第39話 六日目① ~国境~


 頭の芯に刺さる疼痛とともに目が覚めた。仕事の次の朝はいつもこうだ。昨夜私が罪人の魂を一つ泉下へ送った代償だというなら、甘んじて受けるのが正当なのだろう。寧ろたいてい半日ほど町歩きするうち雲と散じ霧と消えるささやかな懲罰では軽すぎると、天の寛仁に恐れ入るべきなのかもしれない。


 兎も角今は活動するときだ。着替えてホテルの庭へ出た。雀の囀りが聞こえるのに誘われ、中庭の扉を開けると、廂の下に二十羽ばかりの雀が群がっている。

 群がっていた雀たちは飛び散った。ふと見れば、足下には無数の小さな虫のはねが残されている。さらに目を凝らすとその翅を落とした蟻たちが床一面に蠢いている。羽アリの渡る季節だったのだ。私が無害だと判断したのか雀が一羽、また一羽と戻ってきた。翼をなくした蟻たちに逃げる道はない。

 蟻の地獄は、雀の祭り。年に一度の大漁に雀たちは沸きたっている。


 自然界は命のやりとりが明快で、憎しみも憐れみも、躊躇いも後悔もないからい。そこに正邪の判断や感傷の入りこむ余地はない。


 私も生をやしなうべき時だろう。背に負う罪が重かろうとも、生きている限りは食べなければならない。

 向かった屋台でナシゴレンを注文した。マレー風焼き飯だ。レストランやホテルで出てくるものとは違って、シンプルで素っ気ない見た目だが、味はしっかいてほどよく辛い。えびに貝に野菜も種々いろいろ、卵がまぶされ十分以上の具沢山だ。

 卓子テーブルにはチリソースが置かれている。ケチャップ代わりに使われることも多い、マレーシアでは最もポピュラーな卓上調味料だ。


 食べ始めは食事に気が進まず、香辛料の馨る米飯を喉に通すのも苦行と思えた程だが、そこを我慢して二口、三口と抛りこむうち食欲が勝って、気づけば完食していた。この香辛料が曲者なのだ。舌の上では辛味と旨味を巧みに演出して、しかも喉奥へと吞み込んだ後は喪失感を掻き立てて、早く次をとすかさず煽る。

 食べ終えた時には心の荷駄は随分軽くなっていた。食事が滋養で満たすのは臓腑の飢えよりも、寧ろ心のかつえなのかも知れない。


 飲料は敢えてテータレッを自らに課す。極甘のミルクティーはナシゴレンとの相性が好いとは云い難いが、罰を求める心には最も適した凶悪な飲料だ。「引っ張る茶」の意のテータレッは、茶に練乳を注いだあと空気を含ませるため二つのコップの間を行ったり来たりさせる様子さまが、茶を引っ張るようだと云うのでついた名だ。曲芸のような技で作られたミルキーな茶はたっぷり泡を含んで、泡のひとつぶひとつぶがいちいち舌に、水気より先に甘味を届ける。



 今日は陸路シンガポールまで移動し、そこから夜行便で日本へ戻る計画だ。海峡と国境をまたぐとは云え強固な橋で結ばれた両国は殆ど陸続きと云ってよく、通勤で毎朝毎夕多くの人々が両国の間を往き来している。

 旅は半日がかりだ。仕事をえた以上はポーリィさんにアテンドする義務は最早ないのだが、鉄道で半島を南下し海峡を越える旅は彼女も経験がないとのことで、面白いからといてきて呉れることになった。勿論私にいなやはない。現地事情に通じた旅の伴侶みちづれが在るのは心強いうえに心楽しい。


 KLセントラル駅から列車に揺られ半島最南端へ向かう。弥々いよいよ赤道も近い。鉄道が切り拓いて進むのは数多の生命が繚乱と咲き誇る、剥き出しの自然の帝国だ。太陽に愛された楽園に生きる者たちの頭にあるのは持続可能サステナブルな生命の調和ではなく、カンブリア紀以来の弱肉強食の世に他を圧して千年王国を築かんとする陽気な野望だ。

