首を振った。

「ベムブルからグレモリーへの求婚があった時点で即座に断っていれば、宮中に不穏な噂が流れる事は無かったでしょう。その意味では、いたずらに宮中を騒がせた罪はあると存じます」

「……そなたの申す通りだ」

 無表情のまま、アグレウスは言った。

 フォルカスは謝罪するかのように、深くこうべを垂れた。



「お兄様が伯爵令嬢と結婚?」

 兄から話を聞き、グレモリーは不審そうな表情で言った。

「どうして急にそんな事に?」

「噂のせいだよ。私が君とスロールの結婚を利用して権力を得ようとしただとか、結婚の邪魔になるベムブルを殺しただとかの」

「それってまさか……」

 眉を顰めたグレモリーに、フォルカスは軽く肩をすくめて見せた。

「結婚と共に伯爵家を継ぐ事になる。つまり、親王位は剥奪され、皇宮から追放されるのさ」

「そんな……。この前、宮中護衛兵の取り調べを受けて、噂は根も葉もないもので何の根拠も証拠も無いって証明されたんじゃなかったの?」

「確かに証拠は無い。だから、こんな寛大な措置になったのさ」


 グレモリーは一旦、口を噤んだ。

 そして、ほっそりした顎を指で撫でて記憶を辿ってから言う。


「テレンティウス伯爵の長女って、園遊会で見かけた事があるけどヒキガエルみたいな顔をした年増でしょう? 妹たちも似たような容姿で、家がお金持ちだからたっぷり持参金を積んだけど、それでも貰い手がないって噂だわ」

 フォルカスは苦笑する。

「まったく、口が悪いね君は……。とても二つの王家の血を引く姫君とは思えない」

「これからは商人の妻ですもの。お兄様も、皇位継承権を持つ親王から、ただの貴族になるのね」

 でも、と、グレモリーは続ける。

「お兄様に取っては、その方が気楽で良いのでしょう?」

 その通りだよ、と、フォルカスは妹の嫌味を受け流した。

「何の後ろ盾もなく形ばかり皇位継承権を持った貧乏皇族から、かなり裕福な貴族の次期当主になるのだから、私としては望みどおりだね。まあ、君の将来の夫の財力には比べようも無いけれど」

 グレモリーとスロールの結婚式は、新築中の別邸が完成し次第、執り行われる事になっている。

「君の結婚式には親王ではなく伯爵として出席する事になるね。贈り物を用意しておくから、楽しみにしていてくれないか?」

 微笑して言った兄に軽蔑のまなざしを向けてから、グレモリーはつんと顔を背けた。



 その夜、一人の侍女が皇宮から姿を消した。

 その侍女はフレイヤ付きだったので、翌朝、女官長がその報告を受けた。

 皇宮に出仕している侍女は千名ほどいるが、皇家に直接仕えているのはその内、三割ほどの上級侍女および更に高位である女官で、残りは彼女たちに個人的に雇われている下級侍女である。

 上級侍女はすべて貴族の息女であり、女官は古い家柄の上流貴族出身者に限られていた。

 一方、下級侍女は比較的裕福な平民や下級貴族の娘であり、前者の場合は行儀見習いとして、後者の場合は苦しい家計を扶助する為に皇宮に出仕していた。


 同じ下級侍女ではあっても、貴族出身者は限定的とは言え皇族への接見が許されていたが、平民出の侍女たちは皇族の前に姿を現す事は禁じられており、出入りできる場所も限られ、もっぱら下働きを勤めていた。

 それでも皇宮に出仕する事は非常な名誉と考えられているので、娘を宮中勤めに出したがる親は少なくなく、その経験がある娘を妻に娶りたがる者も多かった。


 失踪したのは下級侍女であり、実家は下級貴族である。

 つまり、皇家に直接仕える身分ではなく、宮廷内では非公式な存在だ。

「この事は、他に誰が知っておるのじゃ?」


 無表情に、女官長は訊いた。

 報告したのは失踪した侍女と宿舎が同室の下級侍女で、自分の雇い主である上級侍女に報せ、その上級侍女が女官長へ注進に及んだのだった。


「ここにいる三名の他に、知る者はありませぬ」

 上級侍女の答えに、女官長はしばらく思案していたが、やがて口を開いた。

「ならばこの事は捨て置くが良い。他言も無用じゃ」

「ベアトリクスの身に何かが起きたのに、放っておけと仰るのですか!?」

 それまで俯いていた下級侍女が、ほとんど反射的に顔を上げて言った。

「控えよ」と、上級侍女がたしなめる。

「宮中護衛兵を動かさば、女皇陛下のお耳に入る事となる。婢女はしため一人の事で、陛下の御心を煩わせる事など赦されぬ」

 眉一つ動かす事無く、女官長は言った。

 そして、重ねて他言無用だと念を押して、二人を下がらせた。


「荷物は全部、部屋に残っているし、ベアトリクスはとても真面目な子なんです。無断外泊なんてありえないし、自分の意思で姿を消したとは考えられません」

 女官長の執務室を辞した後、下級侍女は雇い主に訴えた。

「女官長も仰っていたように、このところ宮中で不穏な事件が続いたから陛下はご心痛であらせられるわ。それなのに今、下級侍女一人の事で騒ぎを起こす訳にはいかないの」

「でも……ベアトリクスは誰かにさらわれたか、最悪、殺されたかも知れないのに……」

 上級侍女は眉を顰め、相手を見た。

「どうしても、放っておく事はできないと言うの?」

「もしも攫われたなら、まだ生きていてどこかで助けを待っているかも知れないんです。だから――」

「判ったわ」と、上級侍女は相手の言葉を遮った。

「あなたの任を解きます。荷物をまとめ、今日中に皇宮から出ておゆきなさい」

 下級侍女は驚きと悲しみに目を見開き、暫く唇をわななかせていたが、やがてがっくりとその場に崩れ落ちた。



 ひと月後、フォルカスは皇宮を出、テレンティウス伯爵の長女との結婚式を挙げた。

 皇族の出席は――グレモリーも含めて――無かったが、フレイヤは使者を遣わして祝辞を述べさせた。

 皇族の臨席は無かったが、裕福な貴族であるテレンティウス伯爵家の婚礼には多くの貴族が招待されて式典に華やかさを添えており、正式にグレモリーの婚約者となったスロールは馬車いっぱいの祝いの品を携えて参列していた。

