第40話(最終話)六日目② ~結節点~


「晩御飯にしましょう」

 フライト迄はまだ十分な時間があるから、とポーリィさんは云った。私は今夜の便で日本へ発つが、彼女は此処で一泊してシンガポールを満喫するそうだ。美しい街並みで旅行者たちを惹きつける東南アジア随一の近代都市は、隣国マレーシア人をも魅了するらしい。華僑が圧倒的多数を占める街の景色が、同じ華僑であるポーリィさんに近しく感じられると云う事情も後押ししているのかも知れない。


 斯様にマレーシア人にとってシンガポールは近しく慕わしい国ではあるが、実は無邪気にいだき合えない一面もある。

 英国からの独立をマレーシア連邦の一員としてスタートさせた此の島は、だがその僅か二年後にマレーシアと袂を分かつ。しかもそれはマレーシアからの追放と云う形だった。理由は此処でも民族間の問題だ。連邦の進めるマレー人優遇政策にシンガポール州は反対し、華僑が優勢のこの島を、連邦政府は危険因子と判じた。独立後二年にしてついに両国はわかたれた。時の首相リー・クアンユーは人目を憚らず落涙したと云う。


 世紀をあらためた今も両国民はさながら離婚した元夫婦の如く、そのおもいには愛憎が半ばする。三行半みくだりはんを叩きつけたマレーシアの人々は、嘗ての伴侶が世界有数の富裕国へと発展していくのをどのような気持ちで見たのだろうか。



 領土を接していれば衝突の材料に事欠かないのは何処いずこも同じだ。

 例えばシンガポールでは水の自給は望めずマレーシアからの供給に依存しているが、その価格の高いやすいで度々揉める。揉めはするのだが軍事的解決を持ち出すことはない。或いは領海の拡張を互いに目論み紛糾したこともあったが、これも両国外相の直接協議で解決している。

 前述の通り、両国の間に遺恨がない訳ではないのだ。それでも領土やライフライン確保のような愛国心ナショナリズムを刺激する微妙な問題でさえも、建設的に武力行使なしに解決を図ることは可能なのだと、隠れもなき実例が雄弁に語っている。それは廿一世紀の人類社会への福音と思えてならない。その根底に両国民の同胞意識が大いにあずかっているにしてもだ。



  * * *



 海沿いを行くタクシーから外を見ればもう陽は海にしずんで、代わりに街の灯りを浪は映し、ひるに劣らず綺羅々々しい。遠く無数の高層ビルの耀きがぼやけて瞬くようなのは生温かい海風の所為だろう。整然とした近代都市のよそおいについ忘れがちだがここは赤道直下、其処彼処そこかしこに熱帯雨林のしるしがある。それは嘗て永遠の夏を謳歌したジャングルの栄華の残滓なのか、それともいずた人類を凌駕し緑の帝国を築こうとする萌芽なのか。


 ビルの陰に、道路の脇に、無機物如きに屈服するとは思いもよらぬ永劫無窮の生命たちが、人工物の浸食など知らぬ顔で思い思いに枝葉を伸ばしている。今にもそれはジャングルへと育って、熱帯雨林の近代都市を飲みこみそうだ。猿と鳥との啼き声の向こう、鬱蒼と茂る密林の奥、象と大蛇とにまもられ無数の蔦を身にまとわりつかせたいにしえのビルディング群は睡りにつくことだろう。


 月も見えぬ夜に白昼夢でもなかろう、ならばこれは狐狸の仕業か。だが宵の幻に化かされたのは私ではなく、寧ろ南国の獰猛で素朴な動植物たちが、突如楽園に現出した摩天楼にたぶらかされているのでないとは如何どうして断じられよう。


 カボチャの馬車が連れてきてくれたのは海鮮レストランだった。舞踏会のお城とはいかないが、ありとある窓から煌々と光の零れるさまは、海に泛ぶ不夜城のようだ。

 席に案内された我々はチリクラブとフィッシュヘッドカレーを頼んだ。

 先ず運ばれてきたのはチリクラブ。殻を割られた蟹が一匹まるごとチリソースの中に浸かっている。蟹は沼地にでもいそうな重厚な躰つきだ。堅固な甲羅は鮮やかな朱の地に白い斑点で彩られている。チリソースにまみれた殻から身を取り出すのには難儀するが、味はその労苦に酬いるに十分だ。