 左右に迫る圧倒的な緑の合間に、赤や黄色の花が人々の目を愛撫する。ハイビスカスに蘭に、さまざまな果実。堅く巨大に熟したジャックフルーツは今にも落ちて、自身割れるか、そうでなければ樹下の人の頭を割りそうだ。線路脇の木に朱く色づいたランブータンの実が、今ぞ食べ頃と自ら売り込みをかけている。

「持ってきましたよ」

 自分でも気づかぬ間に私は物欲しそうな表情かおでもしていたのか、ポーリィさんが袋を膝のうえに開いた。中には真っ赤に熟れたランブータンがたっぷりだ。


 一見RPGのモンスターのモデルにもなり得そうな毛だらけのランブータン「毛の生えたもの」果実は、意外にもライチに似た上品な味をしている。皮を剥くと弾力ある半透明の白色の果実が現れ、指に零れた果汁を舐めるとほんのり甘い。南国の果物は実に多種多様だ。マンゴーやパパイヤの如く舌を痺れさせるほど甘いものからスターフルーツのように素朴な甘さのものまで、或いは唯一無二の香気と風味を以って果物の王様と畏れ敬われるドリアンも。

 因みにドリアンは餘りに強烈過ぎる香りのために、多くのホテルで持ち込み禁止とされている。偉大なる王は、敬して遠ざけられる宿命にあるのだろう。


 王様と云えば、あまり知られてはいないがマレーシアには国王がいる。世にも珍しい、互選制で選出される任期五年の王だ。九つの州にスルタン(州に依っては違う名で称される)が在り、その中から一人が五年毎に国王アゴンに選ばれる。名目は互選制だが実態は輪番制で、権謀術策とも詭計奸計とも縁なく平和裡に代替わりは行われているらしい。



 今日も午餐おひるは列車の中で。

 ポーリィさんが買い込んでくれていたのは、私のリクエストに応えてスイーツのフルコースだ。如何ほどの甘味好きかと呆れたろうが、ご飯を抜いてのスイーツがまさか自らに処す罰であるとは、彼女は夢にも知らぬ。


 揺れる座席にならべられたのはマレー、中華、インドと三民族の、バラエティ豊かなスイーツたちだ。

 揚げバナナピサンゴレン、ホットケーキ風のアパムバリッ、色とりどりのケッラピス、外郎ウイロウ風のクエラピス、バナナの葉にくるんだコチ餅。何れもマレーの菓子だがどこか中華風の面影を漂わせている。

 此の国では三民族の混融は百年一日の如く進まない一方で、食は無軌道なまでに奔放に混じり合う。如何なる文化に於いても美食の追求は人のまざる欲求であって、その情熱を前にしては民族間に横たわる怨恨や敵愾心さえ無力なのだろう。人の欲は時に他人を蹴散らして戦のもとともなるが、時に人々の間を繋ぐ役も果たすらしい。


 インド系のお菓子と云えばムルックが好い。一見レンコン風の揚げ菓子で、スパイス薫り、甘さ控えめ。この形、この味に接すると、インド系マレーシア人最大の祭礼であるディパバリを思い出す。


 マレーシアではイスラムを国教としてはいるが他の宗教を禁じている訳ではない。それぞれの重要な祭日は尊重され、国の休日と定められている。

 マレーは断食明けアイディルフィトリ巡礼ハッジふたつの大いなる日ハリラヤ、華僑は旧暦正月、印僑にはディパバリ、それにキリスト教徒(一定数のインド人はキリスト教に帰依している)にも配慮してクリスマス。民族間の宥和と調和が国家の健全な発展のために必要だと、政治家も国民も知っていればこそだ。



 マレー半島最南端、ジョホールバルに到着した時にはもう日もれかけていた。殆ど陸続きと云っていほど狭い海に隔てられた対岸には、シンガポールの街が灯りを燈しはじめている。残照に海原が淡く染まり、夕空には無数の海鳥が舞う。

 国境を越えるのだから出入国手続きは当然必須だ。まずはジョホールバル駅で出国手続きを行い、電車に乗りこむ。海を渡ったウッドランズ駅で降車し、今度はシンガポールの入国手続きを行う。毎日大量の越境者を見ている係官達は手慣れたものだ。


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