第12話 平和の対価

 ヨトゥンヘイムで、アールヴは快活に日々を過ごしていた。

 ヴィトルから教育を受ける一方で、ベルゲルミルに乗馬を習い、共に遠乗りに出かけたりしていた。

 ドロテアは二人の姪と共に馬車で同行したが、アールヴの乗馬が上達するに従って、付いていけなくなっていた。

「向こうにいた頃より、だいぶ元気になったようじゃな」

 孫の姿に目を細め、スリュムは言った。

 人見知りする癖は抜けていなかったが、好奇心旺盛で素直なアールヴは、ヨトゥンヘイム王宮の者たちに概ね好意的に受け入れられていた。

「ここに来たばかりの頃に比べれば幾らかマシになったようじゃが、あのチビがアルヴァルディのような戦士エインヘリャルに育つのは、期待せんほうが良いぞ」


 そう言ったのはギリングだ。

 ヨトゥンヘイムの多くの者たち――主に戦士や兵士――はヘルヘイムの住人を軟弱な気取り屋として嫌っているが、特にギリングはその傾向が強かった。

 オリアスがエインヘリャルの名に相応しい戦士だと、なかなか認めようとしなかったのもギリングである。

 戦士どころか、初めの頃はヨトゥンヘイムの男としてすら認めておらず、オリアスのヨトゥンヘイムでの呼称であるアルヴァルディの名を使わず「オリアス」と呼んでいた程だった。


「アルヴァルディのようになると期待しとる訳では無い。アルヴァルディは特別じゃからな。あんな息子は、得たいと思っても二人と得られるものじゃない」

「それは親の欲目というものじゃろうが」

「では訊くが、アルヴァルディのどこに欠点がある?」


 スリュムの言葉に、ギリングは口を噤んだ。

 知識や教養の点では異母兄たちとは比べ物にならない程、優れているし、スリュムは内政や外交の殆どをオリアスの判断に委ねるほど信頼し、それだけの実績も上げている。

 弓の腕前は名手で名高いゲイルロズに迫る程だし、剣の手合わせをすれば、五回に二回はギリングに勝つ。

 さすがにベルゲルミルの怪力には及ばないが、体格差を考えればそれはオリアスの不名誉にはならなかった。

 その上、ギリングたちには使えない魔法を使いこなし、戦場で熱くなってしまう戦士が多い中、冷静さを保ち、瞬時に戦術を立てることも、大軍を動かす戦略を練ることにも長けていた。

 初めの頃こそは母親似の美貌のせいで女のようだと陰口を叩かれていたが、前線での冷静さ、敵を前にした時の勇敢さ、何より戦術・戦略の的確さが高く評価されるようになると、どれほど獰猛な兵士でも、オリアスの命には犬のように忠実に従うようになった。


「……欠点という訳ではないが、アルヴァルディの進めている何たら政策のせいで戦が減って、退屈じゃ」

 不満そうに、ギリングはぼやいた。



 ギリングはスリュムが成人するずっと前の、三十かそこいらの頃に生まれた息子だった。

 その頃、スリュムの父はまだ豪族の家臣の一人に過ぎず、ギリングは父や祖父と共に戦場を駆け巡り、祖父から戦のやり方を学んだ。

 そのやり方は肉を斬らせて骨を絶つもので、最終的に勝てるのであれば味方の損害には余り頓着しなかった。

 が、オリアスは最低限の被害で最大限の成果を出す事を目標とし、戦の準備として武器や兵士を集めるだけでなく外交によって有利な状況を生み出そうとし、万端の準備を整えてからでなければ戦を仕掛ける事はしなかったし、戦況によっては退却する事も躊躇わなかった。

 オリアスのやり方はギリングには生ぬるく思えたし、勝てる戦しかしようとしないオリアスは、命がけで戦う勇気のない腰抜けに思えた。


 意見の対立から、ギリングがオリアスの立てた作戦に逆らって――軍議ではその案を採ると決まっていたにも拘らず――独断で行動を起こし、結果として窮地に陥ったのは、オリアスが成人して十数年ほど経ったある時の事だった。

