第13話 グレモリーの苦悩

 窓際に座り、月明かりを受けながら、グレモリーは亡き母グレータの事を思い出していた。

 兄フォルカスが言っていた通り、気位が高く、美しい女性ひとだった。

 そしてヘルヘイムによって祖国が滅ぼされた事を怨んでおり、その為、他の嬪たちのようにアグレウスに媚を売って寵愛を得ようとはしなかった。


 グレモリーが成人した時に内親王の宣下が無かった事で、彼女はひどく落胆し、自分のそれまでの振る舞いを後悔した。

『こんな事になってしまうと判っていたら、皇太子殿下につれない態度など取らなかったのに……』

『私は内親王の宣下などなくとも、少しも構いません』


 母をなぐさめようと、グレモリーは言った。

 グレータは首を横に振る。


『この国では親王、内親王の宣下がなければ臣下と同じ扱いになるのです。皇族とは名ばかりの、領地も持たない下級貴族と変わらない立場に……』

 美しい顔を悩ましく曇らせ、グレータは深く溜息を吐いた。

『私は母としてあなた方を守らなければならなかったのに、愚かにも自分の感情を優先させてしまいました。それに、自分の置かれた立場というものを、きちんと理解していなかったのです』

『そうはおっしゃっても、お母様がお父様をお怨みになるのは当然ですわ。お祖父様だけでなく、お母様の兄弟が全て殺されてしまったとあれば』


 特にまだ幼かった末の弟まで殺された――表向きは病死だが――事を、グレータはとても怨んでいた。

 軍の指揮を執って戦った兄弟たちは仕方ないとしても、あんな幼い者まであやめる必要があったのかと、繰り返し嘆いていた。


 グレータは娘の両腕に手をかけ、まっすぐに見つめて言った。

『与えられるのが当然だと思ってはなりません。王家の血を引く者として生まれたのだからと言って、富や権力を得るのが当然だと、思ってはならないのです』

 グレモリーは口を噤み、黙って母の言葉に耳を傾けた。

『私は他の嬪たちのような、故国という後ろ盾を持たないのだから、その分、皇太子殿下のお気に召すように振舞うべきでした。たとえ内心でどれだけ怨んでいても、それをおくびにも出してはならなかったのです。それに、フォルカスに親王の位が与えられた時、それを当然と思うのではなく、ありがたい事だと感謝すべきでした』

 そして、とグレータは続ける。

『王家の血を引く者として、何より大切なのは子を遺す事です。祖国が滅んでしまっても、あなたやフォルカスが子をせば、王家の血筋は脈々と続くのですから』


 グレモリーが内親王となれなかった事についてのグレータの落胆はとても激しく、眠れぬようになって食も細り、やがて病床に就き、数ヶ月の後に亡くなった。

 葬儀はごくひっそりとしたもので、アグレウスを初め、皇族たちの臨席もなければ、貴族や廷臣の参列も無かった。

 グレータの死をいたんだのは、彼女の故国から共に逃げ落ちてきたわずかの侍女ばかりであった。

 自分と兄が置かれている立場がどのようなものであるか、グレモリーはその時、痛いほどに実感したのだった。



「そうは言ってもね……」

 頬杖をついて、グレモリーは独りちた。

 相手がアグレウスのように優美で気品のある男ならば、たとえ親兄弟の仇であっても寵愛を得るために振舞うのは、そう卑しい行いにも見えないだろう。

 だが、ベムブルのように醜く身分も低い男の妻となる道を選ぶのは、財産狙いが見え透いていて、いかにも浅ましい。

 その結果、どれほどの富と影響力を得たとしても、今、グレモリーを見下している内親王たちは、今以上に彼女を軽視し嘲笑するに違いないし、生母の身分がグレモリーより低い他の公女たちからも後ろ指を差されるだろう。


 青白い月に照らされた中庭を眺めながら、グレモリーは溜息を吐いた。

 人工的に整えられた中庭は木々と花とで幾何学模様が描かれ、巨大な絨毯のようだ。

 季節ごとに植え替えられる色とりどりの花は昼、見れば華やかだが、こうして月明かりで見ると、どこか幻想的な美しさがある。

 だがその美しさも、グレモリーの心を晴らしてくれる事は無かった。

 庭園の美しさも宮殿の壮麗さも、生まれた時から見慣れていたのであたりまえの様に思っていたが、成人して内親王の宣下が得られなかった時点で、この皇宮に住み続ける為に、兄の侍女となる道を選ばなければならなかったのだ。


