第14話 円形闘技場

 アールヴをヘルヘイムに帰らせるようにとの命をアグレウスから文で受け、ドロテアはオリアスをおとなった。

「アールヴ様はすでにこちらに三月みつきもご滞在あそばしました故、そろそろヘルヘイムにお帰りになられても宜しかろうと存じますが」

「その事ならば兄上に文で断った筈だ」

 読んでいる書類から目を離さずに、オリアスは言った。

「アールヴはヨトゥンヘイムに来てから偏食が少しずつ治り、顔色も良くなっている。叔の兄上と仲が良いし、最近では伯の兄上も可愛がっているようだ」

「その事は存じておりますが、東宮様はご寵愛なさっているアールヴ様のご不在が長引き、御心を痛めておられます」


 東宮とは、皇太子を意味するヘルヘイムの古い敬称だ。

 かつて皇太子の住む宮殿が皇宮の東側にあった為、皇太子の別称として東宮という言葉が用いられていた。

 何度かの改築の末、皇宮は以前とは異なる姿となった為、今では皇太子の住まいは皇宮の東には無いが、それでもドロテアは、その古い呼称を用いていた。

 そしてオリアスの事は「二の宮様」と呼ぶが、これも第二皇子に対する古い呼び方だ。

 敢えて旧式の呼称を使うのは、ドロテアのように古い家柄の者にありがちな傾向だった。


 ドロテアの言葉に、オリアスは書類から目を上げた。

「寵愛しているのならば、何故ろくな教育も施さず、極端な偏食を放置していたのだ?」

「それは全て、アールヴ様に付いておりました侍女たちの落ち度でございます。東宮様は既に全ての侍女を解任なさり、私の姪を含めました新たな侍女と、教育係を定めるおつもりでおられます」

「成人してから教育係を定めるとは、余りに遅い措置だな」


 オリアスの言葉に、ドロテアは口を噤んだ。

 事実を言えば、アグレウスは敢えて教育係を定めなかったし、侍女から偏食の報告があってもアールヴの好きにさせていた。

 その理由わけを、ドロテア自身、アグレウスに尋ねた事すらある。

 だがアグレウスは答えようとせず、ドロテアは二度とその話題を口にしなかった。


「……ご承知の通り、東宮様はとてもご多忙な方であらせられます。それに、アールヴ様のご生母様が既に身罷みまかられております故、侍女たちを管理する女主人がご不在となり、多少の手違いがおきたものと存じます」

 ドロテアの言い訳を、オリアスは暫く黙って聞いていた。

 それから、口を開く。

「そなた、アールヴが死霊に育てられていた事を知っているか?」

 その言葉に、ドロテアの指がぴくりと震える。

「知っている筈だ。兄上の乳母であったそなたが、知らぬ筈はあるまい。他の事ならばともかく、幼子を育てる事に関して、兄上がそなたに相談しなかったとは思えぬ」


 何と答えるべきかドロテアが迷っている内に、オリアスは言った。

 ドロテアは、目を伏せる。

 オリアスは席を立ち、数歩、ドロテアに歩み寄った。


「知っていただけでなく、協力したのだな。多くの平民の女たちを殺し、アールヴの乳母役の死霊とした」

「…………仰せの通りでございます」

 そこまで勘付かれているなら言い逃れは出来ないと覚悟し、ドロテアは深くこうべを垂れた。

 オリアスは、軽く溜息を吐く。

「暗殺の危険からアールヴを守る為だったと聞いてはいるが、それがまことの理由ではあるまい?」

「恐れながら……理由については何も伺っておりませぬ。私はただ、東宮様のご命令に従ったまででございます」

 オリアスは僅かの間、口を噤んでドロテアの伏せられた瞼を見つめていたが、やがてきびすを返し、席に戻った。

「私もアールヴを暗殺の危険から守りたいと思う。それゆえ、このままヨトゥンヘイムに滞在させるつもりだ」

「お言葉ではございますが」と、反射的に顔を上げて、ドロテアは言った。

「アールヴ様に対する暗殺未遂と思われた事件は、ただの食あたりであったとして解決しておりまする。さすれば、アールヴ様がヘルヘイムにお帰りになられても支障は無いものと――」