 この時、ギリングは敵の罠に嵌って進退極まりない状況に追い込まれ、配下の多くの戦士や将を失い、彼自身も死を覚悟した。

 その窮地を救ったのは手勢を率いて援軍に駆けつけたオリアスだったが、ギリングの救出には成功したものの、オリアスの部下にも少なからぬ損害が出た。

『なぜ、儂を助けた?』

 窮地を脱した後、ギリングはオリアスに訊いた。

『儂を助けたせいで、お前の戦士たちにも大きな被害が出た。こうなったのは、儂が勝手に動いたせい――』

『次は見棄てる』

 相手の言葉を遮って、鋭くオリアスは言った。

 その時、ギリングは背筋がぞくりとなるのを感じた。そして、それが恐怖という感情なのだと初めて知った。

 それ程にオリアスの口調も表情も険しく、ギリングの独断のせいで多くの将兵を犬死させた事を、心の底から深く憤っているのだと感じずにはいられなかった。


 以来、ギリングはオリアスと対立する事は無くなった。

 反対意見があれば遠慮なく述べるが、オリアスの策と自分の案と、どちらが優れているのか冷静に考えるようになった。

 そして今までのところ、オリアスの策の方が劣っているという結論に達した事は無かった。



「国は治めるものじゃ」

 中庭でベルゲルミルがアールヴに剣の稽古をつけている――と言っても、怪我をさせぬ事が最優先なので、ほとんどお遊びのようなものだが――姿を見遣りながら、スリュムは言った。

「豪族の家来に過ぎなかった頃は、戦に勝てばそれで良かった。自分が豪族の長となってからも、戦に勝っておけば、大概はどうにかなった」

 じゃが今は広大な領地と多くの領民を抱える王になった、と、スリュムは続けた。

「戦は国を守り、国を治めるためにするものであって、国を荒らし、民を苦しめるような戦はしてはならん」

「アルヴァルディの受け売りか?」

 フン、と鼻を鳴らし、スリュムは笑った。

「儂は所詮、成り上がり者じゃ。だがアルヴァルディは違う。生まれながらの王じゃ」

「……それは否定せん」と、呟くようにギリングは言った。


 豪族の家来に過ぎなかった頃から、ギリングはスリュムと共に戦い続けてきた。多くの豪族を平定してスリュムがヨトゥンヘイムの王となった事に、少なからず貢献したのだという自負もある。

 だがスリュムの言葉通り、ただ戦に勝てば良かったのは過去の話で、今は守り治める事も考えなければならないのだろう。

 事実、力づくで侵略した豪族領では反乱が相次ぎ、何度叩き潰しても反乱が収まることは無かったのに、オリアスの進めた宥和政策の結果、それは嘘のように鎮まったのだ。

 それに反乱が鎮まった結果、荒れていた国土は豊かになり、市は栄えた。

 それは単に反乱が鎮まったからだけでなく、オリアスが征服された豪族たちとの評議の結果、彼らの要求を受け入れて治水灌漑工事などを進めた成果でもある。

 特に農民たちはこれを喜び、オリアスが視察に行けばどこでも非常な歓迎を受けた。

 ギリングには政の事は分からなかったが、国を治めるとはこういう事なのだろうと思った。

 オリアスの考えは正しいのだろうし、スリュムがオリアスを、二人と得がたい息子だと誉めるのも当然に思える。


 だが戦がすっかり減ってしまって無聊ぶりょうをかこつようになると、自分が無用の存在になってしまったかのような空しさを覚えた。

 ――年が近いこともあって、儂は自分を親父殿の息子というより、片腕のような存在だと思っておった。じゃが、今の儂はただの冷や飯喰いでは無いのか……?


