第11話 交錯する思惑

 その頃、ヘルヘイム皇宮では、解放されたヘレナ、ダンタリオンとその侍女・侍従たちがほっと胸を撫で下ろす一方、これがただの食あたりであったとは思えぬ貴族や廷臣たちが様々に憶測し、密かに噂していた。

「食あたりで済ませたか……」

 幾分か不満そうに、ザガムは言った。

「拷問されれば、たとえ無実でも毒を盛ったと証言する者が出そうなものだが」

「拷問の許可は下りなかったと聞いております」と、ハーゲンティ。

「アグレウス殿下の温情あるお計らいでしょう」

「父上に温情などあるものか」

 低く、吐き捨てるようにザガムは言った。

「そんなものがあるなら、私の伯父や従兄弟達たちが皆殺しにされた筈が無い」


 アグレウスはザガムやダンタリオンの母の故国を攻めた時に、王族の男子は幼子も含めて全て暗殺していた。

 表向きは幽閉中に病死したとなっているが、二十名以上がわずか数ヶ月の内に全員、『病死』したのだから、殺されたのだと考える方が自然だった。


「滅多な事を仰せられますな」

 声を潜め、ハーゲンティは主人をたしなめた。

「判っている」

 ザガムは言ったが、不満そうな表情のままだ。

「父上が拷問を許可しなかったのは、そなたの申していた通り、これがダンタリオンを陥れる罠だと考えておられたからであろうな。つまり……私が疑われていたという事か」

「アールヴ様の侍女たちにも、疑いの目は向けられていたようでございます」


 アグレウスが自らの乳母だったドロテアと、その姪二人をアールヴに随行させたらしいと、ハーゲンティは言った。

 元々アールヴ付きだった侍女たちは、その役目を解かれている。


此度こたびのことで」と、ザガムは独り言のように呟いた。

「得をしたのは誰であったろうな。私やフォルカスには何の益も無かったし、最終的に解放されたにせよ、捕縛され幽閉されていたダンタリオンに益があった筈も無い。だが、アールヴをヘルヘイムの皇帝に立て、ヨトゥンヘイムの傀儡かいらいとしようと企む者たちに取っては、アールヴがしばらくヨトゥンヘイムに滞在する事になったのは、少なからぬ意味を持つのではあるまいか」

「お言葉ではございますが、そのような者がいるとの証拠はどこにもございませぬ」

「いない、という証拠もあるまい?」

 ザガムの言葉に、ハーゲンティは口を噤んだ。

「少なくとも、ヨトゥンヘイムの様子を探っておくのは有益だとは思わぬか?」

「……御意のままに」

 言って、ハーゲンティは一礼した。



「誤解が解けて、本当に良かった……」

 何度目かの深い溜息を吐きながら、ヘレナは言った。

「侍女たちの取調べの際に温情あるお計らいのあった事、父上に感謝せねばなりますまい」

 ダンタリオンの言葉に、ヘレナは眉を顰めた。

「侍女たちはすっかり怯えてしまっているけれど……こういう時に拷問されなかったのは、『温情あるお計らい』と呼ぶべきなのでしょうね……」


 そう言ったヘレナ自身、心痛のため、すっかりやつれて見えた。

 ダンタリオンは母の側に近づき、その耳元で囁くように言った。


此度こたびの事……我らを陥れる為の、何者かの罠だと思われます」

「それは判っています。何しろ私たちは無実なのだから、私が差し入れさせた菓子を食べた毒見役が、偶然その時に食あたりを起こしたなどと信じるので無い限り」

「このような卑劣な罠を仕掛けた者が誰かは、火を見るより明らかかと」

 ダンタリオンの言葉に、ヘレナはもう一度、深く溜息を吐く。

「どうすれば良いのでしょう……。は自らの侍女をアグレウス様の側室に差し出してまでアグレウス様の歓心を買おうとなさっているけれど、私も何かすべきだったのでしょうか?」

「父上がそのような事で御心を動かされるとは思えませぬが」


 ダンタリオンは言って、一旦、言葉を切った。

 彼が髪型や服装をアグレウスに似せて血のつながった子息である事を強調しているのは母からそうしろと言われた為だが、その事に何らかの効果があるとは、ダンタリオン自身は考えていなかった。

