第16話 怪文書

 ヨトゥンヘイムにいるドロテアからの文を、アグレウスは苛立たしい思いで読んだ。

 アールヴは乗馬を覚え、飛竜にも一人で乗れるようになり、ギリングから剣、ゲイルロズからは弓の手ほどきを受け、日々、野山を駆け巡っているという。

 それではまるでヨトゥンヘイムの蛮族と変わらないと、アグレウスは憤った。

 そうなってしまう事を防ぐ為にわざわざドロテアとその姪たちを付けたのに、彼女たちはヨトゥンヘイムでは余りに無力だった。


 アグレウスが酒を申し付けるために呼び鈴に手を伸ばしかけた時、ノックの音がした。

 アグレウスが「入れ」と短く言うと、侍女が姿を現す。

 フレイヤから、私室まで来るようにとの呼び出しだった。

「また、このような物が……」

 フレイヤは不安そうな表情で言いながら、一枚の紙を手渡した。

 アグレウスはそれを受け取り、目を通す。

 第四王子フォルカスが、妹グレモリーと豪商ベムブルとの婚姻を、秘密裏に進めようとしているとの内容だった。

「商人だと?」

 思わず、アグレウスは口に出して言った。

 ――皇位継承権を持たぬ公女とは言え、ヘルヘイム皇家の血を引く者を、平民に嫁がせるなどと慮外な……。

 内心で、アグレウスは怒りの言葉を呟いたが、問題はそこではないのだと、すぐに思いなおす。

 フォルカスが妹の婚姻を密かに進めようとしている事、それを密告してきた者がいる事、その二つの方が問題としては大きいのだ。

「また、文箱に紛れ込んでいたのですか?」

「いいえ。廊下に落ちていたのを、侍女が拾ったのです」

 他にも二枚、同じ内容が書かれた紙が、後宮の控えの間や階段に落ちていたのを侍女が見つけたのだと、フレイヤは言った。

 最初の報告を受けてすぐに女官長の指示でフレイヤ付きの侍女たちが後宮中を探し、他に不審物が無いか調べた。

 また、フレイヤに仕える全ての侍女・侍従に不審物の捜索と、見つけ次第すぐに女官長に渡すこと、内容については口外無用である事を申し渡した。


 ――厄介な事になった……。

 女官長の報告を聞きながら、アグレウスは形の良い眉を顰めた。

 前回はフレイヤ宛の文箱に紛れていたので、多くの者の手を経るとは言え、ある程度は関わった者が限られる。

 が、今回は後宮の複数の場所にばら撒かれたのだ。

 後宮に出入りを許されている者であれば、誰でもそれを為しえた。そして後宮に出入り可能な者の数は千を下らない。

 それに女官長がすぐに緘口令かんこうれいを敷いたにしても、人の口に戸は立てられない。

 既に、噂は広まってしまっていると考えるべきだろう。

「私がフォルカスを取り調べます。母上は何も心配なさる必要はありませぬ」

 アグレウスは言ったが、フレイヤは不安そうな表情のままだった。



 アグレウスは直ちにフォルカスを彼の執務室に呼んだ。

 そして、妹グレモリーの婚姻を進めている事実があるのか尋ねる。

「グレモリーに求婚する者があるのは事実です。ですが、まだグレモリーが心を決めた訳ではなく――」

「皇族の婚姻に、当人の意思など無意味だ」

 相手の言葉を遮って、アグレウスは言った。

 フォルカスは謝罪するように、深くこうべを垂れる。

「仰せの通りでございます。されど、余りに不釣合いな申し出でありますゆえ、父上にご報告するまでもなく、断るつもりでおりました」

「断るつもりだった?」

 鸚鵡返しに、アグレウスは訊いた。

 フォルカスは頷いて、続ける。

「婚姻の申し込みをして参りましたのは、商人のベムブルと申す者です。宮中に出入りを許されるほどの豪商であり、母は貴族の出身ではありますが、それでも平民である事に変わりはありませぬ。皇位継承権を持たない公女とは言え、ヘルヘイム皇家の高貴な血を引く者と商人の婚姻など、論外かと」