「……どうした黙りこくって」

 スリュムに言われ、ギリングは我に返った。

 視線の先では、ベルゲルミルとアールヴが木刀を振り回してじゃれ合っている。

「下手すぎて見ておれん」

 スリュムに答える代わりに、そう言ってギリングは露台から庭に降り立った。

「代われ代われ、ベルゲルミル。坊主には儂が剣を教えてやる」

「アールヴに怪我をさせるなよ」

 スリュムの言葉に、ギリングは振り向きもせず、ただ手を上げて答えた。



「お帰りなさいませ」

 ギリングが帰宅すると、妻のメニヤが出迎えた。

 ギリングの住まいは王城の別棟にあり、木造の簡素な建物だ。

 そことは別に領地に城――と言うよりは要塞――があったが、殆どはこのこじんまりした別棟で過ごしていた。

「今日はお帰りが少し遅かったようですが」

「おう。アールヴに剣を教えてやっていた」

「アールヴ……。確か、アグレウス様の末のお子の」


 言って、メニヤは酒を持ってきた侍女に軽く手を振り、下がらせた。

 ギリングは酒盃を手に取り、「アルヴァルディにお守りを頼まれた」と言って、それを呷った。

 メニヤは目を細め、微かに首をかしげる。


「アールヴ殿がヘルヘイムの親王になったとは聞きましたが、それにしてもあなたが子守をなさる事は無いでしょう」

「頼まれたのは儂じゃない、ベルゲルミルだ。じゃがあいつは剣が下手で、見ておれなかったからな」

「それならばアルヴァルディ様の側近の誰かがその役を負うべきではありませんか?」

「ヴィトルが教育係をやっとる」


 言って、ギリングは空になった盃を差し出した。

 その口調は次第に荒くなっていったが、一方のメニヤは逆に冷ややかになってゆく。


「ならばヴィトルが剣も教えれば良いではありませんか」

「奴は忙しいんじゃ」

 一気に盃を飲み干し、ギリングはそれを妻に突きつけるようにして差し出した。

 が、メニヤは酒瓶を持ったまま動かない。

「つまり、あなたはお暇なのですね」

「何じゃと?」


 ゴトッ、と荒々しく音を立ててギリングは盃を卓の上に叩きつけた。

 が、メニヤは動じない。

 ギリングは短気だが、女に手を上げるような事は決して無いのだと判っている。


「今日もあなたの麾下きかの戦士の妻たちから苦情を持ち込まれました。中には将軍の妻もおります。一体、いつになったら次の戦が始まるのか……と」

 それは儂が知りたい――内心でギリングは思ったが、口には出さなかった。

 代わりに、メニヤの手から酒瓶をひったくる。

 戦は国を守り、国を治めるためにするものだという、オリアスの受け売りの受け売りを、妻に話す気にはならなかった。

「それを決めるのは親父殿じゃ。儂ではない」

「では、いつになったらエーギルが大将軍になれるのです? このまま戦が起きなければ、大将軍どころか将軍にもなれません」


 エーギルは、ギリングとメニヤの間に生まれた一人息子だ。

 それなりに勇敢な戦士でそれなりの戦果を挙げており、そこそこ頭も良く、容姿は精悍と言っても親の欲目にならない程度には整っている。

 良く言えば全体的に優れているのだが、悪く言えば全てが中途半端で、何か抜きん出て優れた点は見られなかった。


「あなたがあんな約束をしてエーギルが領地を継ぐ道を閉ざしていなかったら、私だってこんな繰言は申しません」

「また、その話か……!」

 吐き棄てるように言って、ギリングは盃を酒で満たし、そのまま一気に呷った。



 ギリングが軍議の決定に反して独断行動を起こして甚大な損害を出した事は、当然、厳罰に値した。

 本来であれば、極刑もやむなしと言えた。

 だがスリュムは自分が成人するより前の、まだ豪族の家臣に過ぎなかった頃からずっと共に戦い、それまでに数々の功績を挙げていたギリングを処刑する事は出来なかった。

 一方で初陣から十数年しか経っていないオリアスが、ギリングたちを助ける為に彼の側近の一人である戦士を喪った痛手は色々な意味で非常に大きく、スリュムとしても極刑に準ずる罰を下す必要があると考えた。