 実際のところ、父親に似ていないという点では、彼は他の親王たちと大差なかったからだ。


「此度の事が罠であったと、そしてその首謀者が誰であったかはっきりさせる事が出来れば、父上のお考えも変わるでしょう」

 暫く口を噤んでいたダンタリオンは、やがてそう言った。

「我らの安全の為にも、あちらの様子を探らせるべきかと思います」

 ヘレナは困惑気な表情をしていたが、やがて小さく頷いた。



「兄上たちは戦々恐々としているらしいよ」

 窓際に立って中庭を眺めながら、フォルカスは言った。

「兄上たち? ダンタリオン兄様はともかく、どうしてザガム兄様が?」

 訊いたのは同腹の妹グレモリー。

 フォルカスは振り向いて妹を見、微かに笑った。

「君は賢いのだから、自分で考えてみたらどうだい?」

 グレモリーは眉を吊り上げた。

「またそうやって人を馬鹿にして……」

「そんな顔をすると、美人が台無しだよ」


 グレモリーはつん、と顔を背けた。

 それから口を開く。


「……嫌疑が晴れてダンタリオン兄様たちは解放されたのだから、ザガム兄様に取っては面白くない結果だったでしょうね。と言うより、食あたりなんて不自然な解決に至ったのは、そもそもお父様がダンタリオン兄様の事を真剣に疑っていなかった証拠で、だとしたら本当に疑われていたのは別の相手――つまりザガム兄様」

 グレモリーの言葉に、フォルカスはただ微笑んだ。

「ザガム兄様がダンタリオン兄様を失脚させる為に今回の事を仕組んだのは、いかにもありそうな事ではあるわね。でも、結果は失敗だった。ダンタリオン兄様を失脚させるどころか、自分がお父様から疑われてしまったのならヤブ蛇も良いところだわ」

 でも、とグレモリーは続けた。

「結果として二人で潰し合ってくれれば、それはそれで面白いけど」

「恐ろしい事を平然と言うね、君は」と、フォルカスは苦笑した。

「言っておくけど、たとえ兄上たち二人が失脚したとしても私が父上の嗣子になれる可能性は殆ど無いし、むしろ何の後ろ盾も持たないのに皇太子なんて位に就いてしまったらとんでもない苦労を背負い込む事になるだろうね」

「相変わらず意気地が無いのね、お兄様は」

 不満と軽蔑をない交ぜにした表情で兄を見据え、グレモリーは言った。

「今は何の後ろ盾も持たないけど、皇太子になったら有力貴族の姫君を妃にして後ろ盾を得るとか、そういった発想は無いの?」

 フォルカスは軽く肩を竦めた。

「そうなったら妃と妃の実家に頭が上がらなくなって、抑え付けられる事になる。後ろ盾を得るどころか、その貴族の勢力を伸ばすのに皇太子の地位を利用されるだけって事になるんじゃないかい?」