 その行いは貴族たちの失笑を買ったが、その貴族たちも、テレンティウス伯爵家の財力に惹かれて集まった蛾のような存在だった。



 ヘルヘイムで華やかな式典が行われているのと同じ頃、ヨトゥンヘイムでは猛々しい競技会の幕が落とされていた。

 湿原を舞台とした武術競技会である。

 竹垣の外を見物人たちが幾重にも取り囲み、出場者は東西南北四箇所の天幕に集められた。

 櫓の一つには王族の為の見物席が設けられ、残りの五つでは有力豪族や、ヨトゥンヘイムを平定する戦でスリュムに協力した功績で貴族に叙せられた者たちが席を占めていた。

 空にはオリアスの側近護衛官たちが飛竜に乗って旋回し、監視と審判の役を務める事になっている。


「儂も出場したかったのに、残念じゃ」

 いかにも不服そうに言ったのはベルゲルミルだ。

 この競技会では勝ち残った兵士の一部を戦士に、戦士の中で特に優れた戦績を残した者を将軍に取り立てる事が決まっており、すでに将軍の地位にある者は参加を許されなかった。

「闘技場が完成したら、軍団同士の模擬戦も行う予定じゃ。そうなったら将軍も参加させる。それまで楽しみに待っておれ」


 笑って、スリュムは言った。

 その左右に席を占めているのはギリングとゲイルロズで、オリアスは旱魃地域の視察にヴィトルを伴って出かけていた為、この場にはいなかった。


「儂も出たかったがな。まあ、息子に譲るとするわ」

 言ったのはギリング。

 一人息子のエーギルは、個人戦の抽選に漏れたので――出場希望者が想定以上に多かったため、抽選となった――団体戦で参加する事になっている。

 競技会は午前中に個人戦、午後は団体戦で十日にわたって行われる予定となっていた。


 だが、その予定は早くも初日で崩れた。


 午前の個人戦では武器の使用に制限がない為、剣士が弓の射手と戦ったり、斧と槍の競い合いになったりしていた。

 見物人たちは遠くから弓を射る射手を「卑怯だ」と罵り、身体に何本かの矢を受けながら相手に駆け寄って一撃を見舞わせた剣士に喝采した。

 重量級の選手同士の戦いでは、兜が飛び甲冑が割れ、その都度、審判役の側近護衛官たちが止めに入り、対戦者が重症を負うのを防いだ。

 そしてその度に見物人たちは「邪魔だ!」「止めるな!」と罵声を浴びせ、会場は騒然とした雰囲気に包まれた。


 個人戦が終わると一旦、昼休憩となったが、この時に酒を飲む者が多かった為、午後からは更に殺伐とした空気となった。

 団体戦でも武器の使用に制限は無く、戦う人数が多くなったせいもあり、時折、竹垣の外に流れ矢が飛んだ。

 それが見物人たち――その殆どは兵士である――を興奮させ、怒号と罵声が会場を埋め尽くした。

 ――これはマズイ……。

 飛竜で上空を旋回しながら、ヒルドは思った。

 上空にいても、見物人や戦士たちの熱狂と昂ぶりが、はっきりと感じられる。


 これは競技会の空気では無い。

 戦場のそれだ。


「降りるな!巻き込まれるぞ!」

 対戦相手を執拗に叩きのめしている兵士を見つけ、それを止めようとしたヒルドに別の側近護衛官が叫んだ。

「このままでは死者が出る。止めるのが我らの役目だ」

「お前が行けば火に油を注ぐだけだ」

 同僚の言葉に、ヒルドは眉を顰めた。

「私が女だからと言って侮辱する気か?」

「議論している暇は無い。ここは俺たちに任せて、お前はアルヴァルディ様に事態を報告しろ!」

 言って、彼は他の側近護衛官と共に飛竜で降下した。

 見物人たちの怒号が一層、大きくなり、竹垣が激しく揺れる。

 直後、竹垣の一隅が破れ、見物人が競技場に雪崩れ込んだ。

 ――もう、止められない……!

 ヒルドは飛竜の向きを変え、罵声の飛び交う会場を後にした。



 ヒルドから報せを受けたオリアスが駆けつけた時には、湿原は見物人も出場者も入り混じった乱闘の場となっていた。

 彼らは酒と血に酔い、狂戦士ウルフヘズナルの本能のままに見境なく戦っている。

 そして彼らの殆どに眠りの魔法が効かない為、事態を平和的に収拾する方法は無かった。

 止むを得ず、オリアスは双頭の竜――アールヴの能力を借りて調伏した――を乱戦の只中に投入し、力ずくで混戦を鎮めた。

 それで漸く騒ぎは収まったが、多くの死傷者が出た。


 この武術競技会は、後に『血の祭り』と呼ばれる事となる。

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