 ――お兄様も言っていた通り、私の立場は全く中途半端だわ……。

 アグレウスの側室たちの中で、元王女であった者たちは嬪の称号を与えられ、彼女たちが産んだ子には親王、内親王の宣下があった。

 それ以外の側室の子は公子、公女となる事が初めから判っているので、特に公女たちは早い内から目ぼしい貴族と交流を持ち、成人すると早々に嫁いでいった。

 例外は、元王女を母に持ちながら公女となったグレモリーと、平民が産んだ子であるにも拘らず親王の称号を得たアールヴだけである。

 そしてそうなった理由が、リディアがアグレウスの寵愛を得、グレータは得られなかった事であるのだから、グレータが後悔したのも無理は無い。

 そして当然のように内親王になれると思っていた為に、他の公女たちのように手回し良く嫁ぎ先を探さなかったせいで、今、グレモリーは後悔する羽目になったのだ。


 そもそも母の故国という後ろ盾を持たないのだから、内親王の称号や、その地位に相応しい嫁ぎ先が、何の労も無く与えられるのだと、期待してはならなかったのだ。

 何かが欲しいのであれば、策を弄し、時には自分の心を殺してでも有利になるように振舞わなければ、望みは叶わない。


 それにしても、と、グレモリーは再び深い溜息を吐いた。

 ――せめて息子の方ならば良かったのに…………。

 ベムブルの醜い容貌とスロールの凡庸な姿を思い起こし、グレモリーは三度目の溜息を吐いた。



 その夜更け。

 ヘルヘイム皇宮の中庭の東屋に、忍びあう男女の姿があった。

 一人は宮中の侍女で薄い金色の髪と淡い青色の瞳の持ち主、もう一人は明るい栗色の巻き毛に金色がかった琥珀色の瞳を持つ好男子――第四王子フォルカスであった。


「……さあ、もう帰らないと。こんなところを誰かに見られたら厄介な事になる」

 フォルカスの言葉に、侍女は不安そうに眉を曇らせた。

「次はいつ、お会いできますか?」

「今はグレモリーの縁談の事で少しごたごたしているけど、それが片付いたらまた会えるよ」


 宥めるような口調で、優しくフォルカスは言った。

 優雅な指先で侍女の頬に軽く触れ、間近に見つめる。


「グレモリーが嫁いだら私の侍女の席が一つ空くわけだから、そうなったら君を私付きの侍女にしてもらえるよう、父上に願いでるつもりだよ」

「嬉しゅうございます、フォルカス様……」


 言って、侍女は微笑んた。それから、改めて相手の双眸そうぼうを見つめる。

 僅かな月明かりにも金色に輝く、美しい瞳だ。

 その瞳に見つめられると、それだけで身体の芯が熱くなるようだと、彼女は思った。


「私にできる事がありましたら、何なりとお申しつけ下さいませ」

「君にはいつもとても感謝しているよ。私には味方が殆どいないからね」

「感謝だけ……でございますの?」

 少々拗ねたように、侍女は言った。

 フォルカスは、覗き込むように間近で侍女の青い瞳を――その瞳に写る自分の顔を――見つめた。

「感謝だけでなく、尊敬し、信頼し」そして、とフォルカスは続けた。

「愛しているよ、君だけを」



 数日後、不審な手紙がフレイヤの元に届けられた。

 アールヴの暗殺未遂事件――単なる食あたりとして解決済みなのだが――の首謀者がザガムであり、ダンタリオンを陥れるのが目的であったのだとほのめかす内容だった。

「どういう事なのでしょうか……」

 アグレウスを私室に呼び、不安げな表情でフレイヤは言った。

「一体、どのような状況でこれが届けられたのですか?」

「他の文と一緒に、文箱に入っていた……と」

 アグレウスの問いに、フレイヤは答えた。


 フレイヤの元に城外から届けられる品は、まず皇宮の護衛兵が受け取って上官に渡し、危険物がないかどうか改めてからフレイヤ付きの侍女に託される。

 この侍女が更に上級の女官に渡し、女官が中身を改めてフレイヤに渡すものと、女官が処理するもの、廷臣が対処するものへと分類する。

 不審な手紙を発見したのは上臈じょうろうと呼ばれる高級女官だが、多くの者の手を経るだけに、どこで混入したのかはっきりしない。


 面倒な事になったと、アグレウスは思った。

 文の内容からすれば、ザガムを陥れるのが目的のようにも思えるが、解決済みの事件でザガムを讒訴ざんそしても今更証拠が上がるとは考えられない。

 それより、既に解決済みとした事件を今更、掘り起こすのは、事件を解決させたくない者の企みに思える。

 そして事件が解決しなければ、アールヴのヨトゥンヘイム滞在が長引く事となるだろう。

 ――これは矢張りあの男の企みなのか……?

 オリアスの側近ヴィトルの紫水晶のような瞳を、アグレウスは思い起こした。

 アグレウスはヴィトルが感情をおもてに表すのを見た事が無い。

 が、その無表情に近いまなざしに、こちらの心を見透かされているように感じたことは、何度かある。

 何故、そんな風に感じるのかは判らないが、不快である事は確かだ。


「既に済んだ事です。このような讒言で母上が御心を煩わせる必要はありませぬ」

 そう、アグレウスは言った。

 フレイヤの侍女たちを取り調べるとなると事が大きくなるし、拷問などできる筈も無いのだから調べたところで何も出ては来ないだろう。

 であるならば、不審な文の存在は内々に処理して、無かったものとする方が良い。


「……分かりました。では、この件は忘れるものとしましょう」

 フレイヤは言ったが、その表情は不安そうなままだった。

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