「まだ解決済みではあるまい」

 相手の言葉を遮って、オリアスは言った。

「その事件の首謀者がザガムで、ダンタリオンを陥れるのが目的だとの讒訴ざんそがあったと、母上から聞いた」

「…………!」


 驚愕して、ドロテアは目を見開いた。

 ドロテアは由緒ある貴族の生まれであり、容易な事では感情をおもてに表さない階級の出であるが、この時は驚きを隠せなかった。

 そんな讒訴があったなどと、知らなかったからだ。

 フレイヤが知っているならアグレウスも聞き及んでいる筈だが、アグレウスからの文では、そんな事は触れてもいなかった。


「兄上は単なる讒言として退けたそうだが、母上は不安がっている」

「……左様でございましたか」


 再びオリアスから視線を逸らし、ドロテアは呟いた。

 そして、何故アグレウスがこの事を自分に知らせてくれなかったのかと、内心で考えを巡らせる。

 それが何なのかは判らないが、何らかの思惑があるに違いないのだ。

 そしてそれが判らない以上、今はオリアスの言葉に従っておくべきだと、ドロテアは判断した。


「アールヴ様をお守りする為にヨトゥンヘイムに滞在させておかれます事、承知いたしました。東宮様にはそのようにお返事申し上げておきまするが」

 ただ、と、ドロテアは続けた。

「ご愛息のご不在が長引きます事で東宮様が御心を痛めておいでの儀、二の宮様にもご配慮頂ければ幸いでございまする」

 深々と一礼し、ドロテアは言った。



 ドロテアが去った後、入れ替わりに現れたのはヴィトルだった。

 オリアスは、暇を持て余した兵士たちが暴行事件を起こすのを防ぎ、無聊をかこつ戦士や将軍の不満を宥める為に、大規模な武術競技会を計画していた。

 競技会用の闘技場の建築についてオリアスはヴィトルに一任しており、ヴィトルはその報告に来たのだ。

 卓の上に地図と設計図を広げ、ヴィトルは闘技場について説明した。

 長径百八十八ひろ、短径百五十六尋の楕円形で、高さは四十八尋、四階建てで約五万人を収容できる大規模なものだ。

 これ程、大規模な闘技場が計画されているのは、競技会についてオリアスがスリュムに相談した時、「やるなら軍団が戦える位にでかい物を造れ」と言われたからだった。


「父上の意向に沿う為とは言え、ずいぶん大規模だな」

 設計図を眺めながら、オリアスは言った。

「元々私が考えていた競技会は、戦士同士の一騎打ちのようなものだったのだが」

「おそらくスリュム様は、それでは普段の練兵と大差ないと、お考えになられたのでしょう」

 ヴィトルの言葉に、オリアスは微かに首を傾げた。

「それは判るが……。これ程大規模な闘技場を建てるとなると、相当な時間がかかるだろう?」

「概算では、十年と見積もられております」

 その答えに、オリアスは軽く溜息を吐いた。

「暇を持て余した兵士たちが、十年も大人しく待っていてくれるとは思えぬな。建築を進める一方で、何か別の気晴らしを作ってやる必要がありそうだ」


 戦士エインヘリャルたちは猛獣狩りを最高の娯楽としていたが、猛獣狩りは飛竜や馬に乗って行われ、猛獣を追い立てる多くの勢子せこを必要とする為、一定以上の地位や財力のある者にしか行えない。

 この為、地位の低い兵士たちには手の届かない、高級な楽しみと言えた。



「もう一つ、ご報告する事がございます」

 ヴィトルの言葉に、オリアスは「アールヴに関する事か?」と訊いた。

 ヴィトルは、頷く。

「アールヴ様のお姿を元に、リディア様に似ていると思われる肖像画を描かせ、それを母の古い知り合い達に見せて尋ねましたところ、リディア様を見知っている者がおりました」