「ええ、そうでしょうとも。お兄様のような意気地なしなら、たとえ権力を握る機会があったとしても、そんなもの無い方が気楽だって言って逃してしまうのでしょうね」


 妹の言葉に、フォルカスは声を立てて笑った。

 それから、まっすぐに妹の顔を見る。


「じゃあ、君だったらどうするのかな。もしも大きな力を得る機会があったら、それをどうする?」

「利用するに決まっているでしょう? 訊かれるまでも無いわ」

「だったらこの縁組を受ける……って事だね?」

「縁組ですって?」と、グレモリーは驚いて目を見張った。

 フォルカスは頷いて続けた。

「暫く前に来ていた話なんだけど、言い出し難くてね」

「相手が中流貴族の四男だから?」

「……商人なんだよ」

「なっ……んですって!?」

 叫ぶように言ったグレモリーの言葉に、頭痛でもするかのように、フォルカスはこめかみを押さえた。

「正確には豪商、大商人だよ。ヘルヘイムの皇家にも匹敵する富を持つと噂され、その富を守る為に私設軍まで持ち――」

「冗談では無いわ。どうして私が商人なんかの妻に?」

「嫌なら良いんだよ。この話は忘れておくれ」ただ、とフォルカスは続けた。

「この話を断ったら後は中流貴族の四男に嫁ぐか、一生、兄の侍女として過ごすかどちらかの選択になるんだけれどね。それに結論を出す前にこれを見て欲しい」


 言って、フォルカスは部屋に造りつけの戸棚から小箱を取り出し、グレモリーに渡した。

 精巧な彫刻の施されたその箱は、ずっしりと重い。

 グレモリーはそれを小卓の上に置き、蓋を開けた。

 中には様々な宝石で飾られた装飾品が、ぎっしりと詰まっていた。ひとめ見ただけでも、とてつもなく高価な品ばかりなのだと判る。

 グレモリーは思わず息を呑んだが、すぐに眉を顰めて顔を背けた。


「……こんな物で気を引こうなんて、いやらしい成金趣味だわ。これでも私は二つの王家の血を引いているのよ?」

「判ったよ。これは返して、この話はきっぱり断る」

 あっさりと言ったフォルカスを、グレモリーはやや意外に思って見た。

「……私を説得する気は無いようね」

「だって君が苦労するのが目に見えるからね。相手は大商人の当主で宮中の園遊会の時に君を見初めて惚れ込んでいるそうだから、嫁げば女帝のような贅沢な暮らしができるのだろうけど、何せ後妻だから」

「後妻……?」

 訊き返したグレモリーに、フォルカスは頷いた。

「亡くなった先妻との間には四人の子供がいて皆、成人している。長男が跡継ぎになる事も決まっているそうだ」

「……だから肩身の狭い思いをするだろうし、当主が死んで長男の代になれば邪魔者扱いされかねない……と?」

「普通に考えたら、そうなるだろうね」

 言って、フォルカスは宝石を詰めた小箱の蓋を閉じた。

「普通に考えなかったら?」


 小箱の蓋に手を置き、グレモリーは挑戦的な瞳を兄に向けた。

 フォルカスはまっすぐに妹を見つめ、それから口を開く。


「……考えようによっては、これは現状を打破する好機とも捉えられる。莫大な富はそれだけで絶大な権力となるし、商人という地位は、得意先のあらゆる貴族の屋敷や王宮に入り込み、内情を探り、影響を及ぼす事さえ可能にするかも知れない」

「……それではまるで間諜ね」

「もちろん商人が王侯貴族の内情を探るのは商売の為であって、それ以上では無いだろうけれど」


 グレモリーは口を噤み、小箱の蓋をじっと見つめた。

 それから蓋を開け、幾つかの宝石を手に取る。

 使われている宝石の大きさと質、精緻な造形、優雅で気品のあるデザイン――これだけ見事な宝石を身に着けられるのは、この国では女皇フレイヤだけだ。

 内親王の称号を持たないグレモリーを見下している姉妹たちや、アグレウスの妃の座を巡って争っている嬪たちの誰も、これ程の品を身に着けた姿を見た事が無い。

 そして兄の侍女のままでいれば無論の事、中流貴族に嫁げばこの蠱惑こわく的な輝きとは、一生無縁となるだろう。


「……暫く考えさせて」

 宝石を見つめたまま、グレモリーは言った。



 十日後、グレモリーに求婚している豪商ベムブルが、長男のスロールを伴って皇宮を訪れた。

 表向きは女皇フレイヤへの貢物の献上の為であったが、実際はグレモリーに会うのが目的であった。

「正式にお目にかかるのは初めてになります、グレモリー姫。遠くからお見かけした事はございましたが、近くで拝見すると一層、お美しい」


 大袈裟に両手を広げ、満面の笑みと共にベムブルは言った。

 グレモリーはその日、可能な限り美しく着飾っていたのだが、その顔は人形のように無表情だった。

 嫌悪感を押し殺すのに、精一杯だったのだ。


 ベムブルは小柄でずんぐりと太った愛嬌のある男で、愛想は良いものの男ぶりは決して良いとは言えず、母親は貴族の出だが父親が平民であるせいか、年齢の割りに衰えが目立った。