 蟹と格闘するうちフィッシュヘッドカレーも届いた。マレーシアとも共通の、マレー・中華・インド三民族の味が融合した傑作料理だ。魚のカシラをメインに煮込んだカレーと云えば想像戴けるだろうか。無論カレーにはココナツミルクがたっぷり注入されている。


 日本へ発つ前の最後の罰に、アイスカチャン(マレー風かき氷)を頼んだ。氷の中にはカチャンを始めゼリーに果物、ナッツなどが一面に入って、色とりどりと賑やかだ。いささか賑やか過ぎて、このかき氷は日本の夜祭りには似合いそうにない。だが彼らは風流などは歯牙にも懸けず、南の島では幾らあっても餘るということのない水気とエネルギーを摂取する。



 シンガポールは東南アジア最大の金融センターであるだけでなく、海路に於いては物流の一大集散地でもある。そして、シンガポール空港は世界有数のハブ空港だ。アジアの玄関口であり、南北の半球を繋ぐ結節点でもある。

 それを可能にしたのが一つにはインド洋から太平洋へと船が抜けるならば通らずには済まない要衝であった優位性を、大英帝国統治の下あますことなく活かし発展させ盤石にしたことだがそれだけではない。三民族が混じり合わずとも共存する社会、それにシンガポールとマレーシアとの関係を見れば、誰もが今の地位に得心いくだろう。


 空港内を歩く人々の姿は様々だ。アジア人が基調をなすなか、色素の薄い欧州系に、黒い装いの中東人、はだ色の濃いアフリカ系も、各国料理や各種ブランドの店の前を次々通り過ぎていく。


 シンガポール・マレーシア両国に於いても民族間の対立はあった。暴発した衝突の為に命を落とした者もいた。その真相に強引に蓋した政府の処置が公正だったとは無論云わない。だが仮に全てを白日の下に曝せたとして、半世紀前の怨みが呼び覚まされ、新たな火種が新たな犠牲者を生むならば、その真実は何の為なのか。追究を進めることに迷い躊躇う者たちを、誠実でないと断じることは私には出来ない。今はだ、彼らの尊い犠牲の上に現在の平安が築かれていることに想いを致し、静かに祈り、平和を誓おう。


 空港内を彩るのは数えきれないほどの蘭の花だ。シンガポールが国花とする蘭は東洋では四君子のひとつとされており、君子の道を説いた儒教思想がシンガポール要人の言動に垣間見えることと思い合わせると、不思議な縁を感じる。

 ところで空港を歩くと蘭の白と紫とに強烈に印象づけられるのだが、実は空港内で見るべき植物はこれだけではない。

 屋上に庭園、屋内には植物園もあって色とりどりの蝶が舞い、巨大な瀧さえ現れる。種々の動植物が同居し調和する様子さま宛然さながら地上に楽園が現出したかのようだが、実際の自然では熾烈な生存競争が日々行われているのもまた事実だ。

 自然は決して生易しいものではない。人間世界もまた


 或る人々は人種民族の壁を取り払い交じり合うことを佳とした。また或る人々は民族の純血を守ることが道だと信じた。何が正解と云うものではないのだ。だ一つ、如何なる血も尊く、断じてにじってはならぬとさえ心得ているならば。

 穢れた血などと云うものは此の世に存在しない。卑しい血も、醜い血もだ。してや浄化すべき血など。

 人殺しの血であってもか――人が問うなら、私は応と答えよう。だからこそ、復讐の手を下すのは私一人でい。



 日付が変わろうとする時刻になって日本への便は飛び立った。

 夜間飛行で窓から地上を確かめたければ、街の灯だけが頼りだ。真っくらな大洋に光の島が浮かびあがる。島そのもの、国そのものが世界有数のハブであり、多種多様な民族と文化の交差点であるシンガポール。

 次第に遠ざかる光を私は瞼に焼きつけ、楽園の余韻に別れを告げた。




(マレーシア・シンガポール編 了)

(完)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界の車窓から殺し屋日記 久里 琳 @KRN4

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