 アグレウスは口を噤み、微笑をたたえたフォルカスの整った顔を、まっすぐに見据えた。

 金色がかった琥珀色の瞳には、何の感情も表れていない。

 フォルカスは自分が何故、呼び出されたのか、妹の婚姻について問われる前に気づいていたのだと、アグレウスは思った。

 気づいた上で、弁明の言葉を用意してきたのだろう。

 さもなければ、こうまで平然としている筈が無い。


「論外であるならば、何故なにゆえ即座に断らなかったのだ」

「このような事を申し上げるのは真にお恥ずかしい限りですが……ベムブルが婚礼の贈り物として送ってきた宝石類に、グレモリーが心を動かされてしまいまして……」

 それで、きっぱり断るよう、説得していたのだと、フォルカスは説明した。

 アグレウスは、微かに眉を顰めた。


 ベムブルの祖父は、豊作の年に安く買い集めた穀物を、凶作の年に高く売って大きな利益を得た。

 その富を元に銅山経営に乗り出し、更に富を増やした。

 息子の代では金山や銀山まで手を出して鉱山経営の手を広げ、古い家柄の貴族の娘を妻に迎え、その交流関係から貴族の得意先を多く抱えるようになり、皇宮に出入りする許しを得るまでになった。

 ベムブルの代になると、高度な鍛冶や工芸技能をもつ小人ドヴェルグルと取引して大量の武器を造らせ、それを戦の折に密かに双方に売り込む事で莫大な富を得たとされている。


 事実、百年戦争の折には、ヘルヘイムは多くの武器をベムブルから買っていた。

 ベムブルがヨトゥンヘイムとも取引していたかどうかは判らない。

 敵対する双方に武器を売る時は、配下の商人を利用して巧みに自らの関与を隠すのだと、もっぱら噂されている。


 つまりベムブルは、豪商の一言では表しきれない富と影響力を持ち、戦の勝敗さえ左右しかねない存在なのだ。


「グレモリーの婚姻の件に関しては、こちらから追って沙汰する。それまでは、ベムブルとの接見も文や品物のやり取りも、一切禁ずる」

 それだけ言うと、アグレウスはフォルカスを下がらせた。

 そして、ベムブルの身辺を探るよう、側近に命じた。



「参ったね……」

 自室に戻ると、そうフォルカスはぼやいた。

「お父様からの呼び出しって、もしかして……」

 不安そうな面持ちで、グレモリーは訊いた。

 アグレウスが看破したように、呼び出しのあった時点でフォルカスもグレモリーも、それがベムブルとの婚姻にかかわる事なのだと勘付いていた。

 何の後ろ盾も持たない彼ら兄妹に、アグレウスが関心を持つ理由が、他に考えられなかったからだ。

「私たちのような貧乏皇族の所に大商人が二度も訪れれば、いずれ噂が立つだろうとは思っていたけれど、こうも早く父上の耳に入るとは……」

「それで、お父様は何て?」

「『こちらから追って沙汰する。それまでは、ベムブルとの接見も文や品物のやり取りも、一切禁ずる』――だそうだ」


 フォルカスは、アグレウスの言葉をそのまま伝えた。

 グレモリーは小首を傾げる。


「お父様は内親王の宣下もなかった公女になど、何の関心も無いものと思っていたのに」

「多分、相手が中流貴族の四男だったら、相手の名前すら、聞いた瞬間に忘れるだろうね」

「相手が商人だから、お気に召さないのかしら」

「商人だからお気に召さないし、大商人だから、もっとお気に召さないのさ」

 どういう意味? とグレモリーは訊いた。

「君があの見事な宝石類に心を動かされたように、父上もベムブルの財力と影響力には無関心ではいられない……って事だよ」

「それはつまり……商人なのは気に入らないけど、場合によっては承諾もありうるっていう事? でも、それなら何故、『もっとお気に召さない』なんて」

 グレモリーの疑問に、フォルカスは面白そうにクスリと笑う。

「父上はヘルヘイム皇家の血族としての誇りがとても高い方だからね。ヘルヘイム皇家の血を引く者が、商人を父として平民の家に生まれる事になるのは耐え難いのだろう。一方で、ご自身の立場を固める為にもベムブルの財力と影響力を利用する機会は見逃せない筈だ」

 だから、と、フォルカスは続ける。

「誇りと実利を天秤にかけ、葛藤せざるを得ない。そんな状況は、さぞ、お気に召さないだろうね」

「……面白がっているのね」


 不機嫌そうに柳眉を逆立て、グレモリーは言った。

 彼女自身、誇りと実利の間で葛藤しているのだ。


「君の事は、心から心配しているよ。君が幸せになる為なら、私はできるだけの事を何でもするつもりだよ」

 そう言ったフォルカスから、グレモリーはつんと顔を背けた。

「お兄様に何ができると? こうなってしまった以上、もうお父様の決定に従うしかないのに」

「残念だけれど、その通りだね……」

 そう呟いたフォルカスの瞳に、猛禽のような光が浮かんでいるのに、グレモリーは気づかなかった。



 ヨトゥンヘイムで事件が起きたのは、それから十日ほど後の事だった。

 豪族との会議の折に、オリアスが族長の一人を斬り捨てたのだ。

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