「それで?」

「その者が申すには、リディア様は闇の妖精デックアールヴに滅ぼされた妖精アールヴの王の姫である……と」


 闇の妖精と妖精の間に大きな戦が起きたのは、数百年前の事である。


 元々妖精と闇の妖精は、同じ『妖精』という種族名で呼ばれるにはあまりに異なっていた。

 妖精たちは白い肌と明るい色の髪と瞳を持ち、すんなりした身体付きで整った容姿の者たちである。

 一方の闇の妖精は暗い色の髪と瞳、浅黒い肌を持ち、ずんぐりした体系でその容貌は小人ドヴェルグルに近く、『黒炭のように黒い』と言われていた。

 そのせいか、闇の妖精の多くは妖精たちを妬み、妖精の中には闇の妖精を軽視し、妖精の名にふさわしくないと侮蔑する者もいた。


 そんな背景もあって戦は長期化し、妖精王は何度か和睦を試みたが、闇の妖精側はそれをはねつけた。

 やがて闇の妖精は小人ドヴェルグルを味方に付ける事に成功し、その力を利用して妖精の国アルフヘイムを滅ぼした。

 ヴィトルの母は、その時、アルフヘイムから逃れてきた妖精の一人で、ヨトゥンヘイムに流れ着いた後、この地で夫を得、ヴィトルが生まれたのだ。


「矢張りそうであったか……」

 独り言のように、オリアスは呟いた。

「闇の妖精王は今でも妖精王の血族を探し、見つけ次第、殺そうとしていると聞いております。だからリディア様は平民に身をやつし、闇の妖精の追及を逃れようとしていたのでしょう」

「……そなたたち妖精には、動物と対話する能力があるのか?」

 幾分、躊躇ってから、オリアスは訊いた。

「私にはそのような力はありませぬし、母にそのような能力があるようにも思えませぬが」

 ただ、と、ヴィトルは続けた。

「王家の血を引くお方であれば、他の妖精には無い特別な力が備わっているやも知れませぬ」

「闇の妖精王が執拗に妖精王の血族を探し、根絶やしにしようとしているのは、その特別な能力と関係あるのか?」

「あり得る事とは存じますが、はっきりとは判りかねます。まず私の母に、妖精王の血族に特別な力があるのかどうか確認いたしましょうか?」

 オリアスは暫く口を噤み、思案していたが、やがて首を横に振った。

「そなた達の事は信頼しているが……それでもアールヴの身を護る為には、秘密を知る者は少ない方が良い」

 リディアの素性についてもアールヴの能力についても口外無用だと、オリアスは言った。



 翌日、ヘルヘイム皇宮では、ドロテアからの文を受け取ったアグレウスが、憤りに近い苛立ちを覚えていた。

 オリアスがアールヴを返す気の無いらしい事、フレイヤがザガムを讒訴する文の存在をオリアスに伝えた事、どちらも気に入らなかった。

 何より、毒殺未遂事件を仕組んでアールヴをヨトゥンヘイムに連れ去ったのも、ザガムを讒訴してアールヴのヨトゥンヘイム滞在を長引かせたのも、全てヴィトルの企みだったのだという確信が強まった事がアグレウスを苛立たせた。

 それはつまりヴィトルの協力者がヘルヘイム皇宮にいる事を意味し、その者たちはオリアスを次のヘルヘイム皇帝として擁立しようと目論んでいるに違いないからだ。


 思っていた以上に、自分の立場は脅かされているのだと、アグレウスは痛感した。

 ――何らかの手段を講じなければ…………。

 薄い蒼の瞳で虚空を見やりながら、アグレウスは思った。

 その瞳に浮かぶ光は、氷のように冷ややかだった。

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