鏡の中に棲む鬼

【怪異四】左右左右面

「うわ……迂闊。こんなところにめんとは……」


 遊神来夏は山奥の廃ロッジ内で、やっちまった感アリアリの声を独り上げた。

 節々に灰色の埃を積もらせた、丸太造りの壁。

 その前に置かれた、陳列物皆無の化粧台。

 そして四角い鏡に映る、来夏の上半身。

 来夏が生来の真顔を浮かべているのに対し、鏡の中の来夏は上下の歯をかち合わせた笑顔。

 加えて、頬肉を吊り上げてニタニタと下品な笑みを浮かべている。


「……左右左右面。鏡の中に棲む鬼。鏡の中の自分と目を合わせた瞬間、見た者の魂はもう、左右左右面に移っている」


 思い出すように言いながら、来夏は鏡の前で前のめり。


「そして、鏡の外へ顔を移動させた瞬間、絶命」


 鏡の中の来夏……左右左右面も、来夏へ顔を近づけてくる。


「妖気を感じて覗いた空き家に、こんな厄介者がいるとは……」


 無表情は崩さずも、額に右手を添えて悩ましさを露にする来夏。

 左右左右面は同じポーズを取りながらも、にやけヅラを継続。


「まったく、チェシャ猫みたいにニヤニヤと……。チェシャ猫が登場するのは『鏡の国』じゃなくて『不思議の国』でしょうに」


 来夏は顔色を変えず、鏡へ向けて、右手の人差し指を立てる。

 左右左右面も笑顔を崩さず、来夏へ向けて、の人差し指を立てる。


「対処法一つめ。神力が宿った鏡を用いて鏡合わせ。その神鏡しんきょうに左右左右面を封じる。これはたぶん、そこそこ古い神社に置いてる鏡でいけるはず。電話で持ってきてもらえる当てはあるけれど、神仏関係者に借りを作りたくない」


 来夏は続いて中指を立てる。

 左右左右面も同時に中指を立てる。


「二つめ。この化粧台を正面に担いで下山。のち、無人の神社で先の案。一番堅実だけれど、体力的には一番ごめんこうむりたい」


 来夏は少しぎこちなさげに、立て慣れていない薬指を立てる。

 左右左右面も指全体を震わせながら、薬指を立てる。


「三つめ。遭難したとかなんとか言って一一〇番か一一九番。駆けつけた人に左右左右面をなすりつける。左右左右面は直近に見た人物の魂を奪う。一番楽なのはこれ。でもそのあとが面倒そうだから、一番後回し。警察も救急も二人一組で来るから」


 来夏が小指を立てる。

 左右左右面も小指を立てる。


「四つめ。わたしの身代わりになってくれる依り代を作る。人形ひとがたでいけると思うけれど、手元に材料がないから、これもだれかに借りを作る。ひとまずパス」


 来夏が残る親指を立てて、右掌を広げる。

 左右左右面も同時に、指紋、手相いずれも左右反転している掌を広げる。


「五つめ……。左右左右面の民話で伝えられている撃退方法。左右左右面が模倣できない動きをする……ふぅ」


 来夏は溜め息を一つ吐き、右手をパーカーのポケットへと収納。


「左右左右面は、鏡に映っている人物の模倣を失敗すると消滅する。でもそれは、さとりの民話の偶発的なオチより難しい。しかも左右左右面の民話で助かった男性は、『鏡と違う動きをした』というあいまいな描写しかされていない。鏡の中の自分より速く動いた……という漫画のキャラなら、何人かいるけれど……さて」


 来夏は少し間を置いたあと、苦々しい表情で吐き捨てるように言う。


「六つめ。鏡を割る。ただし左右左右面は世の別の鏡へ移動し、わたしは犬死に。論外。これはあくまで、人身御供を差し出して左右左右面を遠ざける際の手口」


 そのとき、廃ロッジのドアが開いた。

 入ってきたのは揃って白い頭髪の、老夫婦らしき組み合わせ。

 夫と思しき男性が、連れ合いの両肩を背後から掴んで支えている。


「……すみません。道に迷ったのですが、少し休ませてもらえませんか? 小雨が降ってきたもので……」


「あ……はい。というかわたしも、勝手に入って休憩している部外者ですけど」


「そうでしたか。さ、おまえ。まず座りなさい」


「あっ」


 軽めの登山用のいでたちの二人は、前のめりで化粧台へと向かって早歩き。

 前方へ転びかけた女性を背後から支えながら、男性がいすへと座らせる。

 老いた女性の姿が、来夏の手前で鏡に映りこむ。

 左右左右面のターゲットが、来夏から老女へと移った。

 鏡に映る、老女のにやけた顔──。

 それが瞬時に、苦悶の表情を浮かべ、顔を歪に崩す。

 直後、老女の少し疲れた表情を、ありのままに映しだした。


(あ……! 左右左右面の気配が……消えた! 左右左右面が死んだ!)


 あっという間の出来事に、来夏は呆気。

 その顔を見て、いすを奪ってしまったと誤解した男性が、恐縮気味に頭を下げた。


「すみません。家内には持病がありまして……。なんか長い片仮名の病名なんですが、そのせいで、休み休み歩かせないと……」


「もしや、ゲルストマン症候群……ですか?」


「えっ? そ……それです! もしかして……お医者様ですか?」


「いえ。たまたま知っていまして。雨がやんだら、下山を手伝います。必要とあらば救急車を呼びましょう」


「助かります。ケータイの会社から、無理やりケータイをスマホに変えられたんですが、スマホは操作がよくわからなくて……」


(……ゲルストマン症候群。その症例の一つに、左右失認がある。左右の判別がつきづらくなる症状。左右失認の人が鏡を見ると、左右がぶれて見えることがあると、物の本で読んだ)


 来夏はパーカーを脱いで黒い半袖シャツ姿になり、体温が残るパーカーの裏地で、老女の体表の冷たい水滴を拭き始める。


(この老女にターゲットを移した左右左右面は、左右失認のブレに対応しきれず、民話どおり消滅した……。民話の男性が左右失認持ちなら、なるほど合点がいく)


 来夏の対応に、老女はただニコニコと笑顔を返す。

 先ほどまで自分のにやけヅラを延々見せられていた来夏は、老女の笑顔に思わず頬を緩ませた。

 老女に代わって、夫が謝辞を述べる──。


「ありがとうございます。家内は脳卒中の後遺症でもう、言葉もよく出せないのですが……。この笑顔だけは、新婚当時のままなんですよ。はは……」


「ふふっ、すぐ新婚のころのように、話せるようになりますよ。なにせ奥様は、鬼を退治されるほどのお強い人ですから」

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