 その結果、ギリングは大将軍の地位を剥奪されて一兵卒に落とされると共に、領地を失った。


 その後、ギリングは実力で一からのしあがって再び大将軍の地位に返り咲き、戦果を重ねて領地も取り戻した。

 が、自らの失態を戒めるために、領地は自分の死と共に返上する事を申し出た。

 スリュムはその申し出を検討し、エーギルが実力で大将軍の地位を得た場合に限り、領地を相続させると言い渡した。



「あれから何百年も経っておるんじゃぞ。それをいつまで愚痴る気じゃ? むしろ、何百年も経ったのに大将軍になれずにいるエーギルが腰抜けなんじゃろうが……!」

「エーギルは戦で国を滅ぼすより、領主として領地を治める方が向いているのです」

「だったら戦なんぞ、あっても無くても同じじゃろうが。いや、むしろ無い方が良い」

「あなたが余計な約束などなさらなければ、そうでした」

 怒鳴るギリングに、メニヤは一歩も引かない。

 そして、メニヤがこれほどまでに領地に拘るのには理由があった。


 ギリングがスリュムから与えられた領地は、かつてスリュムの主君である豪族が治めていた。

 そしてその豪族の長は、メニヤの祖父だった。

 メニヤの祖父と父は戦でスリュムに攻め滅ぼされ、一族の男は皆殺しにされた。

 豪族の館にいた女達は身分を問わず略奪の対象となり、奴隷としてスリュムに仕える事となった。

 メニヤも長い間、下働きをしていたが、ある時ふとしたきっかけからかつての豪族の長の孫娘である事が分かり、スリュムの勧めでギリングはメニヤを側室とした。

 やがて二人の間に息子が生まれ、ギリングはそれを機にメニヤを正式な妻とした。


「いつまで昔の身分に拘る気じゃ? いっそ奴隷の身分に戻るか?」

「昔の事を覚えているのは、私だけではありません」

「何じゃと?」

「豪族たちとアルヴァルディ様の会議の場に同行した折、豪族の長の一人が、エーギルが曽祖父にそっくりだと言ったのだそうです」

 メニヤの言葉に、ギリングは太い眉をしかめた。

「私は幼かったので祖父の顔は殆ど覚えていませんが……。エーギルがこっそり耳打ちされた話では、瓜二つだと」

 ギリングは盃をいっぱいにし、それをゆっくりと傾けた。

「……それがどうした。昔を懐かしむ者同士で結託して、反乱でも起こすつもりか?」

「アルヴァルディ様に逆らうつもりは毛頭、ありません。豪族たちもアルヴァルディ様の宥和政策には満足しているようですし、何よりエーギルがアルヴァルディ様に刃を向けるはずがありません」


 エーギルにとってオリアスは年下の叔父に当たるが、全ての点で非の打ち所のないオリアスをエーギルは賛美し、尊敬していた。

 心酔していると言っても過言では無い。

 オリアスが豪族たちと会議する場に同行を願い出たのも、オリアスの政治手腕を見習いたいが故であった。


「だったら何じゃ。一体、何が言いたい?」

 メニヤは夫の手から酒瓶を取り戻し、盃を満たす。

「私は何も、エーギルの身の振り方だけを案じて言っているのではありません。あなたがこのように無聊に苦しんでおいでなのも、嘆かわしいと思っております」

「…………」

 ギリングは口を噤み、盃に口をつける。

「確かにかつて大きな失態を演じはしたものの、あなたはこの国を建てるのに多大な功労のあった方です。アルヴァルディ様は大きくなった国を治めるのに優れた功績を挙げておいでですが、そもそもヨトゥンヘイムを一つの国に統一したのはどなたです?」

「だから何じゃ。アルヴァルディを追い落として、儂にヨトゥンヘイムの次の王になれなどとほざく訳ではあるまいな」

「まさか」と、メニヤは言下に否定した。

「アルヴァルディ様はあなたの生命の恩人でもありますし、何よりアルヴァルディ様に害を為したなら、エーギルはあなたでも許しますまい」

 ただ……と、メニヤは続ける。

「アルヴァルディ様は、ヨトゥンヘイム王よりもヘルヘイム皇帝の方がお似合いなのではないかと」

 メニヤの言葉に、ギリングの眉がぴくりと動く。

「ヨトゥンヘイムの王にしておくには、あの方はお美しすぎます」

「……下らん戯言ざれごとだ」


 低く、ギリングは言った。

 だが理由はともかく、それは悪くない考えだと思った。

 彼自身も父のスリュムも、アグレウスを嫌っている。

 アグレウスを廃してオリアスを次のヘルヘイム皇帝とし、ヨトゥンヘイム王位はギリングが継ぐ。独り占めでは無く、異母弟たちと三分割でも良い。

 そして、エーギルには自分の領地を継がせる。

 エーギルはオリアスに心酔しているのだから、連合王国は今まで以上に結束を保って治められるだろう…………。


「飲み過ぎた」

 まだなみなみと酒が残っている盃を卓の上に置き、独り言のようにギリングは言った。

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