第40話(最終話)六日目② ~結節点~
「晩御飯にしましょう」
フライト迄はまだ十分な時間があるから、とポーリィさんは云った。私は今夜の便で日本へ発つが、彼女は此処で一泊してシンガポールを満喫するそうだ。美しい街並みで旅行者たちを惹きつける東南アジア随一の近代都市は、隣国マレーシア人をも魅了するらしい。華僑が圧倒的多数を占める街の景色が、同じ華僑であるポーリィさんに近しく感じられると云う事情も後押ししているのかも知れない。
斯様にマレーシア人にとってシンガポールは近しく慕わしい国ではあるが、実は無邪気に
英国からの独立をマレーシア連邦の一員としてスタートさせた此の島は、だがその僅か二年後にマレーシアと袂を分かつ。
世紀を
領土を接していれば衝突の材料に事欠かないのは
例えばシンガポールでは水の自給は望めずマレーシアからの供給に依存しているが、その価格の高い
前述の通り、両国の間に遺恨がない訳ではないのだ。それでも領土やライフライン確保のような
* * *
海沿いを行くタクシーから外を見ればもう陽は海に
ビルの陰に、道路の脇に、無機物如きに屈服するとは思いもよらぬ永劫無窮の生命たちが、人工物の浸食など知らぬ顔で思い思いに枝葉を伸ばしている。今にもそれはジャングルへと育って、熱帯雨林の近代都市を飲みこみそうだ。猿と鳥との啼き声の向こう、鬱蒼と茂る密林の奥、象と大蛇とに
月も見えぬ夜に白昼夢でもなかろう、ならばこれは狐狸の仕業か。だが宵の幻に化かされたのは私ではなく、寧ろ南国の獰猛で素朴な動植物たちが、突如楽園に現出した摩天楼に
カボチャの馬車が連れてきてくれたのは海鮮レストランだった。舞踏会のお城とはいかないが、ありとある窓から煌々と光の零れる
席に案内された我々はチリクラブとフィッシュヘッドカレーを頼んだ。
先ず運ばれてきたのはチリクラブ。殻を割られた蟹が一匹まるごとチリソースの中に浸かっている。蟹は沼地にでもいそうな重厚な躰つきだ。堅固な甲羅は鮮やかな朱の地に白い斑点で彩られている。チリソースに
蟹と格闘するうちフィッシュヘッドカレーも届いた。マレーシアとも共通の、マレー・中華・インド三民族の味が融合した傑作料理だ。魚の
日本へ発つ前の最後の罰に、アイスカチャン(マレー風かき氷)を頼んだ。氷の中には
シンガポールは東南アジア最大の金融センターであるだけでなく、海路に於いては物流の一大集散地でもある。そして、シンガポール空港は世界有数のハブ空港だ。アジアの玄関口であり、南北の半球を繋ぐ結節点でもある。
それを可能にしたのが一つにはインド洋から太平洋へと船が抜けるならば通らずには済まない要衝であった優位性を、大英帝国統治の下あますことなく活かし発展させ盤石にしたことだがそれだけではない。三民族が混じり合わずとも共存する社会、それにシンガポールとマレーシアとの関係を見れば、誰もが今の地位に得心いくだろう。
空港内を歩く人々の姿は様々だ。アジア人が基調をなすなか、色素の薄い欧州系に、黒い装いの中東人、
シンガポール・マレーシア両国に於いても民族間の対立はあった。暴発した衝突の為に命を落とした者もいた。その真相に強引に蓋した政府の処置が公正だったとは無論云わない。だが仮に全てを白日の下に曝せたとして、半世紀前の怨みが呼び覚まされ、新たな火種が新たな犠牲者を生むならば、その真実は何の為なのか。追究を進めることに迷い躊躇う者たちを、誠実でないと断じることは私には出来ない。今は
空港内を彩るのは数えきれないほどの蘭の花だ。シンガポールが国花とする蘭は東洋では四君子の
ところで空港を歩くと蘭の白と紫とに強烈に印象づけられるのだが、実は空港内で見るべき植物はこれだけではない。
屋上に庭園、屋内には植物園もあって色とりどりの蝶が舞い、巨大な瀧さえ現れる。種々の動植物が同居し調和する
自然は決して生易しいものではない。人間世界も
或る人々は人種民族の壁を取り払い交じり合うことを佳とした。また或る人々は民族の純血を守ることが道だと信じた。何が正解と云うものではないのだ。
穢れた血などと云うものは此の世に存在しない。卑しい血も、醜い血もだ。
人殺しの血であってもか――人が問うなら、私は応と答えよう。だからこそ、復讐の手を下すのは私一人で
日付が変わろうとする時刻になって日本への便は飛び立った。
夜間飛行で窓から地上を確かめたければ、街の灯だけが頼りだ。真っ
次第に遠ざかる光を私は瞼に焼きつけ、楽園の余韻に別れを告げた。
(マレーシア・シンガポール編 了)
(完)
世界の車窓から殺し屋日記 久里 琳 @KRN4
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