 額は広く禿げ上がり、頭の頂も薄くなっている。

 肉付きの良い頬と丸い鼻は酒に酔っている者のように紅く、瞼は垂れ下がっていて唇は分厚かった。


「どうかその美しい御手に接吻する事をお許し下さい」

 言ってベムブルはグレモリーに近づいて跪き、うやうやしく片手を差し出した。

 グレモリーはベムブルの禿げた頭を見下ろし、身震いした。

 貴婦人の手への接吻というのは形式的なものであり、身をかがめて接吻する振りをするだけだと判ってはいるが、それでも指先が触れるだけで耐え難く思えた。

 相手がただの商人だと思えばその程度は何でもなかっただろうが、自分の夫となるかも知れない者だと思うと、どうしても嫌悪感を抑えられなかったのだ。


 傍らを見ると、兄のフォルカスがいつものごとく、微笑を浮かべてこちらを見ている。

 そしてその微笑が、「やはり無理だったろう?」と言っているように、グレモリーには思えた。


 グレモリーは渋々片手を差し出したが、ベムブルの指先が触れると同時に引き込めた。

 ベムブルは気を悪くした素振りも見せず、満面に笑みを浮かべたままグレモリーを見上げ、立ち上がって一礼した。

 それから、子息のスロールの方を手振りで示す。

「これは長男のスロールと申します。いずれ私の後を継がせるつもりでおります故、見習いのために同行させております」

 スロールはただ深々と一礼しただけで、グレモリーに近づこうともしなかった。

「本日はお近づきのしるしにこちらの品を持参いたしました。お気に召して頂ければ幸いでございます」

 言って、グレモリーが従者に合図すると、従者が平たい箱を持って進み出た。

 蓋を取ると、中には美しい絹織物が入っている。

 グレモリーは何も言わず、ただ小さく頷いた。

 その後、ベムブルは暫く当たり障りの無い話をしてから退出したが、相手をしたのはもっぱらフォルカスで、グレモリーは受け答えするどころか、ベムブルの方を見る事さえ殆どしなかった。



「思っていた通り、気位の高い姫だ」

 皇宮を出、馬車に乗り込んでから、ベムブルは言った。

「あまり好意的だったようには見えませんでしたが」

「その方が面白い」と、息子の言葉にベムブルは笑った。

「ただ美しいというだけの女ならば、幾らでも手に入る。だが金で簡単に思い通りになる女など面白くないし、何より皇太子殿下のご息女を我が家に迎えられれば箔がつくというものだ」

「それはそうでしょうけど、望み薄に見えましたが」

 スロールの言葉に、ベムブルは含み笑いを漏らした。

 愛嬌のある人当たりの良さそうな顔が、腹黒く好色そうな表情に歪む。

「難しい取引の方が成功した時の達成感は大きいし、そういう取引の方が利益も大きい。なに、あの姫の置かれた境遇を思えば、勝算はある」

「……そうですか」

 言って、スロールは馬車の窓から外を見た。

 そして、今、会ったばかりのグレモリーの美しさを思い出していた。



「……それで?」

 ベムブル親子が出て行った後、そう、フォルカスは訊いた。

 グレモリーは窓の外に視線を向け、口を噤んだままでいる。

 窓からは、ベムブルが乗った馬車が遠くに見えた。四頭立ての白馬に引かせた大きく立派な馬車で、ヘルヘイム皇家の馬車に比べても見劣りがしない。

「私なら権力や財力目当ての結婚で苦労するより、中流貴族の末子でも良いから仲睦まじく生涯を共に出来る相手と幸せになる道を選ぶけれどね」

「……そうでしょうね」


 素っ気無く、グレモリーは言った。

 兄からは視線を逸らしたままだ。

 暫く窓の外に視線を向けたまま口を噤んでいたが、やがて兄に向き直る。


「あの息子の方は既婚者なの?」

「貴族出身の妻がいて、娘が二人いる」

「……詳しいのね」

「ベムブルからこの話があった時に、家族構成は調べさせたよ」

 兄の言葉に、グレモリーは軽く溜息を吐いた。

 スロールは外見も印象も平凡な男だった。言い換えれば、月並みより下という訳では無い。

 父親のベムブルと比べれば、よほど増しに思えた。

 が、スロールには妻がいるし、何より求婚してきたのは父親の方だ。


「ベムブルが話している間、ずっと君に見惚れていたよ」

「――え……?」

 意外に思い、グレモリーは訊き返した。

 フォルカスは微笑した。

「君は気づかなかったようだけどね。それに多分、ベムブルも気づいてはいない。何しろ、ベムブルは君しか見ていなかったから」


 グレモリーは、暫く口を噤んだまま、兄の言葉を頭の中で反芻した。

 それから、口を開く。


「……もしも妻がいなければ、息子の方が私に求婚する可能性もある、という事かしら。そして娘が二人という事は、跡継ぎになる男子はまだいないのね」

「そういう事になるだろうね。いずれにしろ……やはり私は、君にこの縁談は勧められないな。商人は貴族とは生活習慣も異なるだろうし、何人も愛妾のいる男の後妻になんかならなくても――」

「中流貴族の四男の妻になるか、お兄様の侍女のままでいれば良い、と?」

 兄の言葉を遮って、グレモリーは言った。

 フォルカスは軽く肩を竦めて微笑し、「決めるのは君だよ」と言った。

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